第8話 惑い


 ポケットに入れていた携帯電話が振動で着信を伝える。

 しかし、バイト中の都季はテーブルの片づけ途中で両手に食器を持っていたため、すぐには出られない。最も、この場で電話に出ようものなら、厨房にいる茜から即座に呼び出しが掛かるだろうが。

 本来ならばバイト中に携帯電話を持つことは禁止されているが、局からの呼び出しに備えて持つようにと、こっそりとではあるものの店長の茜から許可を貰っている。

 ひとまず、食器を下げてから……と、厨房の方に移動すれば、低い振動音に気づいた月神がピアスから姿を現し、シンクのそばに立って言う。


「大丈夫か? 『けーたいでんわ』がずっと震えておるぞ。我が取ってやろうか?」

「待って、つっきー。今は周りに普通の人もいるから、怪奇現象はやめて」


 いくら依人の多い依月とはいえ、幻妖世界を知らない一般人のスタッフもいる。

 そんなスタッフの目に月神は映っていないため、端から見れば携帯電話がポケットから飛び出して浮いているように見えるのだ。大騒ぎになりそうなことだけは避けたい。

 話し声に紛れるように小声で諫めれば、カウンターから茜に呼ばれた。


「更科、ちょっと」

「はい」


 入れ替わりでやって来た花音に「局の呼び出しだよ」とすれ違いざまに言われ、電話の主の見当がついた。

 茜の元に行けば、彼女はついてくるようにと視線だけで示して事務室に入って行く。

 素直に従って入ると、真っ先に月神が口を開いた。


「歪みか」

「また?」

「今のご時世、毎日できてるようなもんだよ。大抵は調律師がやるが、今回は厄介な相手がいるみたいだ。お前、ちょっと行ってこい」


 茜の口調はとても軽く、まるでおつかいを頼まれている気分だ。

 ただ、都季は行っても戦えるわけではない。前回、歪みを初めて見たときも、ひたすら逃げ回っていただけだ。

 そう思い、念押しの意味も込めて確認する。


「大丈夫ですか? 俺、足手まといじゃ……」

「んなの承知の上だ。また前みたいに逃げてりゃ問題ない」

「うっ」


 分かってはいたものの、茜に再度言われると急に恥ずかしくなった。

 戦う術を知らないので仕方がないが、せめてフォローくらい入れてほしい。最も、彼女にそれを求めること自体が間違いなのだが。

 戸惑う都季を見た茜は、渋面を作りながら片手を首に当て、困ったように溜め息を吐いて言った。


「相手を考えればあたしも行きたいが、生憎、あたしは非常事態に備えて待機ってことで呼ばれてない。まぁ、必要になれば花音を向かわすから連絡くれ。先に魁と琴音が行ってるから、一対一にはならないはずだ」

