第14話


 見たくない光景は、見ないようにしようと意識すればするほど、視界に入ってくる。茶色の柔らかい髪。もう二度と私に向けることはない、眩しい笑顔。心が切り裂かれる。


 帰宅しようと、キャンパス内を歩いていた私は、彼を見つけた。彼はまだ講義があるようで、キャンパスの奥の校舎へと歩いていた。隣にいる女子学生は、最近連れて歩いている同じ学部の子だ。講義も二人で受けていることが多い。彼らと同じ学部の私は、否応なくその姿を見てしまう。


 あぁ、私はどうしてこんな苦しみを抱えなければいけないのだろう。彼は幸せに生活しているのに、どうして私だけが。


 私の心が最後まで残っていた。たったそれだけの違いだ。それなのになぜ、自我を忘れて泣き喚きたくなるほど、私は苦しまなければならないのか。


 彼の隣にいる彼女は可愛い子だった。栗色の長い髪で、綺麗に化粧をした姿は花のようだ。彼に新しい恋人ができたという噂は、今のところ聞いていない。彼女は友達の一人なのかもしれないが、限りなく恋人になる可能性が高い人物だった。


 考えただけでも胃が痛む。私の心が残っているというのに、何の配慮もされない。


「俺、アルバイト忙しいからさ」


 彼の声が聞こえた。普通に会話するのなら、それほどまでに大きな声を出さなくてもいいはずなのに。


「へぇ、そうなんだ! 大変だね!」


 隣にいる彼女は、彼の声の大きさに違和感を覚えていないようだった。






 ……私だけだろうか。彼が私に誇示するように、大きな声で話したり、女の子を連れて歩いたりしているように感じるのは。私の意識が彼の方へと流れていくのも、一つの原因だと思うが、それにしても彼の声が聞こえたり彼の姿が目についたり、多い気がするのだ。


 いや、私の感覚に間違いはないだろう。彼は確実に私に誇示している。彼への心が残っている私に、誇示することを楽しんでいる。苦しむ姿を見て、快感を覚えている。自分はこれほどまでに愛されていたと。その愛を自分から切れるほど、自分は上手だったと。


 別れを後悔している私を見るのは、彼にとって心地のよいことなのだ。


 私は自分を呪う。素直になれなかった私を。別れた彼を大切にできなかった私を。自分を変えることができなかった私を。


 すべて知っていた。私は歪んでいる。直そうと何度も努力したが、間に合わなかった。なぜ歪んでしまったのか。長年の苦痛が、私をそうさせた。私だって必死に逆らってきた。けれど、私には背負いきれない絶望だったのだ。


 私の周りには誰もいない。彼と共通の友達のみを持っていた私には、彼と別れたことによって、友人と呼べる人間が誰一人として残ってはいなかった。


 大学のイチョウ並木の、ざわざわと風に揺れる葉を見上げる。葉脈の一つ一つが、日の光に透けている。秋になれば若々しい緑も朽ち果て、地へと落ちていく。儚いはずの葉の運命が、今の私には羨ましく思えた。


 生き過ぎるというのは、不幸でしかない。今の私は紅葉を終え、無様に茶色く乾いても、必死に枝にしがみついてる葉だ。本来は紅葉を迎え、鮮やかな紅や黄のまま地に落ちることが、美しい生命の終わり方なのだ。生きているのか死んでいるのかも分からないような姿で、枝に残り続けることは美しくない。美しいうちに死ぬのが、本当の美しい生命だ。


 私は生き過ぎた。幸せの絶頂で命を終えていたのなら、私は歪むこともなく、美しく純潔のまま命を終えることができた。幸せの絶頂期を過ぎ、引き際を逃し、かつて愛した相手を恨む私は、汚れた人間なのだ。


 こんな人間に、こんな感情を持つ人間になりたくなかった。後悔しても、汚れた私は二度と純潔には戻らない。醜い感情を持っていなかった私に戻ることはできない。


 眠るように死ねたら、どれだけ幸せだろう。


 そうだ。別れた彼と見た夕焼けの空の下で死ねたら、私はこの上なく幸せだった。冷たい風が頬をなで、髪が舞い上がる。黄昏の空を見ながら静かに目を閉じる。


 一日の終わりと同時に、命を終える。


 


 私はあの日、死んでいればよかったのだろうか? 


 もし、死んでいたら私は幸せだったのだろうか?


「紅羽!」


 校門の外から大きな声で名前を呼ばれ、足が止まった。私の名前を呼ぶ人間は、もうこの大学には誰もいないはずだ。正門へと目を凝らす。


 大きく手を振っている、茶髪の青年がいた。

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