第21話 窮鼠、猫を噛めず
瞼の裏に流れていた映像が途切れた。遠く離れた位置から映像を送ってきていたものが、視られていることに気づいた十二生肖の辰によって遮断されたのだ。
真っ暗になった景色が、ゆっくりと瞼を開いたことで眼前に広がっている夜景に切り替わる。
ビルの屋上に建てられた看板の上に腰掛けていた少年は、溜め息を吐いてそこから降りた。着地の衝撃でケガをした足や腕に僅かな痛みが走ったが、慣れた痛みなのか特に顔を歪めることはなかった。
ずれたフードを深く被り直し、ポケットに両手を突っ込んでぶっきらぼうにぼやく。
「あーあ。猫もあんまり使えなかったな。破綻まではあと一歩だったのに」
「随分と残念そうだな」
帰ろうとした少年の前に立ちはだかったのは、長い金髪を夜風に遊ばせた刻裏だ。彼の顔にも傷跡はあるが、それもほぼ薄れている。
つい数日前に敵意を向け合い一戦を交えた二人だが、今はそれが嘘のように互いに戦う意思はない。
茶化すような口調の刻裏に対し、少年は落胆の色を隠さずに言う。
「だって、せっかくのチャンスが無駄になっちゃったし? 俺がわざわざ能力使ったのに、あっさりと破ってるしさぁ。これだから裏支ってやつは、イレギュラーで困っちゃう」
「月神もついているからな。知られると不味いのではないか?」
「別に。どうせもう知ってるだろ。話した人もいるし」
なにせ、相手は神だ。いくら世界の均衡を保つのが大きな役割だとしても、一介の少年が敵う相手ではない。
だからこそ、周りから崩していこうとしているのだが。
あっさりと吐き捨てた少年は、今まで起こった事件を思い返す。
「適当な奴をアンタに出会わせて、予想どおり安定しなかったから月神を狙わせて、局から持ち出してくれたまでは良かったんだけどなー」
「私は能力を欲する者に等しく力を与えてきたが、まさかそれを第三者に頼まれるとは思わなかったよ」
「『欲する者に等しく与える』? ……はっ。よく言うよ。月神と器の保有者は、君が自ら出会わせたくせに。おかげでこっちの予定が狂ったんだから」
批難の言葉を受けても、刻裏は眉根ひとつ動かさなかった。何を言われても意志は変わらない。後悔もないのだ。
少年は刻裏から視線を逸らすと、大きな溜め息を吐いた。
「あの人が少しだけ可哀想だ」
「ほう? 同情するのか」
「そりゃあね。君が関わらなければ、あの人はこっちの世界とは別の道を歩めただろうし」
「…………」
少年が思い描いたシナリオにはない出来事は、想像を遙かに超えて別のシナリオを描き出した。もはや、少年の修正が入れられないほどに。
「君が、『巫女の家系を失いたくないから』というエゴだけで引きずり込んだんだよ」
「否定はしないさ」
少年の指摘は事実だ。ただ、それだけではないので肯定もしない。
あの日、刻裏は都季の帰宅する道を自ら姿を現すことで少しだけ変えさせた。月神を持ち出した犯人と遭遇するように。
(結奈は、依人の世界に都季を巻き込みたくないと言った。けれど、今、局の状況を変えることができるのは都季だけだ)
代替わりした十二生肖だけでは変えられない部分もある。今までの習わしを自然と身につけた彼らでは。
しかし、一切、依人や幻妖の世界に関わったことがなく、尚且つ巫女の血を引く都季ならば、今まで普通だと思われていたおかしな部分にも気づける上に話し合えるはずだ。
局から追われている刻裏だが、結奈の大事にしていた場所であるならば、その場所が良い方向へ動くというのならば、その力になってやりたいと思った。
また、いつかのように人と幻妖が共生できるなら、再びその景色を見たいと思った。
それが、かつて刻裏を救った巫女の目的でもあるのだから。
「ちょっとはマシな、局に不満を持つ猫を煽ったのに……。俺も人を見る目がなくなってきたかな」
「それはそうだろう。人というものは移ろいやすく、ほんの一瞬では計り知れぬ」