「我がおる」

「だからこそ、余計に」

「……分かりました。行ってきます」


 月神に頷いた茜は今まで見たことがないほどに真剣な表情だった。仕事の顔、ともいうであろうそれに、都季も気を引き締めた。

 服を着替える時間が惜しいため、黒いエプロンを外し、シャツにカーディガンを羽織って店を出る。

 気候が正常に戻りかけている今、以前のようにコートを着る必要はない。

 場所は歪みを感知した月神に案内してもらったが、辿り着いた先に背筋が凍りついた。


「ここって……!」

「狙いは一つ、だの」


 西区にほど近い北区の端。住宅の多い場所でもあるせいか、夕方に入った今の時間帯は帰宅する一般人が行き交っている。

 都季が愕然として見る先には、自分が住んでいるアパートがいつもと変わりない様子で佇んでいた。

 問題の歪みは、アパートの隣にある空き家の庭にできているようだ。まだ形は見えないが、全身を地面に引きずり込まんばかりの重い空気が流れてきている。

 先に着いていた魁達が、空き家の庭や屋根で幻妖と戦闘を繰り広げているのが見えた。

 ただ、都季はそれを目にできているが、通行人はまるで見えていないかのように普通に民家の横を通っている。


「どうなっているんだ?」

「簡単なことよ。敷地を隔離しておるのだ。敷地の隅に札があるだろう?」


 異様な光景に驚いていれば、月神が理由を説明してくれた。

 彼が見た先には、地面から数センチの位置で浮いている札があった。また、反対側の角に当たる部分にも同様に札が浮いている。

 一般人への心配はなくなったとして、敷地に足を踏み入れた都季は何をすればいいのかと辺りを見回す。そのとき、視界の隅に飛び掛かってくる影を捉えた。


「グルァァァッ!」

「うわ!?」

「かがめ!」


 そちらを見れば、双頭の犬が口を大きく開いて眼前に迫っていた。

 思わず体が固まってしまったが、耳に届いた指示に咄嗟に従ってしゃがむ。

 目標が本来の位置から逸れた犬は、都季の背後から飛来したクナイを口に収めて地面に倒れた。


「……反応しなかったら、お主の頭が危なかったの」


 都季の肩にいた月神は、体の端から灰となって消えていく犬からクナイが飛来した方へと視線を移動させながら言った。

 相変わらず慣れない場と身に迫った命の危機に、都季は返す言葉も紡げずにただ呆然として消えていく犬を見ていた。

 犬が消えたあとに残るのは、血すらも消えたクナイだけだ。

 しゃがんだままの都季の背後に立ったのは、クナイの主の悠だった。


「都季先輩。電話くらいさっさと出てくださいよ」

「ご、ごめん」


 両手を腰に当てて見下ろしてくる悠を、上体を捻りながら見上げる。

 呆れと苛立ちが混ざる悠は、一つ溜め息を吐いてから「来てくれたので良しとしますけど」と、二つの意味で上から目線だ。

 都季の前に回った彼の手を借りて立ち上がれば、背後に殺気を感じて振り返る。そして、視界に入った姿に瞠目した。

 悠はクナイを拾い上げてそちらを見ると、「これだから、気まぐれな猫は嫌いなんです」と心底嫌そうにぼやいた。


「一夜、さん……?」

「お主、どういうつもりだ」


 敷地の奥にある歪みの前に立っていたのは、先日、家にやって来た一夜だった。あれから姿は見かけず、彼は改心したのだとばかり思っていたが、今の雰囲気を見る限りではその兆しはない。

 真っ直ぐに都季を見据える目にあるのは、明確な敵意と殺意だけだ。


「どうもこうも、そいつの命を貰いに来た」

「な……!」

「ほざけ。お主の目的は、人の命が関わるものではなかっただろう? また変わっておるぞ」


 以前、会ったときと様子が全然違う。

 一瞬は敵意を剥き出しにしていたが、月神に紗智の記憶を視せられて少し考えたいと帰ったはずだ。

 それが、今や局を壊すことではなく、都季の命を取るために現れている。


「黙れ! そもそも、そいつがいなかったら巫女は今も生きていたし、暴走がなければ紗智は死ななかった! アイツが死んで、なんでそいつは……っ!」

「っ!」


 心の奥にしまったはずの苦しさが胸を締めつける。

 都季自身、両親が自分のせいで死んだのは分かっている。だが、いつまでもそれを負い目に感じて生きていくのは、死んだ両親に申し訳ないと思った。だからこそ、今は両親が守ろうと……成し遂げようとしたことをやろうと決めたのだ。

