第19話 信也と 詩織の ラブ・ストーリー

物語は、遡(さかのぼ)って、

7月6日、土曜日の午後5時。

1日中、曇り空で、

気温も 25度くらいであった。


小田急線の代々木上原駅南口から、

歩いて、5分ほどにある、

大沢工務店の駐車場で、

大沢詩織は、

川口信也のクルマを待っている。


詩織は、大学の学生会館で、グレースガールズのメンバーと、

バンド練習をしてきたばかりだった。


短時間に、自分の部屋で、

2013年の流行色といわれる、エメラルド・グリーンの、

アイシャドウをして、細めの、

アイライン、マスカラで、引き締めた。

下まぶたの涙袋も、

淡いグリーンを乗せた。

グリーン×グリーンの完成である。


真珠や 虹のような、

色を発する、

ラメの、キラキラ度が、絶妙な感じに、仕上がると、

「知的よね!」と 鏡の中の自分に、

満足な、詩織である。


詩織は、光沢のある、オトナっぽい、

モスグリーン(深緑色)のワンピースに着替えた。


7月6日、土曜日といえば、

大沢詩織の、

19歳の誕生祝を、

川口信也と、

岡昇の、ふたりにしてもらった、

6月8日の土曜日から、ひと月が 過ぎている。


こんなに、詩織と信也が、

親密になるのには、

早瀬田大学、1年の、

ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員のなかでも、

異色、貴重なキャラ(性格)の

岡昇の存在が、必要だったようである。


「いつも、一緒に いたいな!詩織ちゃんとは」


「え!?岡くん、それって、告白じゃないよね?!」


「うううっん。これって、告白っていうのかな・・・?

詩織ちゃんのこと、おれ、好きなんですよ!すごっく!」


「えええぇっ!?・・・あ、どうもありがとう。つーかさぁ。

でも、岡くん、わたし、好きな人がいるのよ。残念だけどぉ。

岡くん、ごめんなさい!」


詩織は、そんな会話のあとで、岡に、

川口信也が、好きなことを、うちあけた。


「わたしを、本当に好きなら、川口信也さんを、

わたしに紹介して!」

と、岡に 頼んだのだった。


そんな、意外な話の展開に、頭をかいたり、

意味不明に、泣きそうになったり、

その反対に、男らしく、笑って見せる、岡だった。


しかし、10分とはたたないうちに、

岡は、詩織のことはあきらめて、

詩織と信也を結びつける、

愛のキューピットの役、

パイプの役になることを、

引き受けたのだった。


複雑な心境というのが、

一般的にも、岡の立場のはずだったが、

生まれつき、単純なタイプの 岡には、

その複雑な心境とか、疲れる葛藤とかが、

大の苦手なようであった。


5時5分。


大沢工務店の駐車場に、

川口信也のクルマ、軽のスズキ・ワゴンRが止まる。

走行距離も 5万キロを超えていて、

乗り換えを考えることもある、大学1年のとき、

バイトをして買った、

いまも 愛着のある中古のクルマだ。


大沢詩織の父親は、家や店舗の、

設計、施工、リフォームや販売などの、

工務店を経営している。


「しんちゃん、元気!?」


「元気だよ、詩織ちゃんも、バンドは、うまくいってるの」


「うん、だいじょうぶよ。みんな、気の合う、

いい人たちばかりなの!」


詩織は、隣のシートにすわると、信也に、

軽く、キスして、ハグをした。


「グレイス・ガールズって、名前がいいよな!

グレイス(GRACE)って、

美しいとか、上品とか、優雅とか、

意味するんだから、女の子たちのバンド名としたら、

これ以上ないんじゃないの!?」


「そうよね、優美な少女たち、

神の恵みの、少女たちという意味ですものね。

すてきな名前で、わたしも大好きなの」


クルマは、国道413号線の、井の頭通りを、

西へ 2分ほど走ると、信号を左折して、

上原中学校の グランドの横を通って、下北沢へ向かう。


「このへんの地形って、坂が多くって、緑も多いから、

なんとなく、山梨県を思い出すんだ」


「そうなの、山梨県に、似ているのね。

でも、しんちゃん、それって、ホームシック(homesick)

かもしれないわ」


「はっははは。おれ、そんなことないって!

