第7話 揺れ動く心


「琴音。本当に家まで送って行かなくて大丈夫か?」


 都季をアパートに送り届け、魁と琴音はそれぞれの家に帰るために歩いていた。都季に関しては月神が戻ってきたため、一人にしていても問題はない。

 だが、中央通り方面への別れ道で魁が琴音についてくる気だと知った途端、琴音は足を止めて「大丈夫」とやんわりと断った。

 それでも不安げな顔をする魁に、琴音はもう一度、念を押すように言う。


「平気」

「でも、警邏の奴も襲われてるんだし、俺達だって……まぁ、今回の件に限らず狙われるかもしれねぇし」

「今回の件に限らないなら、いつものことだし、それに……少し、一人で考えたいことがあるから……今日は、大丈夫。ありがとう」


 どこか重い空気を背負った琴音に言われ、食い下がっていた魁も引くしかなかった。

 小さく息を吐いて、自身のマンションへと進む道に一歩踏み出して振り返る。


「そっか。じゃあ、何かあったらすぐに呼べよ」

「うん。魁も」

「ははっ。そうだな。んじゃ、また明日! 気をつけてな!」

「またね」


 人懐っこい笑みを浮かべた魁は、もう振り返ることなく歩いていく。

 その背に小さく手を振ってから、琴音も再び足を動かした。

 魁がいたときは気にならなかった静けさは、たまにすれ違う通行人の心を強調させる。普段、能力は制限しているものの、何も聞くものがないと無意識のうちに拾ってしまうことがあるのだ。そのため、気を抜けば瞬く間に心の騒音に呑まれそうだった。

 疲れや諦め、これから先にある不安などから、小さく溜め息を吐いた。


(更科君、どんどん上達してるな……)


 周囲の音を拾わないよう、琴音は意識を他事へと逸らせる。途端に、微かに拾っていた「声」は遠ざかっていった。

 都季はバイトが休みの日は大抵、局で特訓を行っている。さらに、自宅では月神と一緒に術についての基礎を学ぶこともあると言っていた。局に行ったとき、偶然、顔を合わせた才知や蒼姫も、最近の都季の成長は著しいと褒めていたほどだ。

 また、魁はそんな都季に付き合って特訓をすることが多く、悠も自身が起こした事件があったとはいえ、今まで以上に働いている。

 それに対し、果たして自分は何が出来ているのだろうか。何か成長はしているだろうか。

 ふいに孤独感に襲われそうになった琴音は、頭を振ってそれを思考の奥へと追いやった。


「……大丈夫。私はまだ、やれる」


 自分を鼓舞するように呟いた――その瞬間だった。

 行き交っていた通行人が、走っていた車が、点滅していた横断歩道の青いランプが、空を飛んでいたカラスが、ピタリと止まった。

 写真の中に入り込んだような錯覚すらしてしまう光景の中、唯一、琴音だけが切り離されたように自由に動けていた。


「な、に……?」


 今までも静かではあったものの、車の音や風の音、近くの民家から漏れ聞こえる生活音はあった。だが、今やそれらすら聞こえなくなった完全な無音。

 ただならぬ事態に、琴音は警戒心を最大まで引き上げながら辺りを見渡す。周囲を止める程の大きな霊力の気配は、相手が巧妙に隠しているのか感じられない。

 すると、近くの街路樹に一羽のカラスが留まっていることに気づいた。身動きひとつしないカラスは、一見すると他のものと同じく被害を被った側だ。

 しかし、耳を澄ませていた琴音は、微かに届いた「音」を聞き逃さなかった。止まった人間からは聞こえない、「心音」を。


「――宝月、制限解除。形態、神器」


 口早に唱え、神器である小刀を両手に構える。そして、未だ動く気配のないカラス目掛けて地を蹴った。


「ふっ!」


 飛び上がった琴音の姿がカラスの黒い瞳に映る。

 微動だにしなかったカラスだったが、刀身が体を薙いだ瞬間、その姿はかき消えた。


「!?」


 切った感触はない。あるとすれば、空気の塊を裂いたような抵抗があったくらいだ。

 一旦、木の根本に着地をし、再び辺りを見回す。

 カラスに感じた嫌な気配が様々な方向から飛んでくるが、その主は見当たらない。隠れられる場所は、せいぜい民家の影か木の上くらいだ。しかし、そこに意識を集中させても実体が掴めなかった。


(まるで、力の残滓を残して、本体がどこかに行ったみたい……)


