第6話
テーブルの上を探る音が止むと、キッチンから食器が鳴る音がした。やがて水道から水が流れる音が聞こえ、彼が再び近づいて来る気配を感じた。
「半分に割ったのがあったけど、一錠飲んだ方がいいんじゃないか?」
右手にコップを、左手に半錠に割った薬と一錠の薬を持った彼がいた。なんて気が利くのだ。私は別にそこまで求めていないのに。
彼の左手から一錠の薬を手に取り、彼の右手からコップをもらい、口へ流し込んだ。効き目がすぐに出ることは有り得ない。だが、急に楽になった気がした。症状を抑えるための最大限のことができて、安心したからだろうか。動悸が少しずつ落ち着いていく。
息を整えつつ、ベッドに横になる。彼を見上げると、怪訝そうな顔で私の部屋の中を見渡していた。
「薬は、ちゃんと持ち歩いておいた方がいい」
分かっている。いつもは持ち歩いているのだ。だが、今回だけは無理だった。持ち歩くのを忘れたという依然に、私は家で眠っていたのだ。家にいる間もポケットに薬を入れておくよう気をつけるなど、ますます気が狂いそうだ。
「あと」と、彼が何かを言いかける。気まずい雰囲気が私と彼の間に流れた。続く言葉がよい意味のものではないことくらい、容易に想像できた。
「相談できる相手がいるのなら、遠慮せずに相談した方がいいぞ」
私の顔に何か書いてあったのだろうか? 初対面の人間に分かられてしまうほど、私は悩みを持っている顔をしていたのだろうか?
彼の言う通りだ。私は参っているのだろう。でも、病院に行っても、この地獄から抜け出す手がかりはつかめなかった。
相談できる相手がいたら、もう相談している。いないから困っているのだ。でも、私に友人がいたとしても、私はきっと自分の心の中で思うことを話さなかった。自分の持っている感情が、他人にとっても厄介なものだということを知っていたからだ。だからきっと、周りに友人がいたとしても、私は誰にも話さなかった。結果は同じことになっていた。
「相談できる相手が、いなかったんです」
私は力なく笑った。身体から心を壊し、心からまた身体を壊し、抜け出せない悪循環に陥っている私は、彼にどう見えたのだろう。
彼は眉間に皺をよせた。何か言葉を発しようとしたが、考え直したように再び口をつぐんでしまった。
ぼうっと天井へと視線を向け、私は後悔した。「相談できる相手がいなかった」と、事実を話すのではなく、「そうですね、話してみます」と適当に彼の言葉をやり過ごせばよかったのかもしれない、と。
判断を間違えた。彼に対して私は独りだと嘆いても、意味などないのに。言われた方はどうしようもないし、ただ迷惑になるだけだ。
「お前、明日は空いてるか? 今日起きたことで、聞きたいことある」
明日は大学の講義がある。しかし、これほどまでの非日常が起きた翌日に、平気な顔をして大学に行けるほど、私は強くなかった。
「大丈夫です」
今日起きたこと。私はぼんやり思い出した。通常の意識を思っていなかった私の心理は、人を殺そうとしていた。私は壊れてしまったのだ。こんな私が、元の生活を送れるはずがない。私の人生は終わってしまった。
「さっきのことは、気にしなくていい。お前は被害者だ」
彼は言う。慰めようとしているのだろうか? 私が被害者のはずがない。確かに私は危害を加えようとした。立派な加害者だ。薬を飲んで眠りについた後、家を出て、彼のマンションへ向かった記憶はない。しかし私は、自分の意思で若い男を殺そうとした。私がしたことなのだ。若い男を見たのも、知ったのも今日が初めてで、恨みなどない。それでも私は「こいつを殺さなければ」と強く思い込んでいた。気が狂ったとしか考えようがない。
「私……人を殺そうとしました」
理不尽だ。いつもの私なら人を殺そうとなんて考えるはずがないのに、私は自分のしたことを認めざるを得ない。人殺しも、命を奪った者も、私の生い立ちにおいて、誰よりもひどく嫌わなければならない存在だった。それが気づけば、嫌っていた反対側の人間に堕ちてしまった。
これは殺人未遂の自白だ。捕まるのだろうか? だが、今度はいつ意識と記憶を失い、人を殺そうとするか分からない。一層のこと私を拘束するか、隔離するかしてもらわないと、また同じことが起きてしまう。私は自分の行動に責任を持つことができない。これ以上、人の命を奪うようなことに足を踏み入れたくない。
「頼む。気にしないでくれ。お前が心を病むようなことじゃない」
彼は申し訳なさそうに俯いた。この様子だと、彼は何かを知っている。人を殺そうとした私自身が知らない何かを、彼は知っている。
「明日また、俺たちのところに来てもらえないか? 車で迎えに来る。具合がまだ治ってなかったら、様子だけ見て帰るから。正直、あんなことがあった直後に、お前を一人にしておくのは心配だ」
今日のことで、私が説明できることは何もない。だが、彼は私に話を聞かせてほしいと言っている。私が協力することが、介抱してくれた彼らへの恩返しになるというのなら、私はするべきなのだ。
「分かりました」
私が静かに頷くと、彼は部屋をぐるりと見渡した。何かを探しているかのように。
「何か書くものある?」
彼の右手はペンを持ち、文字を書くジェスチャーをしていた。
「テーブルの上に、メモ帳とボールペンがあると思うんですが……」
そう呟くと彼は私に薄ら微笑み、リビングへと向かって行った。
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