第2話 変わり始めた僕とライオン


 その日、僕らは一緒に下校することになった。

 「カレシなんだからちゃんと私と一緒に帰りなさい」と言われたからだ。自称ただの女子高生らしいが、気が強いのは元かららしい。


「どころであのぉ……なんでこんなに距離取りながら歩いているんですかね、枢木さん?」


 なぜか僕らは縦一直線に列となって歩いていた。

 先を歩く枢木さんとは目分量で言っても三メートルくらい離れている。おかげで少し声を張らないと会話が成立しない。カップルみたいに隣に並んで帰るなんてことができる雰囲気ではなかった。


「だって近づいたらあんたのこと投げ飛ばすし。流石にコンクリートの上じゃ命の保証ができないもん」


 彼女は悪びれないし、振り返らない。おっしゃる通りです。僕は「ですよねぇ」としか返せなかった。


「ねぇ!!」

「はい!!」


 唐突に枢木さんが坂道の中腹で足を止め、身を翻す。先ほど投げた時と同じように、彼女の耳はかっと赤くなっていた。

 なにか折り入って恥ずかしいお願いでもするのかと見紛うばかりの赤さだ。仮初めのカレシではあるがいささか期待が膨らむ。


「その微妙な敬語止めてくれる!? あと一人称が僕なのもウザい!」


 期待の斜め上を行く言葉が返ってきた。理解が追いつかず、呆然と立ち尽くす。

 生まれて初めて敬語で喋ることを叱られた。それどころか一人称にまでいちゃもんをつけられた。ショックのあまり「なんなんだ、この子」と危うく口から漏れそうなほどだ。

 とは言え、悲しいというより指摘されてありがたいという気持ちがあった。じゃなきゃ僕はなんのためにこの子のカレシになったのかわからない。彼女は今、本当に僕を想って厳しくしているのだ。


「それになんなのその格好!? ブレザーの下に袖の長いパーカーって。そんな萌え袖みたいなことしてるから女々しいって言われるのよ! その長髪ももっとカッコよく整えろ! あんたはマンガから出てきた人畜無害な男なわけ!?」


 次は見た目。彼女が正論過ぎて言い返す言葉も言い訳も見つからない。明日からでもすぐ改善しよう。


「それと!!」


 まだなにかあるのかと身構える。どんなことを言われても怯まないぞ。


「わ、私のことを……『枢木さん』って呼ぶな!!」


 彼女の耳がより一層赤く燃え上がる。さん付けが悪いのか、それとも別の理由があるのか。


「じゃ、じゃあ! お、俺はなんて呼べばいい?」


 注意されたことに気を配り、精一杯粗暴にそして強気で尋ねてみる。だが聞いた途端彼女は再び前を向いて歩み始めた。


 ——なにか気に食わないことを言っただろうか? それとも自分で考えろということか?


 困惑しながら追いかけると、彼女が五、六歩歩いてパタリと止まった。


「……り……」

「え?」


 ぼそっとなにかを呟いた気がしたが、よく聞き取れない。仕方なく聞き返してみると、大股で歩いてこちらに近づいてくる。鬼気迫るものを感じ、僕はまた後ずさってしまう。


「……理央」


 迫ってきた時の表情とは打って変わってしおらしく、目をそらしてうつむき加減。愛くるしい枢木さん……もとい理央の姿を見た瞬間、胸が早鐘を打つ。


「理央……」


 下の名前で呼べるかどうか試すために呟いてみる。まだ恥ずかしいから二人の距離なら聞こえる程度の大きさで。


「気安く呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 バチンと綺麗に破裂音が炸裂した。


「なんで!?」


 わけがわからず素っ頓狂な声が出た。

 左頬がピリピリと痛む。女子からのビンタは修羅場の時に受けるくらいだと思っていたが、現実そんなことはなかった。なんて理不尽なんだ、この世界は。


「蚊が止まってたのよ。さ、帰ろ」


 見え透いた嘘を言って理央はそそくさと先を歩いていく。っていうか「気安く呼ぶな!」ってツッコんでたじゃないか。隠せてないよ!?