 感じ取った気配はどれも似通った力を持っており、鏡に映されたものか影のようにも思えた。

 世界はまだ活動を取り戻さない。周りが止まったのではなく、自分が置いていかれているのかと錯覚してしまいそうだ。

 警戒心を保ったまま、心を落ちつかせようと小さく息を吐いた。

 ほぼ同時に、無音だった世界を青年の声が切り裂く。


「ははっ! 兎は兎でも、とんだ凶暴兎だなァ!」

「っ!?」


 頭上から降ってきた声に、琴音は木から離れながら見上げた。

 先ほど、カラスが留まっていた枝に、まるで最初からそこにいたかのように青年――ルーインは座っていた。


「よう。久しぶりィ」

「……あなたが、警邏を襲ったの?」

「どうだかなぁ。俺はただ、“可哀想な迷子の依人”に、『行きたい場所ややりたいことは、“迷っていない依人”に聞けば分かる』って教えただけだぜ」


 「迷子の依人」とは、つまり破綻者のことだろう。にやにやと笑みを浮かべるルーインは、破綻者だと知った上で健常な依人にけしかけている。それがどういう結果になるのかも。

 手を下したのが別の依人とはいえ、元凶はルーインで間違いない。また、彼の言い方では、『聞く相手』となる依人は無差別だ。


(更科君の先輩さんも、きっとこの人にやられたんだ)


 ルーインの関与は薄々は気づいていたが、本人の口から事情を聞いて確定した。

 早く知らせなければと思うと同時に、どうやって彼から逃げるかを考える。この停止した空間は、花音のように隔離された別空間なのか、それとも彼の能力で時が停止しているだけなのか。

 最も良いのは彼を倒してしまうことだが、生憎、今の琴音にそれほどの力はないと自分自身が理解している。

 隙を伺いつつ、琴音がじわりと下がったときだった。


「それにしても、ここはいい町だなァ」

「……?」

「他の土地に比べて、依人が断然多い。つまり、それだけ仲間になる可能性があるやつも多いってことだ」


 その昔、人間が依人を恐れて一ヶ所に集めたことで、この町には依人が多い。当時に比べると数は減っているが、それでも他の町より多いのは事実だ。

 争いの後、人々の記憶から幻妖世界に関わる事は消したが、依人や幻妖を消したわけではない。当時の名残だけでなく、神降りの木や局があることも相俟って、依人は大半がこの町で暮らしている。

 また、血統組以外の依人は、そのすべてに破綻の可能性があるため、級位が高くとも注意が必要だ。

 ルーインの発言で、彼がやろうとしていることが何かと気づき、愕然として声を上げる。


「まさか、依人を破綻させようと……!?」


 もし、血統組以外の依人が破綻すれば、事は十二生肖だけでは治められない。今は半分となっている月神の力をすべてこちらに集め、対峙するしかなくなる。そうなれば、巨大な歪みが発生し、周囲に多大な影響を及ぼすことになるだろう。

 それは、起因こそ違えど、かつて起こった事件を彷彿とさせた。


「もしそうなったら、この町だけでなく国が傾く。『破幻事件』の再来だ」

「さ、させない!」


 想像した琴音は思わず戦慄した。

 声は震えてしまったが、小刀の構えは解かずにルーインを見据える。心臓の鼓動が早く、心音がやけに耳に響いた。

 余裕のない琴音を前に、ルーインはやれやれ、とわざとらしく溜め息を吐いて言った。


「言うと思ったぜ。でもな、お前一人じゃ無理だ」

「私には、更科君達が――」

「いいのかなァ? そんなことして。わざわざ、俺から遠ざけてるっていうのに」

「え?」


 ルーインが意味深な笑みを浮かべた。

 嫌な予感に胸がざわつく。

 ふいに、魁と月神の会話が蘇った。


 ――我の器が都季にある限り、あやつは一級継承者になろうとも、常に破綻の危険と隣り合わせのままだ。


 ――慣れるが早いか、力が枷を壊すのが早いか……。


 各組の中で、その力別に振り分けられている級。その最上位である一級になると、破綻の可能性からは最も遠い。必ずしも破綻しないわけではないが、破綻する可能性も極めて低い。

