第8話

 寝苦しい暑さで目が覚めた。ふと時計に目を向けると、午前九時を回っていた。


 額の汗を拭い、息をつく。十二時間以上も眠っていた。最近眠れていなかった分を、取り戻すかのように深く眠っていた。


 暑さはともかく、頭の中は比較的すっきりしていた。ここ一週間では一番調子が良い。やはりたくさん眠ると、心も身体も楽になる。毎日こんな風に眠れたら、きっと私の健康状態は改善する。しかし、長時間眠ることが難しいのだ。途中で起きてしまったり、夢にうなされたりしてしまう。今日はなぜ、よく眠れたのだろう?


 ベッドから降り、喉が渇いてキッチンへと向かう。途中、リビングのテーブルに置いてあった見慣れないメモ帳を見て、私はやっと昨日のことを思い出した。「瀬良雅臣」と達筆で書かれた文字に続いて、電話番号とメールアドレスが書かれていた。


 メモ帳を手に取り、私はそれら一字一字を眺める。夢であって欲しかったのに、夢ではなかった。すべて現実だったと思い知らされ、落胆した。


 キッチンへ向かい、コップ一杯分の水を飲むと、風呂場へ向かった。全身にかいた汗が気持ち悪くて、とにかく洗い流したかった。


 明るい髪色の彼は、「雅臣」という名前だった。彼は今日ここに私を迎えに来ると言っていた。だが、何時頃来るのか、時間に関しては何も伝えられなかった。濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、時計を確認すると、九時半を過ぎていた。まだ午前中だというのに、このまま待ちぼうけを食らわされたら、時間を無駄にすることになる。


 時間が分からないのなら、彼から教えてもらっている連絡先に連絡を入れればいいのだろうか。いや、面倒だ。人と話したり、やり取りしたりするのは骨が折れる。そんなことをするくらいだったら、自分の家で静かに待っていた方が断然いい。


 髪を乾かし終えると、彼の言葉を思い出し、テーブルの上に置いていた薬を一錠、ポケットに入れた。「薬は、ちゃんと持ち歩いておいた方がいい」彼が言っていた。


 その通りだ。安心して外で活動するためにも、薬はお守り替わりとして持っていた方がいい。薬を飲んで発作が治まらなかったことはない。この薬があれば、私は自分をコントロールできる。


 呼び鈴が部屋に響き渡った。突然のことで驚き、私は時計に再び目をやる。思った以上に迎えが早かった。リビングの壁に取り付けてあるインターホンのモニターへと小走りで向かい、外にいる人間を確認する。


 そこには、あの夕日の髪色をした彼の、目をこすっている姿が見えた。


「どちら様ですか?」


 昨日の彼だと確認したのに、私はまた、無駄なことを聞く。


「昨日の人です」


 モニターで外の様子が見えているのではと、彼は感じたようで、怪訝そうな顔をしていた。


「ちょっと待っていてください。今、ドア開けますから」


 インターホンを切ると、玄関へ向かい、二重ロックを外してドアを開けた。目に飛び込んできたのは、彼の着ている白いシャツで、見上げた先に彼の顔があった。昨日はそれどころではなく気づかなかったが、彼は私が記憶していた以上に長身だった。


「おはよう。体調はどう?」


 彼は長身のせいで、私を見下ろすように話しかけてきた。威圧されているような圧迫感がする。


「もう大丈夫です。昨日は、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした」


 本当に迷惑をかけたと思っている。介抱をしてくれたどころか、家にまで送り届けてもらった。私が吐きそうになっていた時も、彼はまったく逃げる素振りも見せなかった。感謝してもしきれない。深く頭を下げた。


 私の態度に驚いたのか、彼は「え、あぁ……」と意味のない言葉を発しながら、戸惑ったように両手を上げた。


「礼を言われるようなほどのことを、俺はしてない。……別にいいよ」


 朝の日差しが眩しい。彼の背後に見える空は、台風が過ぎ去った後のように青かった。


「昨日も言ったけど、もしお前の体調に問題がないのなら、話を少し聞かせてもらいたい。いいか?」


 問題ない。そのつもりでいたのだから。頷くと、彼は「下に車があるから」と言ってアパートの廊下を歩き、階段を降りて行った。私は部屋の鍵を閉め、彼を追いかけた。


 階段を降りると、アパートの敷地に車が駐車してあった。昨日、私が彼らに送ってもらった乗用車だった。彼の後をついて行くと、車内に人影が見えた。


 彼だけが私を迎えに来たのではなかったのか。ふと不安になる。男だらけの中に、女の自分が一人飛び込んで、危険な目に遭いはしないか、と。


 彼は運転席のドアを開け、私へと振り返り、「いいよ。乗って」と口にする。私は警戒しつつも、彼に言われるまま後部座席のドアを開けた。


「遅かったじゃねぇか!」


 後部座席にいた若い男が、ドアを開けた私を真っ直ぐに見つめてきた。口元は嬉しそうに笑っている。背は低く、骨と皮だけと例えられそうな細身だった。そのせいか、若い男の座った後部座席には、充分な余裕のある空間が広がっていた。男自身の足元も、窮屈そうには見えなかった。


