矛盾

神宮司亮介

矛盾

 教師という仕事は、減点方式みたいなものだ。間違えない、ちゃんとしていることはもちろん当たり前で、少しでも誤りがあれば、評価はしっかりと下がっていく。そのくせ、苦しんでいる子供を助けても、それで評価されるということはない。先輩の教師に目をつけられず、レールの上を歩き続けなければ、「良い先生」とは思われない。

 かつて、若くして死んでしまった僕の姉が、いつかそんなことを言っていた。テレビで流れる、いじめに関するニュースを見ていて、僕はふと思った。

 僕は銀行で働いているが、客とのやりとりで疲れることはあっても、何も知らない外野からとやかく言われることがないだけ楽な仕事だと思っている。SNSの利用が主流になった今では、先生の「できない」ことはもっぱら、RTやいいね稼ぎのネタになりつつある。

 そんな僕には妻がいる。妻もまた高校教師だが、僕が彼女と結婚した理由は、姉のような人をもう見たくないから、という理由だった。

 彼女は、自分の命を捨てようとしていたところを、運悪く僕に見つかってしまい、助けられてしまったのだ。

 僕はそんな彼女を支え続けることが、どこか姉の死に少しでも意味を与える行為だと考えていた。そうでもしないとやってられない、というのが本音だったが。

「今週もお勤めご苦労様です」

ニュースをぼんやりと眺めている僕に、妻が話しかけてくる。彼女は僕に炭酸飲料の缶を差し出してきた。もう片方には、彼女が飲むビールの缶が握られている。

彼女はクマを作った素顔を僕に見せて笑うと、僕の隣に座った。ビールを飲もうとして、タブを開けていないことに気づくと、すぐに顔を赤くしてしまった。

「君はお疲れだね」

「そうですよ。私は奴隷ですから」

 このやりとりにも、もう慣れてしまった。彼女は先生という職業を「奴隷」だと言う。最近では、僕が訂正しようとすると、彼女は「こういうことTwitterに書いてみてください、たくさんいいねが貰えますよ」とあきれて笑うようにすらなった。

「でも、アキラさんみたいに、理解のある人が旦那さんになってくれて、私は幸せものですよ」

 彼女の笑顔が、僕にとっては最高の幸せだ。えくぼがあって、笑うとそれがくっきり現れるところが、とてもかわいい。

「僕も、あの時助けてよかったよ」

 雨にまみれて、川へ飛び込みそうになっていた彼女の手を掴んで良かった。僕はそう思っている。

「私は、あの時は死にたかったので、アキラさんのことを悪魔だと思っていましたけどね」

 そう言って、彼女はまた笑ってくれる。ビールを一口飲むと、幸せそうな息を吐き出していた。

「でも、アキラさんみたいな人に出会えたから、頑張れたんですよ」

「本当かい?」

「本当ですよ。私、こう見えて嘘はつかないんです」

 確かに、僕はそう言おうとして、やめた。きっと彼女は、今に至るまで色んな嘘に出会ってきただろう。そして彼女自身も、沢山嘘をついてきただろう。そんなこと、容易に想像できる。

「僕は、嘘ばっかりついてるよ。嫌いな上司の前でも、尊敬できるポイントをいくつでもあげられる。ハゲの隠し方とかね」

「それ、尊敬するポイントですか?」

 少し話の道を逸らして、僕は明確な回答をしなかった。そういう彼女の真っ直ぐさが、彼女を一番苦しめてきたからだ。

 お互いの缶の中身が空になる頃には、彼女は僕の肩で眠っていた。少しでも動くと起きそうだったので、僕はただテレビを見ていた。

 その時、彼女はどんな気持ちだったかなんて、僕には全然わからなかった。



 妻が退職願いを出したのは、それから一ヶ月もなかった。ただ、厳密には、僕が高校へ出向き、妻の退職をお願いした。彼女が既に書いていたものを、渡しただけだ。

 彼女はまた、雨の日に、川へ自分の体を投げようとしていた。そして悪魔になった僕は、また彼女を助けてしまった。

 あれからまた、妻は笑わなくなってしまった。僕はその姿を見て、彼女の退職をお願いした。

 高校を出て、僕は早く家に帰ろうと思っていた。彼女のお姉さんが今は来てくれているが、どんな行動を起こすかわからない。だから僕は、言いたいことを言って帰るつもりだった。



「あの、ミサキ先生の、旦那さんですか」

 僕が高校を出ようとしたとき、一人の少女に出会ったことで、僕の計画は、大きく変わることになった。



 近くの喫茶店は、たばこの煙をくぐらせる老人のたまり場だったので、僕と彼女への目線が、少し気になる場所ではあった。ただ、僕はしっかりと彼女の口から言われる、真実か何かを聞きたかったんだと思う。憶測で人を判断するのが、

人の悪い癖だからだ。

 ただ、僕はなんとなく、ミサキが置かれている状況を、知っていたんだと思う。一度死ぬことを考えて居た時、ミサキは酒に溺れていたと聞いている。高校教師として、もう一度教壇に立ってからは酒をやめ、下戸の僕に付き合うようにサイダーを飲むのが日課になっていたが、そんな彼女がまた、ビールを飲むようになった。