 だが、『月神』という大きな力を身に宿す都季の場合は、その例には入らない。器に入っているとしても、影響は少しずつある。

 ルーインはたった数回会っただけで、都季の状態に気づいたのだ。


「アンタ、耳が良いから知ってるはずだ。あの『器』は、壊れるかどうかの瀬戸際にあるってことを」

「!」

「『霊力の塊』をぶちこまれたら、どうなるかなァ?」


 酷く愉しげなルーインの言葉に、琴音は計り知れない恐怖を抱いた。同時に、都季の状態を知られている以上、なおさら、彼を都季に近づけるわけにはいかないとも思った。

 最も、都季には誰よりも強い存在が近くにあるため、ルーインが言うことを実行するのは難しいが。


「できるはずがない。だって、更科君には月神が――っ!?」


 滲んだ僅かな殺気に本能が危険を報せる。咄嗟に地を蹴って下がれば、先ほどまでいた場所に、いつの間にか迫っていたルーインが拳を叩き込んだ。

 見えない霊力を纏って打ち込まれた地面が大きく抉れた。


「あんな中途半端な力しか使えねぇ今のアレに、俺は負けねェんだよ」


 笑みを消したルーインは、憎悪に満ちた表情をしていた。

 ルーインは月神の力を知っている。だからこそ、月神を危険視していたのだが、久しぶりに会った月神はどういうわけか、十分な力を持っていなかった。その上、器を宿す少年はあの巫女の子供。

 退けられた当時を彷彿とさせる組み合わせの上、巫女の子供がまだ月神の力を引き出しきれていないと知ったときは喜びに打ち震えた。


「またとない好機を、誰が見逃すかよ」

「更科君は月神の力を使えるようになる。そうしたら、あなたがやろうとしている事も、必ず止められる」

「はっ。随分と他人任せな言い方だ。十二生肖の名が聞いて呆れ――ああ、そうかァ」


 鼻で笑ったルーインの言葉も最もだが、琴音は言い返すだけの実力を兼ね備えていない。

 ぐっと堪える琴音を見て、ルーインがまた不敵に笑んだ。


「お前、『代理』なんだってな?」

「っ! どうして、それを……!」

「明かしたら面白くないだろ? まぁ、日本語で言う……ええと、『壁に耳あり、障子に目あり』とかってやつ?」


 ルーインが言ったのは、月神と琴音、そして、琴音が敬う一人のみが知っている事だ。琴音は勿論、月神やその人物が誰かに言ったとは考えにくい。

 困惑する琴音に、ルーインは言葉を続ける。


「俺を止めたいならやればいいさ。ただし、お前一人でな」

「そんな……」

「もし、俺の動きを周りに伝えるような真似をすれば、本当の“卯”を殺す」

「っ!」


 どくん、と心臓が一層大きく跳ねた。

 ルーインは本気だ。それでも、十二生肖であるならば、自分の身を擲ってでも都季を守るべきなのだろう。

 だが、それによって亡くなる者を考えると、手足が震えてうまく動かせない。

 琴音にとって、どちらも同じくらいに大切で守りたいものだ。


「じゃあな。小さな兎チャン」


 愕然と佇む琴音に軽く言ったルーインは、一瞬にして姿を掻き消した。

 張り詰めていた空気がなくなり、糸が切れた操り人形のように、琴音はその場にへたりこんでしまった。


「私、だけで……」


 孤独と絶望が押し寄せる。

 これが、卯の力をきちんと操れる者であれば……と、未だ本領を発揮できないことを悔やむ。同時に、やるせなさでどうにかなってしまいそうだ。


「……っ」


 俯き、地面の上で手を握りしめる。視界が滲み、舗装された灰色の地面に黒い円が一つ、二つとできた。

 手首に着けたブレスレットには、水晶玉が一つと緑玉が二つある。しかし、本来であれば伝わってくるという緑玉の――「神使」の鼓動は感じられない。


「私が、『選ばれていない』から、なの……?」


 他の十二生肖は、呟きにも神使が答えてくれると言っていた。だが、琴音には一切聞こえてこない。他者の心は聴こえても、神使の声は聞こえないままだ。

 どうしよう、と途方に暮れる琴音は、ふと、視界の隅に入り込んだ白い足袋と赤い鼻緒の草履に気づいた。


「……狐さん?」


 琴音の真正面に立ち、黙って見下ろしていたのは刻裏だ。

 本来ならば彼を捕らえなければならないのだが、なぜか、今は彼を捕らえてはいけないと思った。

 琴音は金色の瞳を見上げる。敵意も殺意も好意も、琴音に対する関心すら感じられない。

 しかし、やや間を開けてから、金色の瞳が僅かに細められた。


「とある白兎は、別世界へ一人の少女を誘った」

「?」

「とある白兎は、対岸へ渡るために他者を偽った」

「……何が言いたいの?」


 覚えのある物語を述べる刻裏の意図が分からず、思わず怪訝な顔になる。

 刻裏は小さく口元だけで笑むと、右手を僅かに広げた。手の周りに燐光が漂いはじめ、刻裏の右手に収束していく。やがて、一振りの刀が具現化し、夕陽を反射した刃が冷たく輝いた。

