第7話

 静けさに包まれる。胸の上に手を置くと、もう動悸は治まっていた。自分の身体なのに、なぜ自分の意思でコントロールできないのか。まるで誰かに身体を支配されているかのようだ。


「俺の電話番号とメールアドレスを書いておいたから、何かあったらいつでも連絡して。夜中でも大丈夫だから。遠慮しなくていい」


 リビングから彼の声がした。電話番号とメールアドレスという単語を聞いて、私は驚いた。どうして私に教えるのか。別に知りたいなんて言っていない。


 なんだか気持ち悪かった。初対面の男から連絡先を教えられるというのは、汚い気がした。別に深い関係になると決まったわけではないが、私の中の何かが嫌がっていた。


 汚い。欲しいなんて、一言も言ってないのに。


「メモ帳はテーブルの上に置いておくから」


 ベッドに寝ている私の元へと戻って来た彼は、何事もなかったように、無表情で私に報告した。連絡先を教える行為は彼にとっても、私以外のすべての人間にとっても、きっと造作もないことなのだろう。それが普通。私がおかしいのだ。


「俺はそろそろ帰る」


 彼がようやく口にした言葉だった。私はその言葉を待っていた。だが形式的に彼を見送らなければならないだろうなと思い、身体をベッドから起こすと、彼は首を横に振った。私は軽く頭を下げ、また横になった。


「玄関から帰ったら、お前がわざわざ起きて鍵を閉めに行かなきゃならなくなるから、窓から帰るよ」


 そう言って彼は玄関へと行き、自分のスニーカーを持って来た。カーテンがひかれている窓の前に立つと、何か思い立ったように動きを止め、私へと振り向いた。何を言われるのかと冷や冷やしていると、彼は囁くように言った。


「何も、気にしなくていいからな」












 私が返答する間もなく、「じゃ」と言って、彼はカーテンを開け、窓枠に腰掛けて靴を履き、窓から出て行った。


 部屋から他人がいなくなったことに安堵し、判断力が戻ってきた。そして、私ははっとした。ここはアパートの二階だ。


 彼は一階だと思って飛び降りたのかもしれない。私はベッドから飛び起き、彼の姿を探したが、当然ながら窓枠に彼の姿はなかった。いくら二階とはいえ、きっと大けがをする。私は慌ててベッドから降り、窓へと駆け寄ろうとしたが、外から彼が地面に着地した音が聞こえてきた。同時に、「遅いぞ! 雅臣!」と若い男が叫んでいる声が耳に入り、彼の無事を確認した。


 息をついて、ベッドに横になる。彼は普通の人間ではないと思った。だが、今日起きたおかしなことによって、私も彼らと同じように、普通の人間ではなくなった。私はまた、知ってはいけないことを知ってしまった。知ることは罪だ。どんなことでも、知らない方が幸せなのだ。


 起きていると、また発作が起きる気がした。私の思考を止めるには眠るしかない。ちょうど、彼に手渡された薬が効きはじめ、瞼が重くなってきた。身体がどんどん沈んでいく。


 私は何も知らない。知らないのだ。私はこの部屋に一人、ずっとうずくまっていた。人に愛される幸せも、人の温かさも知らない。






 知ってしまった。汚れてしまった。






 私は逃げるように眠りについた。

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