第9話
彼らの住んでいるマンションの入り口に、私は見覚えがなかった。昨日、突然の発作によって、このマンションを後にしたが、入った記憶がまったくなかった。出て行ったということは、このマンションに入ったということだ。何か一つ覚えていてもいいはずなのに、記憶がすっかりなくなっている。忘れているというものではなく、本当に記憶の流れが途絶えているのだ。
綺麗なエントランスだった。雅臣がポケットから鍵を出して、マンションの自動ドアを開けた。郵便ポストが並ぶ廊下を抜けて右に曲がると、一階の家々のドアとエレベーターが見えた。
「このエレベーター、やっと昨日修理が終わったんだよ」
苦笑いしながら、清水はエレベーターの上へのボタンを押した。
扉が開き、私たち四人が中に入る。清水は慣れた様子で手元に目をやることもなく、十二階のボタンを押した。
十二階。おかしいのだ。私は十二階への階段を上っている彼らを襲おうとした。昨日エレベーターが修理されていたとしたら、私はどうやって十二階より上の階へと上ったのだ? 私のこの身体で、この体力で、自力で十二階に上れるはずがない。
エレベーターを降りると、雅臣はすぐ目の前の部屋のドアへと近づき、鍵を開けた。部屋の位置はエレベーターの真向いということもあり、マンションの真ん中だ。ドアには「一二○三」と表示されている。
ドアが開き、彼ら三人が入った後に、私も玄関へと足を踏み入れた。男三人分の靴で埋め尽くされていたため、私は彼らの靴を飛び越えて自分の靴を脱ぎ、部屋へと進んだ。
「やっぱり、コンビニじゃ味噌ラーメン売ってねえよ!」
圭が部屋に入るや否や、嘆き始めた。
「去年辺りは見たけどな。レンジで温めて食えるやつ」
ソファーに座った清水が圭を見て笑っていた。並びの良い歯を見せて笑う姿は、余裕のある大人という感じで、細身で身長の低い圭とは対象的だった。
「でもいいんだよ! カップ麺で味噌味あったからな!」
負け惜しみのような言い方をしながら、圭はコンビニのビニール袋からカップ麺を取り出し、熱湯を入れるためにキッチンへ向かった。
悪かったと思っている。もし、私があの場で「私もお腹が空いている」と言っていたら、きっと彼はラーメン屋に行くことができて、出来立ての味噌ラーメンを食べられた。私の体調を考慮してコンビニという結論を出したのは雅臣だ。私にとっては嬉しい判断だったが、圭は望みがほぼ叶えられなかった。判断を下した雅臣のせいではなく、私の発言のせいだ。
「あの、すみませんでした。私のせいで……」
リビング、と思われる床の見えない散らかった部屋を目の前にして、私は謝った。三人が私へと顔を向け、私は三人分の視線の的となる。何気なく謝った言葉だったが、沈黙の中見つめられ、私は自分の今の体調を思い出す。私は今、人に見られることに耐性がついていない。見られているという緊張で、また発作が起きるかもしれない……。
「何言ってるんだ? 俺が食べたかったからに決まってるだろ」
そう答えた雅臣の手にあったのは、新発売という赤いラベルの貼られた五目堅焼きそばだった。「ずっと食べたかったんだ。これ」と言いながらも、彼は冷蔵庫の中に堅焼きそばをしまった。
「今食べねぇのかよ?」
ヤカンを傾け、カップ麺に熱湯を注ぎながら、圭が雅臣へと視線を向けた。目を離したせいでカップ麺の器までもが傾き、熱湯が零れそうになる。
「大事な話が終わってから食べる。その方が気兼ねなく、美味く食えるだろ?」
「じゃ、俺がこれから食うカップ麺は美味く食えねぇっていうのかよ?」
雅臣の言葉に圭がつっかかってきたため、ソファーに座っていた清水は馬鹿にするように鼻で笑った。近くにいた私に小声で「あいつら変でしょ?」と笑いながら尋ねてきた。
確かに変わってはいるが、思ったほど悪い奴には見えない。私は何も答えず、愛想笑いを返しておいた。
「よし、問題を片づけるとするか」
冷蔵庫の扉を閉めた雅臣が、私へと目を向けた。やっと本題に入るのかと頭が意識した瞬間、顔がこわばった。
「ソファーに座っていいよ」
清水の言葉に甘え、向かいのソファーに腰掛けた。なるべく身を小さくし、自分を見失わないように、自分の全身にだけ意識を集中させた。外界に意識を持っていくと、自分の身体と外界の境界線が分からなくなり、発作や動悸に繋がる。私の感覚の話であって、心理学的に証明できることではないと思うし、結論としては私の精神の問題なのだ。だが、発作を防ぐために私がどういう意識を持っていようと、発作が抑えられればどうだっていいのだ。
私が座ってすぐ、雅臣は清水の隣へ腰かけた。ソファーが軋み、彼と目が合う。何もかも見透かしているような、輝きのない雅臣の目に、私は恐怖を抱いた。瞬きもしない。ただ私を見ている。私に穴が空くほど。
「昨日のことは思い出せるか? あそこにいる馬鹿を襲う前、お前はどうやってここに来た?」
あそこにいる馬鹿。それはカップ麺に熱湯を入れ、ひたすら時計を確認している圭だ。
私がどうやってここに来たのか。今、彼らとマンションの入り口を通って来たが、何もピンとくるものはなかった。私がこのマンションで圭を襲ったということは、入口を必ず通っているはずだというのに、私は何も感じなかった。思い出しもしなかった。
「……分からないです。気がつくと、このマンションの手すりに立っていて」
一通り説明しようとしたが、彼は私の言葉を遮るように「そうか」と呟き、「お前に見てほしい物がある」とソファーの下へ手を差し入れた。
「周りに配慮して安全に出してよ? 俺、怪我したくないからさ」
清水が笑いながら足を抱え、ソファーで丸くなった。
雅臣が手こずりながら出してきたのは、黒い柄の先に、日本刀のような刃物の付いた武器だった。長さは二メートルほどある。
「お前、これに見覚えあるか?」
心臓が大きく跳ねた。見覚えならある。私は昨日、これを持って圭に襲い掛かろうとした。だがそれ以上に、私は驚いていた。私がこの武器を持っていたということに、理由がないはずがないのだ。
「いや、違うな。お前、これを使えるか?」
眼球の内側から圧がかかり、目が飛び出るのではないかと思うほど、私は目を見開いていた。なぜか瞬きができなくて、目が乾燥すると、じわじわと涙が溢れてきた。
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