「……だから嫌いなんだよ。人間なんて」
見下すように吐き捨てられた言葉。
いつもなら聞き流すかフォローするかの刻裏だが、今回は呆れを滲ませた。
「お前も人の姿をしているだろう?」
「自己嫌悪って奴かなぁ」
そう呟きながら、刻裏の脇をすり抜けて昇降口へと向かう。次の策を練りながら。
ここまできたからには、今さら後戻りなどできない。シナリオを修正できないなら、新しいものを考えればいいだけだ。
何かを思案していた刻裏が、ふと、思い出したように前を向いたまま少年に問いかける。
「そうだ。知っているか? 最近の猫は学習能力が高いらしい」
「は?」
「芸を覚える猫もいるそうだ。元より、やらなかっただけで、できないわけではないのかもしれないな」
唐突すぎる発言の意味が分からず、少年は足を止めて怪訝に振り返る。
刻裏も少年の方を向いており、その顔はどこか愉しげだ。
「夜道には気をつけるといい。月は猫の味方。夜は猫の刻だ」
「言っている意味が分からないね」
「ふむ。では、『窮鼠猫を噛む』と言うが、猫を噛むことに失敗した鼠の末路はどうかな?」
「……はっ。まさか。猫は今も昔も変わらな――っ!」
その例えで、刻裏が言わんとしていることが分かった。
ただ、あくまでも仮定だ、と否定するように鼻で笑った直後、強い殺気が全身を襲う。
振り返ると同時に地を蹴り、下から振り上げられたナイフを避ける。
刃の先がフードを掠めてはらりと捲れた。
灰色がかった白い髪が月明かりに照らされる。
鋭く細められた濃い灰色の目が、ナイフの主である黒髪の青年を捉えた。
「『二度目は容赦しねぇ』って警告はしてたぜ」
「あははっ。猫さん、いたんだ」
背後から襲ってきたのは一夜だった。
刻裏が出した例えは『仮定』ではなく、『最後の警告』だったのだ。そして、今まで何が原因で起きていたのか、彼がすべて知ったこともご丁寧に教えてくれていた。
「テメェのがよっぽど猫被りが上手いな。“ネズミ”の分際で」
「そうしたほうが、この世界は生きていきやすいんですよ。猫みたいに気ままに生きれないからには」
鋭く睨んだまま不敵な笑みを浮かべる一夜は、月明かりに照らされた少年――悠に厭味を含ませて言った。
悠はマスクをずらして酷く冷たい目で一夜を見ていたが、すぐに柔らかく笑みを浮かべた。
なぜか悲哀の漂う、自身に言い聞かせるようなその言葉を、一夜は鼻で笑い飛ばす。
「それが、俺の役目でもあるんだよ」
「あれ? 野良になったかと思ったら、まだ『首輪』着けてる。外せないなら切り落としてあげましょうか? その腕ごとでいいなら」
一夜の右手首に見えたブレスレットに少なからず驚きを覚えた。てっきり、もう外しているものだと思っていたのだ。
あっさりとした口調の割に物騒な内容だが、これが一夜に対する悠の通常のため、一夜は今さら激昂しなかった。
「断る。これは最後の賭けだ。『アイツ』に賭けた、な」
「……くだらない」
小さく笑みを浮かべた一夜を、悠は蔑む目で見て言葉を吐き捨てた。同時に、一夜が賭けた相手に苛立ちが募る。
――何も知らないから、そんなことが簡単に言えるんだ。これから知っていけばいい? 全部分かりきれると思ってんの? バッカみたい。
ここにはいないその人に心の中で愚痴を零し、先ほどまでとは打って変わって無邪気に笑んだ。
「君、もういらないや。邪魔なだけだから、消しちゃおう」
「テメェを先に葬ってやる」
「やだなぁ、これだから血気盛んなお年頃は――失せろ。半端が」
「はっ。そっちが消えな」
一瞬にして、笑みは他人を見下す表情へと変わった。
一夜にとっては久しぶりに見るものであり、言葉だけでは収まらない悠本来の性格が大いに表れている。
だが、一夜は怯む様子もなく返し、コンクリートを蹴った。
二人の激しい攻防が始まり、ただ一人、部外者となった刻裏は先ほどまで悠がいた看板の上に移動した。