 その切っ先を琴音に向ける。


「お前は、『導く兎』か、『騙る兎』か。どちらかな?」

「…………」


 何も感じられなかった刻裏の瞳に、剣呑な色が混じった。

 刻裏は都季を気に入っている。そのため、下手なことをすればまず彼が黙っていない。突きつけられた刀がそれを物語っている。

 唾を飲み、琴音は言葉を選びながら口を開いた。


「わ、たしは……」


 ――もし、俺の動きを周りに伝えるような真似をすれば、本当の“卯”を殺す。


 過ったルーインの言葉で、次の言葉が出てこなかった。敵に加担するような真似はしたくない。しかし、事情を話してしまえば、都季と同じくらい大事な人に危険が及ぶ。

 例え、十二生肖が手を焼く刻裏がそばにいるとはいえ、相手はかつて破幻事件に関わっていたと思われる破綻者だ。油断はできない。

 琴音は感情を押し込めるように奥歯を噛み締めると、ゆっくりと言葉を続ける。


「私は――」


 すべてを聞いた刻裏は、躊躇いもなく刀を振るった。



   * * *



 まだ通行人の顔がはっきりと見える夕方の陽射しを避けるように、ビルとビルの合間の薄暗い路地裏に体を滑り込ませる。

 人がすれ違える程度には幅のある道は、従業員用の出入口らしき小さめの扉やゴミ箱が置かれていた。

 やや遠退いた雑踏の音をBGMに、ルーインは唄うように言う。


「小さな小さな子兎チャン。キミはどこへ行くのだろう?」


 続きのありそうな歌詞だが、彼は口を閉ざして片腕を少しだけ持ち上げた。

 すると、まるで影から這い出たかのように、漆黒の烏が音もなく腕に留まった。

 一度鳴いた烏の頭を撫でてやりながら、ルーインは路地裏の奥へ視線を向けた。

 路地裏の先は別の通りに出るのか、細長い光が天へと伸びている。その手前に、道を塞ぐようにして立つ人影があった。


「よう。元気ィ? 狐クン」

「…………」


 見覚えのある姿に、ルーインは軽く片手を挙げて呼び掛けた。

 だが、狐――刻裏からの返事はなく、代わりに足元の小石が地面と擦れる音がした。


「この間は、うちのペットに手厚い躾をしてくれたようだな」

「あんな場所で暴れられては困るからね」


 先日、刻裏は一匹の大蛇を斬った。ルーインが送ってきたものだと知った上で。

 嫌味を含んだ言い方のルーインに対し、刻裏は悪びれた様子もなくさらりと返す。

 想定の範囲内ではあるものの、幻妖である刻裏の言動を小さく鼻で笑った。


「アンタ、幻妖のクセに人間の味方をするんだ?」

「いいや。私は人間の味方になったつもりはないよ。私は――」


 狩衣の影で見え隠れていた刀の切っ先がルーインに向けられる。

 その刀身には、まだ新しい赤い血が付着していた。


「『一人の人間』の味方になっているだけだ」

「家畜に成り下がった分際で格好つけちゃって。で、俺も始末しに来たってワケ?」


 刻裏が先ほどまで誰といたかは知っている。付着した血が誰のものかも。

 しかし、刻裏は侮辱の言葉でさえ微塵も気にした様子もなく、刀を一振りして血を払うと、あっさりと言ってのけた。


「いや、始末をするのは私ではない。してやってもいいが、そうなるとまた厄介事が増えるだけだからね」

「は……?」


 刻裏の表情に揺らぎはない。

 ルーインが徐々に敵意を強めても、刻裏は涼しい顔のままだ。


「ひとつ、予言をしてやろう」

「ふぅん?」

「これが『最後』だ」


 それだけを告げて、刻裏は姿を消してしまった。

 一人残されたルーインは、忌々しげに舌打ちをして吐き捨てた。


「最初っからそのつもりだっつの」




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