「まぁ、座れよ。もう体調は大丈夫なのか?」


 針金のようにまっすぐな茶髪は、肩まで伸びている。女と思われるくらいの髪の長さだ。


「はい、大丈夫です。本当に、ご心配とご迷惑をおかけしました」


「気にすんなって! 俺、圭っていうんだ。お前は?」


 圭と名乗った、この若い男にも世話になった。発作が起き、車でアパートに送り届けてもらう途中、私は彼の膝を借りて横になった。


 でも、私はこの若い男を、殺そうとした。


「木村紅羽です。よろしくお願いします」


 私に殺されそうになったのに、なぜ圭は私を避けようとしないのか。車のドアを開けたまま、外に立ち尽くしたままの状態の私を見て、運転席にいる雅臣が言った。


「乗れよ。車の中の方が涼しい」


 言われた通り車に乗り込み、圭の隣に座った。私が入って来ると、圭は僅かに自分の座席を詰めた。そして運転席に目を向け、親指で雅臣を示した。


「こいつは雅臣っていうんだ。覚えておいてやってくれよ」


 雅臣は、圭よりも明らかに歳が上に見えた。だが圭は、彼に対して偉そうな態度を取っていた。


 名前を覚えるために運転席に座る雅臣の後頭部を見つめていると、バックミラー越しに彼と目が合った。彼は私をずっと見ていたようで、瞳は揺らぐことなく座っていた。


 私と目が合ったことに気づくと、彼は咄嗟に視線を私から外し、フロントガラスへと向けた。


「こっちは清水」


 圭が助手席に座っている年上の男を指さした。昨日もいた男だ。


「よろしくね。紅羽ちゃん」


 助手席からこちらへと振り向いた年上の男は、明るい髪の雅臣と同じくらいの年齢に見えた。こげ茶色の髪はワックスで整えられていて、服装も流行を取り入れている。


「どうする? 飯買って行く?」


 清水が運転席にいる雅臣に尋ねた。エンジンをかけてハンドルを握った雅臣は目を細め、眉間に皺をよせた。


「買って行った方がいいだろうな。また外出するのも面倒だし」


 雅臣の答えに、待っていたと言わんばかりに圭が食いついてきた。座席から立ち、運転席と助手席の隙間へと上半身を突っ込む。


「ラーメン食いに行こうぜ! 俺、味噌ラーメン食べたい気分だったんだよ!」


 食べ物の話に、私は血の気が引いた。最近食べられないのだ。食べるとすぐに「吐いてしまうのでは?」と不安になり、食欲をなくす。実際、戻したことはないのだが、不安になると胃から何かが込み上げてくるようで、食べられなくなってしまう。


 どうしよう。このまま連れて行かれても、食べることなどできない。他人と一緒だと、ますます食べる量が少なくなる。食べ物を残したら、人格や体調を疑われ、気味悪がられるだろう。残した時の気まずさを知っているから、それなら食べない方がいいという考えに至ってしまう。


「お前、腹減ってるか?」


 雅臣が振り返り、私へと視線を送ってくる。


 ことごとく運が悪いと思った。出会って間もない人間に、食事に誘われるなど、私にとってはハードルが高すぎた。とっさに、二つの選択が頭の中に浮かぶ。一つは彼らの誘いにのり、そこで少食であることを露呈させるか。もう一つはここで早々に断るか。どちらも感じが悪いが、結局相手に不快な思いをさせることに変わりはない。あとは私次第だ。


「いえ、あまりお腹は空いていないので……」


 申し訳なさそうに、私は視線を落として彼らに言った。彼は一瞬、私を心配そうに見つめてきたが、すぐに「よし、じゃコンビニで済ませるぞ」と言って、車を発進させた。


「え? 味噌ラーメンってコンビニに売ってるのかよ」


 圭は納得していないようで、大声で運転席へと訴えた。


「なかったらカップ麺で我慢しなよ」


 助手席に座っていた清水が雅臣の代わりに答え、その呆れた口調に圭は頬を膨らませた。この様子だと食い下がり続けるのかと思ったが、圭は意外にも大人しく座席に戻り「分かったよ」と言って足を組んだ。


「お前も食える量だけでいいから、腹に入れた方がいいぞ」


 小声で雅臣が私に呟いてきたが、清水と圭は何も聞こえていないようだった。聞こえないふりをしているだけだったのかもしれないが、彼の言葉に二人は反応しなかった。


 見抜かれていたのだろうか。私はとにかく頷いた。コンビニで自分の好きな物を買えるのなら、選択肢は広がる。食べられそうなものを、食べられる量だけ買えるのだ。


 私にとって嬉しい方向転換だった。

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