「蚊が出るにはまだ早い時期だよ……全く」


 でも、僕は理央からのビンタが嬉しかった。

 決してマゾを開花させたわけじゃない。あんな至近距離に来ても彼女は投げなかったからだ。ほんの少し、全体からしたら一ミリ程度だけど、男嫌いが良くなったのかもしれない。

 カレシ冥利に尽きると思った僕は嬉しくなり、破顔した。

「なに、笑ってるの。気持ち悪いんだけど」

 やっぱり前言撤回。なにも変わってないこの子。ただの獅子の気まぐれだ。鋭い言葉が鼻につく。


「あ、それと私はあんたのこと将一って呼ぶから。一応カレシだしね」


 また一瞬鼓動が高鳴った。さらっと呼ばれるこの感覚。ドキッとしないわけがなかった。

 前言撤回も撤回。気まぐれは気まぐれかもしれないけど、気まぐれでも変われている。そう思うと微笑ましくもなり、見習わなければとも思うようになった。

 ただ言葉遣いが荒いのはやはりカノジョとしてどうかと思うけどね。


「いいよ、理央」

「だから気安く呼ぶなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 夕暮れ時の人気のない坂道に甲高い音が再び鳴りはためいた。

 こうして僕は俺となり、大道くんは将一となり、枢木さんは理央になった。

 でも、なんで理央は俺の名前だけはさらりと呼べたんだろう?




「将一! 昼ご飯食べるわよ!!」

「はい?」


 それから一週間ちょっとが過ぎた時だった。理央がランチのお誘いをしてきたのは。

 この頃にはだいぶ俺という一人称が板についてきた。夏服も長袖のワイシャツの袖をまくりネクタイを締めるというスタイルに変えた。

 なにより古畑が退学処分になったため、生き生きと過ごしていたのだ。

 そんな中で理想的な高校生活の象徴と言っても過言ではない「カノジョとランチ」というイベントはとても魅力的に思えた。


 ——だけどもう少し俺の近くに来て誘ってもいいんじゃないかなぁ? 教卓と一番後ろの席じゃ距離が開いてるせいでクラスメイトに丸聞こえなんだけど。


 心の中でぼやいている俺の心情なんていざ知らず、理央はさらに続ける。


「あんたが私の姿が見たいって言ったんだからね!? なら私の食事もちゃんとまぶたに焼き付けなさい!!」

「えぇ……」


 確かに『僕』はそう言った。でも違う。そうじゃない。齟齬を感じる。

 それに『僕』が抱いていた枢木理央像と『俺』が今感じている枢木理央像がだいぶ異なる。やっぱり見かけで判断したのが間違いだったようだ。

 大胆かつフランクに接してくる理央を見ていると、段々この子が男嫌いなのかが疑わしくなってきた。

 しかし、カレシとして一緒に登校しようと近寄った時に張り手を見舞われたので嘘ではないはず。問題はコミュニケーション能力ではなく、男子との適切な距離感がわからないということなのだろう。


「わかったよ。付き合うからそんな大声で叫んで俺を晒し者にしないで……」

「はぁ!? 私と昼ご飯食べるのが晒し者だって言いたいわけ!? それってカレシとして——」

「ストップ! ストップ!! これ以上地雷原を四本足で駆け抜けないで! わかった、行くから!」


 クラスメイトがケタケタと笑う空間が耐えられず、俺は弁当を手に持ち飛び出した。追うように理央がついて来る。

 「連敗王大道将一ついに白星を挙げる」なんて誰かが言ったような気がした。俺と理央の関係が公然の事実と化した瞬間だった。


 理央の男嫌いはどうやら周知の事実であった。それもそのはず。一年生の頃、理央が男嫌いだと知らずに投げ飛ばされた被害者が多数いたからだ。噂は一気に広まり、枢木理央を知っている人間にとっては常識となっていた。

 俺が知らなかったのは知り合って日が浅かったからと理央が二年になってからは我慢をしていたからだ。投げ飛ばしをお目にかかることがなかったのだ。

 その証拠に理央は左手の甲を真っ赤にしていることがあった。心配になり尋ねると


「投げ飛ばしそうになった時、自制するためにつねるから」


 と言っていた。彼女はずっと前から戦っていたんだ。

 そんなことを考えながら渡り廊下を歩いていると、体育館裏に到着した。人目を避けたいという意味もあったが、彼女と食べるとしたらここ以外思いつかなかった。


「よいしょっと。じゃ、いただきまーす」

「……いただきます」


 段差と向かいの地べたに座り、二メートルという一定の距離を保ちながら食事を始めた。無論、段差が理央で地べたが俺だ。

 しばらく食べ進めた後、俺はある疑問を投げかけた。


「男嫌いってさ……手とかも繋げないの?」


 彼女の箸の動きが静止した。刹那、俺は身構える。まずいことを聞いてしまったかもしれない。


「ないわよ! 悪い!?」


 理央が開き直って、声を荒げる。俺は驚くと同時に「やっぱりな」と安堵した。穢れを知らない純粋な女の子なんだ。


「……それに手を繋ぐのは好きな人とって決めてるの……」


 怒ったかと思ったら、今度はいとけない様子を見せる。急な変化に戸惑い、かける言葉を失った。この子はなんでこんなに感情の起伏が激しいのか。


「どうして……?」


 恐る恐る出てきた言葉は気の利かない言葉。ただただ続きを促すだけだった。


「私に柔道を教えてくれたお父様が言ったの……『いいか、理央? お前が男を掴んでも許される時が二つある。一つは心から愛した男の手を握る時。もう一つは下心を持って近づいてくる男を投げる時だ』って。それを聞いてから私は好きじゃない男は投げることに決めたの! だから手を繋ぐのは好きな人だけ!」


 ——待って。どうしてそうなる?