「私は何が起きても知らないよ。子が絡んでいるならね」
刻裏がそう言い残して姿を消した直後、ビルの屋上に突如として発生した火球が爆ぜた。
* * *
いくら前日に倒れるほどの激しい運動をしたからとはいえ、健康であれば平日の学生に待ち受けるのは学校生活だ。
都季達もその例に漏れず時間ギリギリで登校したものの、朝から『視線』という名の違和感に包まれたままだった。都季限定だが。
「そ、そういえばさ、今朝もいなかったな。悠」
「……お仕事、忙しいって」
「…………」
「そっかー。人気芸能人は大変だなー。はは……」
「「…………」」
琴音の沈黙はいつものことなので違和感はない。ただ、魁まで黙っているとなると三人の間に流れるのは気まずい空気だ。
何か次の話題を、と思案して話すも琴音は一言二言で終わる上、魁はやはり黙ったまま都季を見ている。
月神も怠いのか、机の上でペンケースを背に座って舟を漕いでいる始末。
「か、魁。どうかしたか?」
沈黙にも、魁からの観察に似た視線にも耐え切れず、都季は思い切って理由を訊ねた。
琴音は魁と都季を交互に見た後、何かを魁から聴き取ったのか、目を覚ました月神へと視線を移している。
「なんだ? 琴音」
「…………」
「……んん?」
琴音の視線の意味を図りかね、月神は腕を組んで首を傾げる。
その傍らで、今まで口を堅く閉ざしていた魁がやっと喋った。
「都季はこう、おかしなところとかないか?」
「ずっと見られてて居心地が悪いかな」
「あ、ワリィ。いや、そうじゃなくて! あー……なんて言うか、その……関節が痛むとか、熱があるとか」
「どこをどう見ても健康体だろ」
「そうじゃなくって! ……いや、そうなんだけど!」
「どっちだよ」
歯切れの悪い魁は、言いたい言葉がただ言葉にならないのか、それとも言いにくいことなのか判断がつかない。
都季が首を傾げていると、琴音と目だけで会話をしていた月神が間に入った。
「魁。ちと顔を貸せ」
「え、俺!?」
「つっきー、怪しまれないようにしてよ?」
「分かっておる。すぐ戻る」
不思議そうな顔の都季は琴音に任せ、月神は魁の先を飛んで教室を出ると階段の前まで移動した。
休み時間の今、廊下は複数の生徒が行き交っている。話をする生徒も多いため、耳をそばだてておかないと他の人の会話は聞こえにくい。
ただ、一般人に月神が視えない以上、魁と月神の会話は端から見れば魁の盛大な独り言だ。当然ながら、都季達といた教室よりも目立つ。
そこで、月神は対策として魁の胸ポケットを指差して言った。
「ほれ、『けーたい』を出さぬか」
「はいはい。……で? 話ってなんすか?」
大きな独り言にならないよう、電話をしているふりをする。
窓に凭れ掛かった魁の前に浮いた月神は、先日の夜のことを口にした。
「都季の霊力の件だ」
「やっぱり、気づきました?」
「ああ。不覚にもお主より遅れたがな」
「『不覚にも』って」
失礼極まりない発言だが、魁の知力は月神からすれば圧倒的に低いので返す言葉も思いつかない。
月神は溜め息を吐くと、魁に体の側面を向けて腕を組む。視線の先は都季のいる教室だ。
「霊力は先天的なもので、それを持つための器も同様。後から変わることはほぼない。ただ、大きな霊力を徐々に体に慣らせば、霊力を受け入れられる量が変わる可能性はある。問題ないと思っていたが……少々、抑制が緩みすぎておるようだ」
危惧していたが、もっと慎重になるべきだった。
かといって、都季に「具現化は危ないかもしれないから使うな」では彼も納得しないだろう。
そう考えると、一夜の一件で使った術を話したところから間違いだった。
「やっぱり、月神の力に感化されてるんすかね?」
「やもしれぬ。影響に関して甘く見ていたようだ。仕方がないとはいえ、昨日は力を使わせるべきではなかった」