 その変化をわかっていて、僕はミサキに、何も言えなかった。

 だが、きっと目の前で、申し訳なさそうにミルクティーを飲む彼女は、ミサキがそんな苦しみを抱いていたことなど、わからないだろう。

「ミサキ先生、どうしたんですか」

 そんなこともわからないのか、と言いたくなる。ミサキは、命と引き換えに教師という職業を辞めることを決意したのだ。まあ、決意させたのは、僕なのだが。

「ミサキは、体を壊しました」

「どうして」

 僕のアイスコーヒーの氷が鳴った。

「どうしてって聞くけど、聞きたいのは僕の方だよ」

 僕が口調を強めると、彼女はさも僕に非があるかのような顔で僕を見始める。女子高生ごときが、そんなフレーズか頭に浮かんだ。

「私たちは何もしてません。ただ先生が心配なだけで」

「先生が心配なら理由を聞く必要なんてないんじゃないかな。心配です、その一言で済むじゃないか」

 僕はストローをくわえ、コーヒーを一口飲む。唇に冷たさが刺さった。

「ミサキを壊したのは、君たちだよね」

 たった一言だけで、彼女の中で位付けていた自身の立場が、一気に崩壊した。

 僕はストローを、ボードを雪に刺すように、グラスへ戻した。手の甲にコーヒーが飛び散った。

「わかっているんだろう?自分達に非があるってことを」

 僕は続けた。

「ミサキはただ、君たちがいじめていた子を助けようとしていただけだ。それなのに、君たちはミサキに標的を変えた。水をかけたり、彼女の手帳をゴミ箱に捨てたり、暴力をふるったり」

「証拠はどこにあんだよ! 全部見てたわけじゃないのに、何でわかんだよ!」

「彼女はいつも日記を書いている。だが、その日記には生憎、彼女の受けてきた仕打ちが鮮明に書かれている」

「そんなの、あの教師の妄想だろ!」

「……そっか。妄想なんだね」

 僕はスマートフォンを取り出す。青い鳥のデザインとなっているアプリを指で押すと、そこに証拠があった。

「これ、君の友人のツイートだよね。炎上されるのを怖がった君がわざわざ指示して、鍵をかけたみたいだけど」

 僕は知っていた。彼女たちが、ミサキが土下座をして、謝らせる動画を撮っていることを。そして、SNSを利用して、彼女の姿を晒していることを。

『こんな、クラスをまとめられない先生でごめんなさい』

 ミサキは声を震わせ、そう言っている。僕はそんな姿を見て、彼女をその世界から救い出すことは出来なかった。

「君の判断は賢明だったよ。これがタイムラインに広がったら、一気に拡散されるかもしれないからね。でも、彼女をここまで追い詰めた、君たちは馬鹿だ」

「だから全部あいつが悪いんだよ! ゴミの相手ばっかりして、あたしらのこと無視するから! だから、二度と学校へ来れないようにしてやろうと」

 そこで、彼女は言葉を止めた。コホン、とマスターが咳払いをする。

「良かった。やっと本当のことを言ってくれた」

 僕は、徐々に自分の立場をわかり始めた彼女の表情がおかしくて仕方なかった。

 そして、僕は服の胸ポケットから、もうひとつスマートフォンを取り出した。

「【女子高生のいじめを暴く生放送】みなさんいかがでしょうか」

 僕は、沢山のコメントが流れる画面を、彼女に見せつける。彼女の顔がどんどん、青ざめていく。

「お、大人がこんなことしていいのかよ!」

「子供でも他人を傷つけてはいけない。道徳の時間で習わなかったかな」

 きっと今頃、彼女が通う高校は特定され、彼女の自宅の住所すらも暴かれることだろう。炎上はさけられない。

「君たちは、思春期とさえ言えば他人を傷つけようが許される。でもね、君たちみたいな人間が、僕の大切な人をどんどん奪っていくんだ」

 僕の姉は自らの命を絶ち、ミサキは人間としての感情を何度も失った。だが、彼女たちは思春期という下らない理由を盾にして、いつの日か人間らしい感情を取り戻すだろう。世間は先生と生徒、どちらを擁護するかといえば、間違いなく生徒を選ぶだろう。

 そして、こんな形でミサキが受けた仕打ちを発信したところで、薬にもならない同情を得るだけということもわかっている。

 ただ、きっと誰もが、矛盾を抱いていたはずだ。

 先生が、親が、社会がいじめに気付けなかったのかと言うが、悪いのは誰だ。

「これから、君たちはミサキの分まで、苦しみという感情を味わえるんだ。楽しみだね」

 僕がそう言うと、彼女は恐ろしくなったのか席を立ってそのまま外へと走り去ってしまった。彼女のミルクティーは半分ほど量が残っている。

 僕はコーヒーを一口飲む。苦いはずのコーヒーが、やけに甘く感じた。

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