『元彼』(2007年01月07日)

矢口晃

第1話

 臨海公園には、春を告げる暴風が音を立てて吹き荒れていた。私は丈の長いスカート幾度となくめくりあげられそうになるのを手で押さえながら、昨日付き合いだしたばかりの彼の後ろをついて行った。

「ねえ、観覧車なんてつまんないよ」

 私が何度もそう言うのにも耳を貸さず、彼は黙って私の手をひっぱりながら、観覧車の方を目指して歩いていく。こんな風の強い日に観覧車に乗りたいなんてどうかしている。こんな日はとっとと建物の中に非難して、映画でも見ているほうがよほど無難だ。私は前をゆく彼のことを、後ろからきっと睨んだ。

 今の彼とは、私がアルバイトをしているコンビニエンスストアでレジに立っていた時に、向こうから声をかけてきてくれたことで知り合った。初めは警戒していたけれど、お互い歳も同じだったこともあってだんだん打ち解けて行った。彼は二年前専門学校を卒業した後、バンドに入ってギターを弾いているということだった。将来は歌手志望なのだそうだ。ちょうどつき合っていた前の彼氏が、真面目すぎて退屈を感じ始めていたところだったので、私は自分の夢を熱く語る今の彼がすごく魅力的に見えてしまって、知り合ってから一か月後に二人はつき合うことになった。

 でもつき合ってみると、彼はすごく自分勝手な人なのだとわかった。何をするにも自分の意見が通らないと気に食わないらしかった。ぐいぐいリードしてくれる頼もしさはあるけれども、自分の声が相手に届かない苛立たしさもあった。男を乗り換えたことに、正直少し後悔している。

 そして今日もよそうと言うのに、竜巻のような中を歩かされてしまった。お蔭でパーマを当てたばかりの髪も、お気に入りのブラウスもすっかり台無しだ。

「やってないじゃん」

 観覧車のゲートまで来てみると、そこには私たち以外他のお客さんは誰もいなかった。それもそのはずで、観覧車の切符売り場には、「強風のため運転中止」という札がかけられていたのである。

「なんだ。せっかく来たのにな」

 彼は上空にそびえる巨大な遊具を見上げながら、まだ残念そうにそんなことを言っていた。私はあきれてものも言えなかった。観覧車のゴンドラは、時計の振り子のようにぐらんぐらん前後に揺れている。こんな日に、命がけで観覧車にのろうなんて頭の悪い人なんているわけがない。考えればわかりそうなことなのに、彼にはそれが不満ならしい。

 するとその時、また吹き荒れた強風に煽られて、私のコンタクトレンズが落ちそうになってしまった。私はそれを慌てて指で押さえながら、

「ねえちょっと、目薬貸してくれない?」

「目薬?」

 彼のきょとんとした目が私を見た。

「そうよ。コンタクト用の目薬」

「持ってないよ、そんなの」

――「持ってないよ、そんなの」だと? 

自分の彼女が困っているというのに、まるで他人事のような素振りを見せる彼のことが頭に来た私は、

「ならいい」

 と冷たく突き放して、乾いて着きづらいコンタクトレンズを無理矢理瞳に戻した。

――前の彼氏だったらこんなことなかったのになあ。

思わず溜息が漏れる。前の彼氏は、今の人とは違ってしっかりものを絵に描いたような人だった。デートに行く前には目的地の情報とルートを詳しく調べて一日のスケジュールをちゃんとセッティングしてくれたし、私が何か困った時には必ず横から手を貸してくれた。だから強風で観覧車が動かなかったなんてこともなかったし、コンタクトレンズが落ちそうな時に目薬を貸してくれないこともなかった。私のわがままを聞いてくれる包容力もあり、私は彼に全部を安心して任せていられたのだ。

 ただしっかりものが行き過ぎて、彼は少し臆病なところがあり、冒険をする勇気に乏しかった。何か新しい遊びに挑戦するとか、知らない分野に飛び込んでみるというスリルがなかったから、私は彼とのデートに次第にマンネリを覚えるようになってしまった。

 自分から振っておいてなんだが、前の彼の方が、今の彼よりずっと私を楽しませようと努力してくれていたように思う。

 ――前の彼の方がよかったなあ。

 私は早くも、そんなことを考え始めていた。

 

 ホテルに行きたがる彼を

「今日はそういう気分じゃないの」

 と強引に振り切って、私は家に帰ってきた。二階にある自分の部屋に駆け込むと、携帯電話を開いて前の彼氏に電話をした。二、三度着信音が響いた後で、彼が受話器に出た。

「もしもし」

「もしもし、私。わかる?」

「うん。わかるよ」

 彼は別に驚きもしないで私との会話に淡々と受け答えた。

「久しぶりだね」

「うん。どうしたの、急に電話なんて」

「ううん、別に。どうしてるかなって、ちょっと気になっただけ」

 さすがに「よりを戻して欲しい」なんていきなり切り出すわけにも行かず、私はとりとめもないやりとりをしながら、必死で話の糸口を見つけ出そうとしていた。

 するとそんな気持ち知ってか知らずか、彼の方から絶妙の助け舟を出してくれた。

「どうなの? 新しい彼とは、うまくやってる?」

「それがね……」

 チャンス到来。今だと思って私が核心に入ろうとすると、彼はそれを遮るように、

「そうそう、そんなことより」

と言った。私は出鼻を挫かれて、話し出すきっかけをうしなってしまった。

「何? そんなことよりって」

「君に貸していた一万六千五百九十五円、早く返してくれよな」

「え? 何のこと」

 そんな大金を彼から借りていた覚えなどなかった私は、とっさに聴き返した。すると彼はやや大仰に、

「ええ? 忘れたの」

 と頓狂な声を上げると、よく状況が飲み込めていない私に説得するように続けて言った。

「今まで俺が払ってきた、お前の飲食代の分だよ。しめて一万六千五百九十五円。もう恋人でもなんでもないんだから、自分で食った分くらい、ちゃんと返してくれよな」

「……今まで、ずっと計算してたの?」

「当たり前だろ?」

 彼は鼻で笑いながらそう言った。

「俺がレシートすてたところ、お前見たことあるか?」

「……すごい」

 ひとりでに呟きが口から出た。

「すごい、じゃないだろ。いつ返すんだよ?」

「じゃ、じゃあ、明日……」

「明日だな? 必ず返せよ」

 そういい残すと、彼はすぐに電話を切ってしまった。

 電話が切れた後も、私は放心したまましばらくベッドの上に座り込んでいた。

「さすがに、しっかりしているなあ」

私は思わず、一人で感心してしまった。

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『元彼』(2007年01月07日) 矢口晃 @yaguti

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