異界苑

ならさき

劉敬叔 『異苑』より

 かつて、魏は元帝から禅譲され晋と国を改めた。この国がおおよそ「五胡十六国時代」と称される頃、国の真ん中を通る長江は時の流れを知ることがないのか、ただ勇々と流れていた。

 その長江のふもとには牛渚磯(ぎゅうしょき)という立派な崖があった。そこがあまりにも立派で川がごうごうと激しく音を立てて流れるだけでなく、そのうえ神殿まであるというから人々はこぞってご利益を求めに参拝した。ある法師が飢餓に苦しむ人々のために身を川に投じ念仏を唱えたところ、次の年には10年も余る豊作となったことから、人々の信仰はさらに強まった。

 しかし、それほど強力な力を持つには多少の犠牲も付きものな様で、崖で足を滑らせ命を落とした参拝者は少なくない。それどころか、ほぼ全員である。一部の噂によれば、犠牲は付きものとかけて文字通り憑き者の仕業なのではないのかという噂さえあった。そのため近くの村の人々は「牛渚磯には近づいてはならぬ」と参拝を拒んだ。

「牛渚磯には近づいてはならぬ。角をはやした鬼が海へ引きずりこんで、食っちまうから。」


 よその国からはるばる旅をする温嶠(おんきょう)はそんなことなど知る由もなかった。彼の国には長江・黄河などの「大河」と呼ばれる川がなかった。そこで彼が一目見ようと訪れてみようと思い立ち訪れようと思ったのが、この長江である。

「これが真なる長江か。なんて広さだ。言い伝えでは聞いていたがここまですごいとは。」

彼が岸から乗り出した。

 すると突然、

「危ないっ!!!」

それは女の叫び声だった。女は片手にかご、小汚い民族衣装を身に着けていた。どうやら地元の民族の様だ。

「長江さまをなめちゃいかん!その川は水を触ったら死んでしまうとまで言われる恐ろしい川じゃ。怪物も住むといわれておる。決して近づくでない。」

「そうか。忠告ありがとう。」

「それと、ここをずっとまっすぐ進んだ先にある「牛渚磯」という神社にだけは気をつけるんじゃ。」

「解った。色々すまないね。」

彼女はそっぽを向くと森の中を歩いて行った。

 温嶠は彼女の言っていた「牛渚磯」がとても気になった。そして指した方向へひたすら歩いた。するとどうだろうか。立派できれいな赤い神社が建てられているではないか。

「これは素晴らしい。森の深く奥にこんな神殿が建てられているとは。」

彼は石畳を歩き長江と接する崖へと近づいた。

 すると彼は笛が音を奏でるのが聞こえた。耳を澄ませども、どこからなのか解らない。

「もしや、水の底からなのか?」

怪しく思い耳を近づけると、それははっきりと水底から聞こえた。水は澄んで透明なものの、深すぎて光が差さない。石を投げてみるも、あまりの流れにすぐに流されてしまった。

「そういえば彼女は、怪物がいるとも言ってたな。よし。」

温嶠は持っていたサイの角に火をつけた。これは彼の国のいわば魔除けである。

パチパチと音を立て燃えるサイの角を水面に近づけると、影が浮かび上がってきた。

 水面に顔を出したのは後にこれを書き表す者に「水族」と呼ばれた怪物たちであった。とても奇妙な姿をしており、本文の言葉を抜粋するなら、「或いは馬車に乗り赤衣・幘を著す。(なかには馬車に乗り、赤い衣と頭巾をつけたものもいる)」

「なんと言うことだ。化物が本当にいたなんて。しかもこの広く雄大な長江に。」


 彼はそれを見た日の晩、ある夢を見た。

彼の夢の中に立っていたのは、昼間に会った一人の女だった。

「昼間は忠告ありがとう。僕はあれから、君の言ってた牛渚磯で怪物を見たんだ。明日から僕の故郷に帰って、見た怪物を絵巻物にするよ。」

「いいえ。お前は絵巻物になんかできない。なぜならお前の見たものは怪物ではないからだ。この世は現世と来世に分かれている。お前はちょうど牛渚磯で、現世の隔てを見た。しかしお前はそれを水面と勘違いし、照らしてしまった。お前はなんの意図があって来世を照らした?」

そういうと女は消えてしまった。


温嶠が見たものは、化物なんかではなかった。

彼が照らしたものは、来世。すなわち死後の世界。

水族、女は幽霊だったのだ。


温嶠もまた、水族となったのだ。

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異界苑 ならさき @Furameru

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