 理央のお父様の言った言葉が仮に一語一句間違いがないとしても「好きじゃない男は投げる」はおかしい。その理屈だと下心を抱いているわけでもなく、理央のことをなんとも思っていない無害な人間にとってはただのとばっちりだ。


「うん!! 無理だね!!」

「なにが無理よ!?」

「だってそれ、今のところ男の子なら誰でも投げるってことだよ? 俺だって好きでもない、偽物のカレシなわけだし。それじゃあ男の子と仲良くなるのは無理だって」


 図星を突かれたのか、理央が苦い顔をした。

 下心か興味かはともかくとしても、純粋に理央と話したくて近づいてきた男の子だっていたかもしれないのだ。

 彼女は自分自身の手ですべての可能性を潰しにかかっている。極めて重症だ。佐々木さんが諦めるように言ってきたのも納得できる。


「仕方ないじゃない! 恋したことすらないんだから! だからあんたみたいなのをカレシにして試してるんじゃない! それに男はみんな下心持ってるんでしょう!?」


 初心うぶだ。間違いなくこの子は初心うぶだ。

 お世辞にも恋愛経験豊富とは言えない俺だけど、彼女が恋をしたことないのはよくわかった。今時「男はみんな下心持ってるんでしょう!?」という偏見を持っている女の子なんて珍しい。

 っていうか俺がカレシにされたのってそういう理由だったのか。やっぱり……無害そうだから。

 俺は残り二つの唐揚げのうちの一つを頬張り、しばらく咀嚼してから飲みこんだ。


「つまりすべての元凶はそのお父さんの教えだ。というより解釈違いをしている理央ってことだね」

「別に解釈違いしてないし」


 俺から顔をそらした理央がふくれっ面を見せる。能力や学力は秀でているのに中身はどこまでも子供みたいだ。


「解釈違いをしてないにしても、理央が男嫌いを治す方法はただ一つ。男の子に暴力を振るわないようにすること。で、手を繋げるようになろう」

「誰と……?」


 「誰と」と言われてすぐさま答えが出なかった。一応カレシなんだから「俺と」って言えばよかったのだろうか?

 でも、それは「俺を好きになって」と間接的に言っているようなものだ。躊躇したせいで、沈黙が流れていく。


「そこは『俺と』って言いなさいよ。ホント、女々しい!! これじゃあんたも先が思いやられるわね」

「……はい」


 即座に男らしい回答が思いついても、言えないんじゃ女々しいままだ。自分に苛立った俺は最後の唐揚げに箸をつけようとする。


「ねえ」


 勢い任せに掴もうとした箸を理央の言葉が止める。「ねえ」。そのワードを聞いて嫌な思い出が蘇る。

 この子の「ねえ」は可愛いらしいお願いをするためのものじゃない。だが言う前に断るわけにもいかない。黙って二の句を待つことにした。


「その唐揚げ……美味しそう。私にちょうだい」


 図々しい物言いだが、驚きはない。この前みたいに気に食わないところを指摘するために怒鳴るのかと思っていた分、むしろ拍子抜けした。


「いや、でも近づいたら……」

「口元に運ぶくらいの距離なら私にだって我慢できるわよ! それに我慢できるように訓練しなきゃなんでしょ!?」


 やると決めたことに大してはどこまでも大胆になれる。この子のわけのわからないところであり、魅力であり、憧れる部分だ。

 その憧れに俺も近づきたい。勇気を振り絞る。ここで投げられることを恐れていては立派なライオンにはなれない。意を決して理央の近くに寄り、唐揚げを箸で掴む。

 小刻みに揺れる理央。細心の注意を払わなければ痛い目を見るのは俺だ。ライオンの餌付けは命がけで、飼育員さんの気持ちがなんとなく伝わってきた。いや、本物よりこっちの獅子の方がおっかないかも。


「うん、美味しい」


 箸はついにライオンの口元に運ばれた。だが ——


「なんで!?」


 結局食べた後に軽くビンタされた。情けない声が再び出てしまう。


「ご褒美♪」


 明るく満面の笑みで言ってるけど全然可愛いとは思えない。むしろ狂気すら感じる。でも何故か嬉しくなった。マゾ的な意味では断じてない。


「なに笑ってんのよ。ホント、キモい」


 うん、やっぱりこのライオンカノジョ可愛くないや。

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