第10話 信也の新(あら)たな恋人

下北沢駅南口から、歩いて、3分ほどの、

森川ビル内の本社から、仕事を終えた、

ロックバンド・クラッシュ・ビートのメンバーの4人、

川口信也、森川純、岡村明、高田翔太が、出てきた。

みんな、グレーのパンツとかで、白シャツで、

ノー・ネクタイで、課長職も、よく似合う感じであった。


川口信也が、みんなを、今夜も、

馴染みの、バー(BAR)にでも寄っていこうと、

誘っていた。


「しんちゃん、おれたち、みんな、

しんちゃんが誘うから、

ついつい、つきあっちゃってるけど、

5月25日のライブから、飲みつづけてるよなあ。

おれ、体重が気になってきたよ」


そういって、4人の中で、どちらかといえば、

ふとめの体型の高田翔太は、わらった。

ほかの3人は、どちらかといえば、細身だった。


「翔ちゃんの、胃袋は、底なしだもの」

と森川純がいって、わらった。みんなもわらった。


川口信也のケータイが鳴った。


<もしもし、おれだけど>


<川口さん、岡昇です。いま、お話しできますか?>


<だいじょうぶだよ。どうした、岡>


<ちょっと、いいお話があるんですよ>


<ハッハッハ。いい話か。最近、いい話ないからな、

聞かせてくれよ>


<おれと同じ、1年の、大沢詩織(しおり)なんですけど、

川口さんと、交際したいって、いっているんですよ!>


<大沢詩織・・・。ライブで一緒だった、女の子だよね。

へえー、おれと、つきあいたいってか!>


<ええ、それで、今度の土曜日の8日に、

その子とあってくれないっすかね。

大沢は、6月3日が誕生日だったんですよ。

どこかで、おれもで、3人で、誕生祝なんかしたら、

最高なんですけど・・・>


<いいけど。あの子、かわいかったし。でも土曜日は、

AKB48の、総選挙があるんだよなあ>


<AKBは、あとで、みればいいじゃないっすか!>


<そりゃあ、そうだ、アッハッハ。じゃあ、待ち合わせ場所は、

下北沢の南口の改札口でいいかな。日時は、8日の土曜日、6時ってことで。>


<わかりました。彼女、連れて、6時に、下北の南口に

ゆきます>


<じゃあ、そういうことで、岡、よろしく。岡、いい話をありがとう>


岡昇(のぼる)と、大沢詩織は、

早瀬田(わせだ)大学の1年生だった。

ふたりは、大学公認のバンド・サークルのミュージック・ファン・クラブ

(通称 MFC)の部員だった。川口や森川たちは、大学卒業後も、

そんな部員たちと、交流を続けていて、信頼でむすばれていた。

この前のクラッシュ・ビートと松下陽斗(はると)の、

ライブのチケットも、MFCの全員に、無料で配布していた。


「やっほー」と川口が、ケータイを持ったまま、両手を上げて叫んだ。


「後輩の岡のやつ、おれに彼女を紹介してくれるんだってよ!」


「あの1年の岡かあ」と、岡村明がいった。


「うん、うん、岡と、同じ1年の大沢詩織が、おれのこと好きなんだってさ」


「しんちゃん、モテまくりじゃん」と森川純。


「なんか、嘘みたいな話だけど、今度こそは、

ふられたり、三角関係になったりしないことを願うよ」と川口。


「あの1年の大沢詩織かあ、ライブにも、岡と一緒に来ていたから、

おれはてっきり、岡の彼女かと、思っていたし・・・」と高田翔太。


「しかし、よくもまあ、しんちゃんは、美人に、好かれるよね」

と岡村明。


「美人とか、かわいい子とかって、心変わりも早いから、大変だよ。

また、ふられたら、おれの寿命は、きっと、20年は、縮むから・・・」

と川口信也。


「ひとりに、ふられて、10年かあ、そんなもんかもな、恋も真剣だと・・・」


森川純が、真面目な顔で、そういうと、

バー(BAR)へ向かって歩きながら、

みんなで、おおわらいとなった。



6月8日の土曜日。午後の2時40分ころ。

下北沢駅南口は、人で賑わっていた。


川口信也は、南口商店街の入り口の、

左角にある、マクドナルドに入った。


プレミアムローストコーヒーと、ホットアップルパイを、

3つ、注文する。ホットアップルパイは、これから店に来る、

大沢詩織と、岡昇のぶんもだ。


いまから、川口は、母校の早瀬田大学の、

1年生の大沢詩織と、同じ大学の1年の、岡昇との、3人で、

大沢詩織の19歳の誕生祝いをする。


何度もメールで、岡昇と、きょうの予定を打ち合わせた。


待ち合わせ場所を、マクドナルドに、

時間も、3時にした。


最初に、フレンチ・カフェ・レストランで、誕生パーティをして、

そのあと、ライブ・レストラン・ビートで、

ひとときを楽しむという予定にした。

どちらの店も、川口の勤める、モリカワの、下北沢店だった。


ライブ・レストラン・ビートの、今夜の公演は、

女性・ポップス・シンガーの、白石愛美(まなみ)と、

ピアニストの松下陽斗との、

コラボ(共演)だった。ドラムと女性コーラスも、入る。