 しかし、第三者に改めて言われて、再び自身を責める感情が襲いかかる。

 本当に、これでいいのかと自問する。

 俯いた都季の耳を打ったのは、民家の屋根の上にいる魁の軽い調子の声だった。


「随分と飛躍してんなぁ、おい。紗智姉とコイツは無関係だろうが」

「無関係なわけがあるか! 巫女はコイツを守るために死んだんだぞ!? そのせいで依人や幻妖がまた暴走したんだ!」

「それがあの人の本望なら、いつまでも嘆くのは失礼だ。紗智姉に関してもな。悲しむのは結構だが、長いと鬱陶しがられるぜ?」

「お前に何が分かる!」


 魁の言葉は的を射たものだが、一夜には届かない。

 ふと、都季は顕現したばかりの月神が言っていたことを思い出した。


「そういえば、つっきーって宝月を通して皆を見れるって言ったよな?」

「ああ」

「なら、一夜さんに何があったか見れないか?」


 彼の考えが、たった数日でここまで変わるのはおかしい気がした。何かきっかけがあったのなら、それを知らなければならない。

 だが、月神は小さく肩を竦めて返した。月神にも一夜に何が起こっているのか把握できないようだ。


「残念だが、あやつが局を出た以降、猫の宝月はその機能を保ってはいるが、繋がりが断たれている。我の干渉を受けつけないのだ」

「そんな……」

「じゃあ、あの猫さんを倒しちゃってもいいですよね?」

「倒すって?」

「殺しはしません。それは僕らの理念からも外れますからね。まぁ、破綻していれば別ですが」


 悠の口調に嫌な考えが過ったが、そこまではいかなかった。ただ、やはり「破綻者」となると扱いは違うのだとはっきりと実感した。

 血統組であれば、体に幻妖の血があるために破綻はない。だが、裏支は転生組。魂自体は生まれ変わりであっても、肝心の肉体は人間とさして違わないのだ。そのため、肉体が力に耐え切れなければ、破綻する可能性もある。