東京は、楽しいよ、やっぱり。

詩織ちゃんとも、出会えたし!」


「わたしも、しんちゃんと出会えたから、しあわせよ!」


「さあ、今夜は、どこで食事をしましょうか?詩織さま・・・」


「どこでもいいわよ。しんちゃんと、いっしょなら、

どこでもいいわ・・・」


「おれだよ。詩織ちゃんと、いっしょにいられるだけで、

しあわせ、感じるよ。

実は、おれ、今夜は、下北の

お好み焼き屋さんに、

予約を入れておいたんだ。

前に行ったとき、

予約なしで、来た人たちは、結構、

断られていたんだ。

そんなわけで、

あの店、おいしくて、人気あるから、

行っても、入れないときあるからさ。

予約じゃ、キャンセルも、できるしね!

店長は、バンドマンだった人で、

バンド活動は、引退しちゃったっていうけど、

やっぱり、音楽的なセンスは、

料理にも活きるってことだろね!」


「うん、そんなものよね。

音楽も料理も、

感性が大切だからじゃないかしら。

そのお店行ってみたいわ!

そこの、お好み焼きって、

私も食べてみたい!」


詩織の、ほっそりとしたラインの腕が、

信也にのびて、そっと、信也の手を 握る。


夜の6時ころ。

ふたりは、クルマをマンションにおいて、北沢2丁目にある

下北沢なんばん亭で、

生ビールを飲みながら、お好み焼、鉄板焼で

楽しいひとときを過ごした。


夜の8時30分ころ。

ふたりは、下北沢なんばん亭を出ると、

信也のマンションに帰った。


ふたりとも、ビールに酔って、上機嫌である。


大沢詩織は、シャワーを浴びている。


川口信也は、ケータイを、

スマートフォンに、替えたばかりで、

その画面を、指でタッチして、

タップを試している。


「しんちゃんも、スマホにしたら?」


先日、詩織がそういった。


信也は、ガラケイとかいわれるケータイで、

間にあっていたのだけど、

詩織が、そういうものだから、

きょう、スマホに替えた。


「しんちゃんって、すごい、素直!」


そういって、そのとき、詩織はほほえんだ。


「はははっ。詩織ちゃんに対しては、

素直になっちゃうのかな?おれって!」


信也は、照れて、わらった。


詩織が、1994年6月3日生まれ、19歳、

信也が、1990年2月23日生まれで、23歳。


詩織は、3年と、4か月ほどの、年下なのだけど、

おしゃべりが大好きで、明るいから、友だちも多い、

詩織は、信也の心を、落ちつかせる。


詩織は、おしゃべりが好きだけど、

グレイス・ガールズのリーダーの、

清原美樹についての話は、

あえて探るような、

嫌みになるような、

信也に、不快な思いを与えるようなことは、

まったく、話題にしない。


詩織は、おれの心の傷に、触れないように、

してくれているんだな・・・。

そんな詩織の優しさに、また、

愛おしさを感じる、信也だった。


シャワーを浴びて、バスタオル1枚だけの、

まだ、しっとりと、濡れて、

ピチピチと、弾むような、

詩織のからだを、

信也は、そっと、抱きしめる。


しっとりと、まだ濡れている、

つややかな髪や肌からは、

レモンの、心地よい、香りがした。


「しんちゃん、シャワーは?」


「じゃあ、おれもシャワーしてくる。そのあいだに、

詩織ちゃん、帰っちゃったりして」


「そんな話、どこかで、聞いたことある!」


あっはっはと、声をたてて、ふたりはわらった。


詩織は、その夜、はじめて、信也に抱かれた。


詩織にとっては、信也が、初めての相手であった。


信也は、酔っているのに、ベッドの上では、

終始、気をくばって、

詩織には、ていねいで、やさしい。


信也には、詩織にとっては、

これが、初めの経験とわかっているらしい。


照明を暗くした部屋には、

詩織が見つけた、マライヤ・キャリーのCDの、

マイ・オール(My All)のリピートが、

小さな音量で、流がれ、つづける。


今宵は、あなたの愛と引き換えに、

すべてを捨てる


あなたの愛と引き換えに

すべてを捨てるわ


そんな歌詞のバラードの名曲であった。


≪つづく≫ 

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