三章 窮鼠を救う者

第1話 過去に囚われたまま


 午後の授業の開始を告げるチャイムが、青く澄み渡る空に響く。

 春も終わりかけの今、体を暖める日差しは少し強くなっているように感じた。

 屋上で寝転がりながら空に漂う白い雲をぼんやりと眺めていた悠は、本来ならばこんなにのんびりとしている場合ではない。どんなに退屈であろうと教室にいなければならない時間だ。


(なんで、もう解ってる事を勉強しないといけないんだ)


 まだ中等部に上がって一ヶ月程度だが、勉強する教科は初等部の頃より増えている。

 だが、悠は一般の学生とは異なる事情で、義務教育の内容はほぼ理解していた。

 心の中でぼやきながら大きな溜め息を吐く。

 今年に入ってすぐに行われた『儀式』以降、周りの同級生や数個上の先輩ですら子供に見えた。

 もちろん、悠もまだ『子供』に入るが、得てしまった知識により、精神年齢が成人をとうに過ぎた感覚だ。


 ――昼寝でもしよう。


 そう決めて目を閉じたとき、ジャリ、と耳元で小石とコンクリートが擦れる音が聞こえて再び目を開く。

 青空と白い雲を背景に、一人の少女が悠を覗き込むように見下ろしていた。

 迂闊だった。近づく気配にまったく気づけないほど、ぼんやりとしてしまったようだ。


「…………」

「見ーつけた」


 言葉を失ったまま驚く悠に、少女はかくれんぼの鬼でもしていたかのように軽く、無邪気な笑顔を浮かべて言った。

 一方の悠は、すぐそばに来ていた彼女に気づかなかったことや、他人にからかわれた感覚に小さな苛立ちが募るのを感じつつ、上体を起こして隣にしゃがむ少女を睨む。


「……何か用?」

「子峰君、予鈴が鳴っても戻ってくる気配がなかったから、保健室行く振りして探しにきちゃった」

「あっそう。じゃあ、見つかったんだから、保健室行ってくれば?」

「子峰君は?」


 悠は、睨みにも怯まない少女がクラスメイトであることを、彼女から言われて気づいた。クラスメイトだけでなく、同級生とまともな会話をしたのは中等部に上がってからだとこれが初めてだ。

 冷たくあしらわれても友好的な姿勢を崩さない彼女に、居心地の悪さを感じる。

 ふと、悠は今までの交友関係の中で向けられていた眼差しを思い出した。


「あのさぁ、僕が『芸能人』だから近づきたいの? だとしたら甘いよ。そういうの、嫌いなんだ」

「うわ、ストレート。でも、残念でしたー。私、芸能人には疎いんだよ。もうお仕事してるなんてすごいなぁとは思ったけど」

「意味分かんないんだけど」


 驚きと感心の混じる表情になったかと思えば、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべる。

 コロコロと変わる表情にこちらのペースが崩されていく。

 苛立ちが呆れに変わった悠は、二度目の溜め息を吐いた。


「こんな所で寝るより、保健室で寝たほうがいいよ」

「なんなの、君……」

「私? 私は『橘ミオ』。子峰君の隣の席」

「会話が噛み合ってないし、知らない」

「だと思う」


 大抵の人には能力で記憶を操作して遠ざけさせていたが、中には能力で押さえきれなかった好奇心を抱いて近づく人もいる。最も、冷たい態度を取ればすぐに去っていくことがほとんどだが。

 尊敬と憧憬、好意の眼差しが、一瞬にして軽蔑や幻滅、嫌悪へと変わる。その上で能力を使って書き換えれば、『芸能人』としての顔に傷をつけられることもない。

 手間はかかるため、本来ならテレビに出ているときのように猫を被ればいいだけのことだが、それを私生活でも続けると疲れてしまう。

 だからこそ、最初から遠ざけて他人との関わりを極力持たないようにしているのだ。


「エスカレーターの子以外にも新しく入ってきた子がいるし、自己紹介は皆一気にやったもん。なかなか覚えられないよねー」

(いや、僕は覚えようと思わないだけなんだけど)