 悠はクナイを構え直して一夜を見据えた。


「都季先輩も来てくれたので、僕らの能力も飛躍します。魁先輩や琴音先輩の能力は感覚系なので、実際の戦闘力が変わるわけではありませんけど」

「それ、俺が来た意味あった?」


 一夜と睨み合ったまま話す悠はどこか余裕に見えた。だが、彼が言う限りでは都季が来ることに重要さは感じられない。

 そう思って問えば、思案していたのか少しの間を開けてからあっさりと返された。


「微妙ですね」

「おい」

「意味なくねぇよ! 『戦闘力』は上がんなくても、『やる気』は上がんだよ!」

「魁先輩、よくそんなクサイ台詞吐けますね。正直引きました」

「うっ、うっせぇ!」


 魁のフォローはありがたいが、かなり恥ずかしい。

 指摘されたことで魁自身も恥ずかしくなったのか、八つ当たりのように飛びかかってきた角を持つ猿を蹴り飛ばす。

 その一瞬の気の緩みが仇となった。

 いつもより敏感になった嗅覚が、幻妖とは違う匂いと空気の変化を捉えた。ほぼ同時に、下にいた琴音の悲鳴にも近い声が上がった。


「魁、後ろ!」

「なっ!?」

「ギャンギャンうるさいぞ、駄犬」


 いつの間にか、庭にいた一夜が屋根の上……魁の後ろに現れた。

 突き出されたナイフを紙一重で避けるも、ここは屋根の上。しかも、昔の名残を残す瓦屋根だ。

 踏みしめた瓦がずれてバランスを崩し、足が屋根から落ちた。

 あまり高くない平屋は、空中でバランスを取り戻すほどの余裕はない。

 魁はそのまま背中から地面に叩きつけられた。


「でっ!」

「どんくさ戌井先輩、邪魔」

「て、めっ……げほっ!」

「大丈夫か!?」

「歪みは我が直す。都季、お主は魁を看てやれ」


 屋根から落ちた魁と入れ違いに、悠と琴音が地を蹴って屋根に上がった。

 背中を打ち付けたことで肺が圧迫されたせいか、上体を起こした魁は何度も咳き込んだ。

 魁の傍らに片膝をついて体を支えてやりつつ、都季はどこか安全な場所はないかと辺りを見渡す。月神が歪みを塞ぎに行ったため、幻妖の新しい出現は食い止められている。


「魁、動けそう? どこか折れてない?」

「ごほっ……いや、こんくらい、大丈――げほっ」


 まだ咳き込むところを見るとあまり大丈夫には思えないが、骨や内蔵を負傷したわけではないのが不幸中の幸いだ。

 よろめきつつ立ち上がった魁を支えて都季も立つ。せめて、もう少しだけでも安全な場所に移動するべきか、と逡巡したときだ。

 突然、屋根の上から琴音の声が降ってきた。


「逃げて!」

「え?」

「っ、都季!」


 魁の顔が都季の背後を見て強張る。

 空気の切れる音に振り返れば、夕日を受けて赤く光るナイフが見えた。

 まるでスローモーションのように場が動く。

 魁が都季の腕を引き、薙がれたナイフから離そうとした。しかし、引いた先にはすぐ空き家の壁があり、避けようにも場に下がれるほどの余裕がない。

 痛みを覚悟して目を瞑る。

 その瞬間、森林の中にいるような、覚えのある匂いが鼻腔を掠めた。


「……え?」


 いつまで経っても襲ってこない痛みに、そろそろと目を開ける。

 目の前には、先ほどまではなかった姿があった。


「何事かと思って様子を見ていれば……」

「こ、くり……?」

「狐だと!?」


 都季をナイフから庇ったのは、様子を見ていた刻裏だった。切られた痛みに顔を歪めつつも、冷静さは失わない。

 歪みを塞いだ月神が刻裏の出現に驚き、すぐさま飛んできた。

 一夜も愕然としながら、ナイフに付着した血を振り払って数歩下がった。


「まったく。どこで誑かされたものやら……」

「刻裏!」


 都季の方へと倒れてきた刻裏を支えるも、体重に押し負けて地に膝をつく。

 一夜は頭上から飛来したクナイを飛んで避け、それが止んだところで再び地を蹴った。

 狙いは変わらずに都季だ。


「この、クソ猫が……うっ!」

「魁!?」


 都季の横にいた魁が飛び出そうとしたが、右足に激痛が走ってまた地面に座り込む。落ちた拍子に足をどこかにぶつけてしまったようだ。

 迫る一夜の前に琴音、後ろに悠が降り立ち、琴音が短刀でナイフを弾く。

 だが、彼は隠し持っていた新しいナイフを突き出して琴音の体を横にずらさせた。

 悠が後ろから足払いをしようとしたが、それを読んだ一夜は軽々と跳んで避ける。

 琴音達の動きは素早いが、一夜も負けず劣らずの素早さに加えて狙いが的確だ。次に体が動く場所を読みながらのナイフ捌きは、琴音達でも避けるだけで精一杯だった。

 このままでは取り返しのつかないことになる、と月神が声を張り上げる。


「下がれ、二人とも! せめて、あやつの動きを制限して――」

「そうやって、紗智の力も『消した』んだろう!?」

「なっ……」


 紗智の記憶を視せて理解してもらえたはずの事実が、また異なっている。

 愕然とする月神を見て、都季は一度だけ試した方法を思い出した。廃工場で月神を小さな狼として具現化させたことを。

 月神が加わることは、一夜を逆撫でるだけだ。


「つっきー。俺が前みたいにやる」

「慣れていないお主では隙を生むだけだ。やめておけ」

「やらなきゃ、ケガ人が増えるだけだろ!?」

「落ちつけ、都季。じきに、来る」


 少し息の切れた刻裏の言葉の意味が分からず、都季は首を傾げる。

 だが、月神は感じ取った気配に目を敷地の入口に向けた。月神ですら、その気配は意識しなければ気づくのに遅れそうなほど薄いものだが、局の者であれば誰もがよく知ったものだ。

 直後、騒然とする場を、落ちついた青年の声が静めた。


「――目標地確認。全員、そこを動くな」

「千早先輩!」

「千早……?」

「誰?」


 悠が呼んだ名に一夜の動きが止まる。ただ、初対面である都季は困惑を隠しきれない。

 新たに現れたのは中性的な顔立ちの青年だ。肩を過ぎる栗色の髪は後ろで一つに結わえられている。琥珀色の目が冷静さを保ったまま全員を順に見た。

 都季がこれから何が起こるのかと魁へと視線をやれば、彼は「千早」と呼ばれた青年を視界から外さずに言った。


「都季。俺から離れるな」

「う、うん?」

「――転送」


 千早がそう呟いた瞬間、一夜以外の全員の足元が円状に光り輝いた。

 都季の肩を魁が強く抱く。

 込められた力に、都季も反射的に刻裏を支える手の力を強め、眩さに目を細めながら一夜を見た。


「くそっ!」

(一夜さん、なんで……)


 悔しそうに吐き捨てた彼は、やはり、数日前とどこか違っている。

 だが、その理由を都季が知ることはできなかった。

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