第5話

 ドアが開く。三センチほど開けた状態で彼は手を止め、中の様子に耳を澄ませた。部屋の中から物音はしない。ドアを大きく開け、彼は玄関に足を踏み入れる。


 「靴」と言われ、私は自分の足元に目を落とした。彼の首から腕を離し、靴へと手を伸ばすが届かなかった。「一度降ろしてほしい」と言おうとした瞬間、彼が瞬時に私の靴へと手を伸ばし、脱がせた。あまりの早業で驚く。戸惑うことなく、手こずることなく、私の両足の靴を脱がせ、彼は自分自身もスニーカーを脱ぎ、部屋へと上がった。


 彼の肩越しに、寝室の窓が開いているのが見えた。風にカーテンが大きく揺れている。その光景を見て思い出した。私は大学から帰って来て、すぐにベッドへ倒れ込み、眠ったのだ。すごく疲れていた。だが眠るとき、窓は閉め切ったはずだった。それがなぜ開いているのか。開いていることが、何を意味するのか。少し考えただけでもぞっとした。


 彼も何かを感じたのだろう。開け放たれた窓を見て、立ち尽くしていた。


 ごみ屋敷とまではいかないが、私の部屋は散らかっている。まさか人が来るとは思ってもいなかったし、初対面の人をその日のうちに家に上げるなんて、考えてもいなかった。彼を責めているわけではない。私を助けてくれたのだから、感謝しなくてはいけない。けれど、部屋には来てほしくなかった。この部屋には優しい思い出が溢れている。それらが汚されていく気がした。自分の安心できる場所を、自分の心の奥深くを侵食されていく気がした。どういう人間かも知らない男に入られてしまった今、優しい思い出が徐々に薄れ、他人と自分の境界線が分からなくなる。


 ベッドの上に下ろされ、私は彼に軽く頭を下げた。自分の布団に包まり、横になる。戻って来れてよかったと、私は静かに目を閉じる。


「薬はどこにあるんだ?」


 横になった私に、彼は尋ねた。



 この男は、なんて世話焼きなのだろう。こいつだけではない。若い男も年上の男も、優しすぎて気持ちが悪いほどだ。今の若者の、他人に不干渉な性質というものを持っていない。私なら、目の前で具合の悪い人がいても、見て見ぬふりをする。相手に近づいたことで周りの注目を誘い、恥ずかしい思いをさせてしまうくらいなら、そっとしておくのが一番だ。具合の悪い人にとっても、それが最善だと私は思っている。しかし彼らは介抱し、三人がかりで家にまで送ってきた。


 人間不信に陥っていた私にとって、彼らの優しさは異常なほど深く、大きすぎた。何か企んでいたのだろうか? もしそうだとしたら、吐きそうな私から逃げたのではないか?


「テーブルの上に……」


 眠る前、彼らと出会う前に飲んだ薬の半分が、テーブルの上に置いてあるはずだった。症状の重さから、本当は半錠ではなく、一錠飲んだ方がよかったのかもしれないが、そこまで彼に頼んではいられない。彼はベッドから離れ、テーブルへと近づき、薬を探しはじめた。ガサガサと音がする。見られてまずものは、テーブルの上にないはずだと、私は自分を落ち着かせようとした。

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