昨日、術を使った後、都季の力に一瞬だったが乱れが生じた。また、立つこともままならず座り込んでいたくらいだ。やはり、無茶をさせていたと言える。
先をある程度まで見通せる月神だが、それは部分的である上に不鮮明なことが多い。
月神の器を宿すことについて、結奈の水晶玉があれば問題はほぼないと見ていた。いつかは水晶玉が壊れてしまうだろうが、それまでの間に都季の体を霊力に慣らしさえすれば、大事には至らないだろうと。
「昨日も具現化をした際に倒れたのは、やはり力に体がついていかぬ証拠だ」
「じゃあ、あと少しでも長かったら……」
「最悪の状況だったかもしれんな」
「…………」
魁はあの場にはいなかったが、局に帰ってきた茜と龍司から状況は聞いた。そして、自身が気になっていた都季の霊力について相談をしている。
二人も都季の変化には気づいていた。だからこそ、茜は都季に鍛錬を勧めたのだ。
ただ、彼の霊力は予想を上回る早さで外へ出ようとしており、昨日、具現化の術を使ったことでさらに促進された可能性もある。
月神は教室の方を見たまま言葉を続けた。
「我の器が都季にある限り、あやつは一級継承者になろうとも、常に破綻の危険と隣り合わせのままだ」
「一級でも!? 普通、一級までいったらその組ん中じゃ一番上になるし、破綻からは一番遠いはずっすよ?」
「都季を『普通』の枠に入れてはならんということだ。そもそも、力を封じられていたとはいえ、都季は紛れもなく特体者だった。特体者が依人になって無事だったという話は聞いたこともないからのぅ」
特体者は元々、一般人よりも霊力を有し、幻妖を視認できる者だ。幻妖のような力はないが、きちんと知識をつけて鍛錬を積めば、ある程度の術なら使えるようになる。
もし、特体者が依人になるために力を得れば、元あった霊力と反発しあい、体が耐え切れずすぐに破綻するのが落ちだ。
都季が何事もなく月神の器を有しているのは、やはり結奈が託した水晶玉のおかげだろう。
「……都季は、どうなるんすか」
「慣れるが早いか、力が枷を壊すのが早いか……」
もしかすると、異変に気づいた刻裏が出てきて何か手を施すかもしれない。それはそれで助かるが、便利屋のようにこちらから彼を使うのは気が引ける。
彼がどこまで都季に執着しているかは分からないが、今までの刻裏を見てもまず、都季を失うような真似はしないだろう。
「月神じゃあ抑えられないんすか?」
「これでももうやっておる。結奈が水晶玉に施した術が壊れぬよう補修をな。あとは……やはり、徐々に力に慣らすしかないのぅ」
あまり大きな術を使わせないことも重要だ。
始業のチャイムが鳴り、魁は溜め息を吐きながら携帯電話をしまった。
教室に戻る魁の肩に乗った月神は、都季に余計な不安を与えないために念を押す。
「くれぐれも、都季には言うな」
「……分かってますよ」
教室に入れば、教師はまだ来ていなかった。クラスメイトも教師が来ていないからか、座っていない人も多い。
自身の席に座る魁に都季が駆け寄った。
「大丈夫?」
「ん? おー。ちょっとな」
「なに、観察のしすぎは良くないと説教しておっただけのことよ」
「それだけでわざわざ教室の外に連れてくのもどうなんだよ……」
魁はまだ足のケガが完治していない。松葉杖こそなくなったが、足にはまだ湿布を貼っている。
下手に歩かせるのは避けたほうがいい、と今度は都季が月神に注意をした。
「なんだと!?」と食らいついた月神を連れて自分の席に戻る都季を見て、魁は大きな溜め息を吐いた。
「はぁ……。どうしたもんか……」
いつ訪れるとも分からない破綻。
先を考えた魁は頭が重くなるのを感じて机に突っ伏す。
直後、タイミング悪く教室に入ってきた教師から注意が飛んできた。
「戌井ー。開始早々に寝るなー」
「……へーい」
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