第13話

 知恵熱だろうか。額と頬が熱かった。自分の身体のこと、心のこと以外でこんなに考え、悩んだのは久しぶりだ。


 短時間で大量の情報を頭に叩き込んだため、頭の悪い私にはクールタイムが必要だった。とにかく外に出て、冷たい風に当たって熱を逃がし、頭の中の混沌とした情報を整理したかった。


 私はフラフラとマンションの廊下を歩き、隅にある非常階段へと向かった。昨日、私が彼らと出会った場所だ。このマンションのことはよく知らないが、階段から外が眺められることは知っていた。


 階段の手すりに両手を添え、外を眺めた。近場に高い建物やビルはあまりないが、こうして十二階の高所に上ると、遠くのマンションやオフィスビルが見て取れた。


 ふと気になって手すりから少し身を乗り出し、真上の階段を見上げる。私はこんなところから飛び降りて来たのか。今になって恐ろしさを感じた。ただでさえ高所恐怖症だというのに、よく私の身体は飛び降りることができたものだ。


 圭を襲った時、私の身体の俊敏さと瞬発力は桁外れなほど優れていて、激しい動きをしたというのに、動悸がすることはなかった。


 これで、私の身体は動けるということが証明された。結局、操作する人間や意識次第なのだ。私は、私の身体を充分に使いこなせていない。黒い服を着た男は、見事に私の隠れた運動神経を引き出したのに対し、私は自分の身体の良さをまったく引き出せていない。それどころか動悸を起こしている。


 私の意識は、私の身体を制御するのに相応しくないのだ。


「大丈夫か?」


 後ろから声がして振り向くと、雅臣が険しい表情で私を見下ろしていた。彼の明るい髪が風になびいたと思うと、その直後に私の髪も風に舞った。自分の髪が風に舞う姿を見て、ふと私は自分の人生の今までのことを思い出した。どうしてここで思い出してしまったのか。気分が落ち込むだけだというのに。


 分かっている。私は忘れたくないのだ。新しい人間関係を作り、今までのことが古びて朽ちていくのを私は望みながら、同時に恐れているのだ。


「悪かった。一気にたくさんのことを話しすぎた。動悸とかしなかったか? 疲れただろう?」


 雅臣は外を眺めている私の右隣へと来ると、手すりへと肘を置いて私と共に外を眺めはじめた。気のせいかもしれないが、彼は部屋の中にいた時より表情が柔らかくなっていた。


 夕日が彼の姿を照らす。爽やかな風が彼の髪を撫でる。


 だが今の私にとって、彼は非常にたちが悪かった。


「大丈夫です。ちょっと頭の中を整理したくて、外に出ただけですから」


 笑みを浮かべ、私は彼を安心させるために明るく接した。すると雅臣は「そうか、よかった」と薄ら笑みを浮かべた。


「一つ聞きたいことがあるんです」


 「なんだ?」と、彼は私の質問を受け付ける姿勢を見せた。私は手すりの向こうに広がる街から彼へと顔を向けた。


「私がまた、あの黒い服の男に狙われるという可能性はありますか?」


 一度柔らかくなった彼の表情が、再びこわばった。


 ……怖かったのだ。また誰かに身体を乗っ取られ、他人を傷つけでもしたら、私に責任がなくても今度こそ警察に捕まえられるだろう。彼が今日話してくれたことを、そのまま話しても誰も信用してくれない。頭がいかれていると思われるだけだ。


 黒い服を着た男は、簡単に私へと憑依してきた。私がどこに住んでいるのかも、どんな武術ができるのかも知っている。また私を見つけ憑依することなど、造作もないだろう。私に予防することなどできない。


「完全にないとは言えない……」


 彼は申し訳なさそうに、肩を落として言葉を発した。分かっている。私の武術が欲しいからだ。それを目的として、再び現れるかもしれない。いや、現れる可能性の方が高い。


「あいつが逃げ回っている以上、捕縛任務が組まれたとしても、捕縛には時間がかかる。でも、お前は俺たちと接触してる。あいつがまた、お前に憑依したいと考えたら、まずお前の近辺を確認するはずだ。もし俺のような他の憑依者がいれば、あいつはお前に近づきにくくなるし、牽制になると思う。それに、何かあったら俺や清水たちが助けてやれる」


 何を言っているのかと、疲れ果てて呆れた笑みが零れた。私と彼らの関係はこれっきりではないのか? そう長く続けるものでもないし、彼らも私と長く関わることを望んではいないだろう。ならば私も望まない。彼らにとって、私はただ憑依されてしまった被害者だ。彼が真実を包み隠さず話し、私は事の重大さを理解して彼らに口止めされた。それで終わりだ。


「別に無理にとは言わない。だけどお前、相談する相手がいなかったって言ってただろう?」


 閉じていた口が力なく開いた。彼は独りぼっちの私を心配してくれていた。


「三人もいるんだ。一人くらい気の合うやつはいると思うし、ここに遊びに来れば、いつでも誰かに相談できる。これだけ友達ができれば、お前も少しは楽になるんじゃないか?」




 知り合ったばかりの男たちに友達になろうと言われても、信用できるはずがないし、友達はなろうと思ってなれるものでもない。


 私は人間不信になっていた。もう人に関わることはうんざりしていた。だが、人によって傷ついた痛みは、人で癒されるのだ。独りは誰かに傷つけられることはないが、何も変わらない。停滞し続ける。傷を癒し、前に進むには、やはり独りを抜け出すしかないのか……。


「……ありがとう、ございます」


 私は頭を下げた。彼は薄ら笑みを浮かべていた。


 結局、私も無様に頼れる人間を欲しているのだ。友達になったとしても、どう彼らと関わっていけばいいのか分からない。踏み込み過ぎれば、私は傷つく。傷つかない境界線を見計らうにはどうすればいいのか。


 戸惑いが頭の中を巡っても、私の心は知っていた。


 もう一度、人との繋がりを作ることができて、そして彼に友達だと言われて、本当はたまらなく嬉しかったのだ。

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