 クラスメイトの顔と名前どころか、全校生徒の顔と名前と住所はやろうと思えば覚えられる。「知らない」と言ったのは、彼女が諦めて帰ると思ったからだ。

 少女のずれた見解を内心で訂正する。口に出さないのは、理由を話すと面倒なことになりかねないからだ。

 そんな悠の思いを知る由もない彼女、ミオは、人懐っこい笑みのままで言った。


「じゃあ、もう一回自己紹介ね。名前は言ったから……誕生日は八月八日。『末広がり』って覚えてね。血液型は大雑把なO型で、部活は帰宅部だよ」

「へぇ」


 覚える気はない。余分な記憶は排除したいのに、『あの日』から頭は勝手に情報を記録していく。

 ずきん、とまだ成長途中の脳が悲鳴を上げた。

 彼女から視線を外し、僅かに歪んだ表情を隠す。

 頭痛に気づかなかったミオは、こてんと小首を傾げて問う。


「子峰君は?」

「……学生以外は俳優」

「誕生日は?」

「二月五日」

「血液型は?」

「AB型」

「やっぱり」

「知ってるなら答えさせないでよ。めんどくさい」


 まるで取材のような質問攻めに、頭痛も相まって疲れが押し寄せた。

 三度目の溜め息を吐きながら、右手でこめかみを押さえる。

 ミオはミオで、悠の素っ気ない答えにもやはり怖気ない。


「だって勘だもん」

「君のほうがAB型って言われない?」

「なんで?」

「変」

「ありがとう?」

「意味分かんない。なんでお礼言ってんの」


 普通ならば怒っていいところだ。それは本人も気づいているらしく、感謝の言葉もやや疑問系だ。

 しかし、その感謝の理由はしっかりとあった。


「だって、『変』も個性でしょう?」

「はぁ?」

「世間一般とは違うから“変”なんでしょ? 特別な感じがしていいじゃない」



 ――無邪気な笑顔で、裏などなく純真な気持ちで言った彼女の言葉が、『世間一般』とは違う僕を救った気がした。

 なのに、世界は無情にも彼女を簡単に攫っていった。




「…………」


 夢だとは最初から気づいていた。

 それでも、あともう少し……本音を言えば一生見ていたかった。

 今、視界に広がるのは青空でも雲でもなく、無機質な白い天井と蛍光灯。白いふかふかの布団は自宅のものではない。

 現実への嫌悪感から思わず溜め息を吐けば、両隣から二つの影が視界に入ってきた。


「目ぇ覚ましたか? 悠」

「具合どうだ?」

「…………」


 夢とは違い、現実で覗き込んできたのは顔見知りの魁と紫苑。魁はいつもと変わらないが、紫苑の表情には心配の色が浮かんでいる。

 ミオという少女と違って同性二人に覗き込まれた状況に、早くも二回目……夢から換算すると五回目の溜め息が零れた。


「寝起きに野郎の顔を見た今ほど嫌な気分はありません」

「よーし、もう一回寝るか」

「よせって! ケガ人なんだから!」

「いや、俺もケガ人なんだけど」


 相変わらずの悪態に魁が右袖を捲って拳を作る。それを慌てて紫苑が止めた。

 彼は魁の非難を流し、悠の身体を案じてか困ったような笑顔で言った。


「お前、今朝、局の近くで倒れてたんだよ。すっげー火傷してな」

「…………」


 今朝、ということは、まだ一夜と戦ってから一日も経っていないのだろう。局の近くということであれば、発見も早かったはずだ。

 昨晩のことを思い浮かべれば、体の至る箇所に巻かれた包帯の下が痛んだ気がした。


「とりあえず、都季には『仕事』って誤魔化したけど、心配してたぜ」

「そうですか」

「今日は……火曜か。なら、茜も局にいるだろうし、報告してくる」

「じゃあ、俺はもうちょっと悠のとこにいるぜ」


 火曜は依月の定休日だ。普段、依月にいる茜や花音も、この日は局にいることが多い。

 紫苑が報告に行けば、すぐに何があったか調査されるはずだ。そうなれば、のんびりと寝ていられなくなる。

 密かに溜め息を吐いた悠だったが、紫苑は何かを思い出したかのように魁を見て言った。


「いや、お前、もうすぐテストだって茜から聞いたぞ」

「うぐっ」


 固まる魁は、看病を理由に苦手な勉強から逃れる気満々だったのだろう。

 ただ、悠も看病されるような病気ではない。

 呆れを滲ませた紫苑と悠の視線を受け、もはや言い返す言葉も出ないようだ。


「やるべきことをやらないようじゃ、社会に出たとき困るぞー」

「も、もう半分出てるようなもんだし!」

「学生を終えたら分かる。ほら、帰って勉強だ」

「ええー!」


 紫苑は無造作に片手で魁の襟首を掴むと、そのまま引きずって部屋を出ようとドアに向かう。

 そして、ドアに手をかけてから、悠を振り返って見た。


「じゃ、悠は安静にしてろよ」

「……はい」


 釘を刺されたものの、体を動かそうにも、痛みが酷い今はさすがに自由が利かない。

 ドアが静かに閉じられたのを見ると、悠はもう一度目を瞑った。

 また、あの頃の夢を見られるように願いながら。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る