第10話

 沈黙する私に代わって、「へ?」と声を上げたのは圭と清水だった。圭はカップ麺をすすることを止めて私へと目を向け、清水は余裕のある表情から一転して戸惑ったように雅臣へと目を向けた。


「ちょっと待ってよ。雅臣は紅羽ちゃんが、これを使えるって言いたいの?」


 言葉をやっと繋げて尋ねてきた清水に、雅臣は何も答えなかった。それどころか清水に目を向けることもなく、ただ私を見ていた。私は彼に、自分が答えることを求められているのだと気づいた。答えなければ終わらない。話したくなくても話さなければ、この重圧からは解放されない。


 口をゆっくり開こうとすると、ちょうど清水が笑いながら茶化すように言葉を発した。


「紅羽ちゃんにそんな体力あるわけないでしょ。だって昨日は発作まで起こしてたっていうのに。冗談でしょ? 無理矢理言わせるなよ雅臣」


 私は口をつぐむ。


 当然だ。誰も信じない。だが、どうして彼が、雅臣だけが確信を持って私に尋ねてくるのか。


「今の話じゃない。俺は過去の話を聞いてるんだ」


 割って疑問を投げかけ、邪魔をしてきた清水に腹を立てたのか、雅臣は清水を睨みつけた。


「過去ってどういうことだよ?」


 睨みつけられ、声を出すことも許されなくなった清水に代わって、今度は圭が雅臣に尋ねてきた。雅臣は圭へと視線を移して睨みつけると、ぶっきらぼうに答えた。


「昔のこいつは、今みたいに発作で苦しんでなんかいなかったってことだ」


 その通りだ。昔はこんなことで苦しんで、日常生活も送れないような無様な姿ではなかった。


 彼は私へと向き直り、一息ついて言葉を発した。


「お前、相当強い薙刀の選手だっただろ?」


 圭と清水が目を丸くして顔を見合わせ、やがて私へと視線を向けた。


 彼ら二人の目は、私が昔稽古の中で同級生に向けられた目とよく似ていた。恐怖に満ちた、軽蔑にも似た視線。私はその中で一人黙々と稽古をしていた。視線を振り払うために、自分の気を他人から逸らすために。


「競技薙刀です……。武道の……」


 そうだ。私は武道の薙刀をやっていた。だがそれは過去の話。今は違う。今の私と過去の私は、まったくの別人だ。


「競技の中で、お前は相当な実力を持っていたんだろ?」


 彼の問いかけに、私は首を横に振った。だが、彼はそれどころではないようで、頭を抱えて俯いていた。


「……やっぱりそうだったか」


 ぶつぶつと呟く雅臣と同様に、清水と圭も、表情を変えて眉間に皺を寄せていた。


「だから、紅羽が狙われたのか……」


 口に入れようとした麺を取り逃がしながら、圭が雅臣に尋ねた。雅臣は顔を上げ、ソファーの背もたれに上半身を乱暴に預けた。その振動で隣に座っていた清水の身体が揺れる。


「あの、どういうことでしょうか……?」


 よく分からない。三人は何かを理解しているのに、私だけが取り残されている。この状況が許せなかった。早く私にも分かるように説明してほしい。


「昨日、お前は憑依されていたんだ」


 聞きなれない言葉に、私は首を傾げた。憑依? 憑依というのは心霊関係のものでしか聞いたことがない。


「……幽霊か、何かですか?」


 背筋が凍った。幽霊に憑依されていた。ただでさえ心霊現象が苦手な私が、憑依されていた? 考えただけで恐ろしい。


「違う。幽霊なんているわけがないだろ」


 あっさり雅臣は否定した。幽霊じゃなかったら、何が私に憑依していたというのだ。


「忘れたか? 俺がお前を押しのけた時、黒い服を着た男がマンションの手すりから落ちていっただろ」


 私は昨日のことを、もう一度思い返す。そう言えば、黒い服を着た男がいた。それまであの場にいなかった男が、私たちの目の前に突然現れた。と、いうことは、あの男が私に……。


「あいつがお前に憑依していたんだ」


 人間が、人間に憑依した。科学的に、説明などつかないではないか。そんなことを、なぜ真顔でこの男は言っているのだろう。馬鹿らしくて笑ってしまう。


「どういうことか、分からないです」


 あまりの驚きと馬鹿らしさで、感じの悪い言い方をした。しかし、雅臣は嫌な顔一つせず、腕を組み、口を開いた。


「お前は昨日の記憶をほとんど持っていない。それは、お前があいつに憑依されたからだ。身体と意識の実権は、一時的にあの男に渡っていた。だからお前は覚えていない。思い出すことすらできない。お前を操作していたのは、お前じゃないんだからな」


 だが、私は圭を殺そうとした。その記憶は持っている。私は心の底から思ったのだ。こいつを殺さなければ、と。記憶がないわけではなかった。


「でも私は、圭さんを殺そうとしました。意識はあったんです。殺さなきゃって思ったんです。正気ではなかったけれど、あれは確かに私の意思で……」


 圭に目をやると、眉を下げて心配そうに私を見ていた。


 結局、私に意識があったのだから、私がすべてやったことではないか。責任を逃れることなどできない。


「それも説明がつく。お前の記憶が戻っているのは、圭に襲い掛かる直前と直後だろ? それはあいつが意図的にお前の身体と意識の実権を、半分お前に任せたからだ」


 私は笑う。馬鹿馬鹿しいと。いい加減にしてくれ、と。


「仮に、誰かが私に憑依していたとして、どうして私に半分意識を戻らせたんですか? 意味があるとは思えないです」


 雅臣は呆れたように首を横に振った。「なってない。まったくなってない」とぼやき、そして私を指さした。


「お前の実力が必要になったからだ」


 私の実力。頭の中を整理しようと、私は口元に手を当て、一からすべての理論を組み立て直す。だが、基盤からおかしいのだ。成り立つはずがない。人間に人間が憑依するなど、有り得ないことを前提として話が進められている。


「あいつは殺しを目的としていた。だからお前に憑依することを選んだ。お前には実力があったからな。お前の意識が突然戻ったのは、あいつがお前の実力を発揮させるために、わざと意識を戻らせたんだ。それでもすべての意識を戻らせたら、お前は正気に戻って人を殺すことを止める。だから半分、もしくは四分の一程度の意識を戻らせた。『殺さなければ』という意識を持たせて精神を掌握しつつ、お前の技だけを完全に発揮させようとした」


 何を言っているんだ。笑わずにはいられない。それではまるで、私はロボットで、黒い服を着た男が操縦していたということじゃないか。


「どうして、何もかも知ってるような口ぶりで話すんですか?」


 昨日の発作が起きた時、助けてもらった恩がある。だが、ここまで訳の分からないことを事実のようにして話されると、反論せずにはいられない。


「それが事実だからだ」


 揺るがない視線を私に向け、雅臣は言った。私が何を言おうと、自分の言い分を曲げる気はないようだった。


「事実って……何を根拠に言ってるんですか? あの場にいなかった黒い服を着た男が突然現れたからって、私に憑依していたとは限りませんよね?」


 そうだ。普通、突然人間が現れたら、私たちが気づかない間にあの場に来ていたとか、常識の範囲内で考えるだろう。それを「憑依していた」などという、超常現象の中でもぶっ飛んでいる考えを、なぜ持ち出してきたのか。


「根拠はある。俺も人間に憑依できるからだ」



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