白石愛美も、松下陽斗も、現在、20歳で、

モリカワの事業部のひとつ、

モリカワ・ミュージックに所属していた。


モリカワ・ミュージックでは、全国に展開中のライブハウスや、

一般からのデモテープなどから、新人の発掘や育成をしている。

新たなアーチストを、ミュージック・シーンに、

輩出していく、ビジネスを展開中だった。


そういえば・・・、去年の10月は、おれのマンションに、

美樹ちゃんと、真央ちゃんが来て、

3人で、二十歳の誕生会をしようって、

街にくり出したっけ。

あのときも、いまみたいな、ワクワクした感じで、

すべてが、うまくいきそうな気分だった。

楽しかったよなあ・・・。


川口は、好きな、ホットアップルパイを、ほおばった。


今回も、やっぱり、3人なんて。19歳の誕生会だし、

あのときと、同じとはいえないけど、似ているし。


なんか、一抹の不安かな。

心のどこかに、トラウマ(心理的な後遺症)が

あったりして。


川口は、そんなことを思いながら、にがわらいした。


たとえば、岡が、詩織ちゃんと、ほんとは、

つきあいたかったりして・・・。

そしたら、またしても、三角関係じゃん。


しかし、それだったら、岡が、最初から、

おれと詩織ちゃんの仲がうまくいくように、

世話をすることもないわけだよな。

このさい、岡には、岡の本心を、はっきり、聞いておくか。


岡は、信頼できる、いいやつだから、

岡には、大学内で、詩織ちゃんに、

悪い虫がつかないように、監視してもらえそうだし。

ハハハ。考え出したらきりがない、やめた!


そのとき、「川口さん、おひさしぶりです」と、

岡昇と、大沢詩織が、あらわれた。

ちょうど、3時をまわった時刻だ。


170センチくらいの岡のとなりにいる、

その10センチくらいは低そうな、大沢詩織が、

「川口さん、こんにちは」といって、

微笑んだ。


肩レースの、白いTシャツと、デニムの、

ハイウェスト・ショートパンツで、詩織はかわいい。



詩織ちゃん、色っぽいな、長い髪がよく似あう、

と、詩織の、オーラの出ているような雰囲気に、

信也は思った。

岡は、赤系のチェックのシャツに、ジーンズで、

小中学生のころからの、男の定番って感じ。

同じ、19歳なのに、岡が、幼く見える。

岡の、どこか、とぼけた、人のよさそうな、わらい顔。

詩織の、男心をそそる、微笑み。


そんな、ふたりの姿に、

川口信也は、不思議なくらい、

何かが吹っ切れたように、元気がわいてきた。


「はい、ホットアップルパイ」と川口がいう。

「あ、どうも」とか「ありがとう」と、岡と詩織はいう。

それから、すぐに、川口たちは、マックを出る。


フレンチ・カフェ・レストランに向かった。


梅雨入りしたばかりで、くもり空だったが、

午後は、上空が晴れわたった。


「川口さんって、どうして、あんなに、歌が、

お上手なんですか?」


川口信也と寄り添って歩く、詩織が、

もうすでに、恋人のように話しかける。


「おれなんか、まだまだ、うまくないけど。

ありがとう、詩織ちゃん」


「わたし、こないだのクラッシュ・ビートの

ライブを聴いていて、特に、川口さんの

ヴォーカルに感動しちゃったんです。

気持ちよさそうに、高い音域まで、

歌いこなしちゃっていましたよね、すごいです」


「子供のころから・・・、小学3年のころかな、

歌が好きで、よく歌をうたっていたんですよ。

子どもなりにも、真剣に」


そういって、わらって、川口は、詩織をみた。


「親に、ギターを買ってもらってからは、

歌よりも、ギターに熱中してたかな。ハハハ」


「そうそう、川口さんは、ギターも、ヴォーカルも、

超ウマ!先輩として、尊敬しちゃいますよ」


信也と詩織のうしろを歩く、岡が、そういった。


「岡ちゃん、きょうは、おれたち、3人の、誕生と、

これから先の人生の、お祝いをしよう。

それと、おれたちの、この、運命的な出会いを、

お祝いしようよ。

きょうは、おれに、まかせなさいって!ははは」


そういって、信也がわらうと、詩織も岡も、明るくわらった。


3人は、モリカワのフレンチ・カフェ・レストラン・下北沢店に入った。


南フランスを思わせる、あわいベージュ色の外観の、

青空によく映える、オレンジの瓦の一軒家だった。


店内は、あたたかみのある木材が使われて、

フランスのカフェにいるのような感じがする。


「えーと、大沢詩織さん、お誕生日おめでとうございます。

詩織さんの、19歳のお誕生日を、お祝いして、

ささやかではありますが、乾杯をいたしたいと思います。

かんぱーい!」


3人は、赤いクッションの椅子にすわったまま乾杯をした。


「このように、すばらしいパーティーを開いていただき、

ありがとうございます」


大沢詩織が、瞳を潤ませて、ちょこっと、頭を下げた。


「詩織ちゃんのお祝いをするなんて、男として、光栄ですよ」




川口は、「ほんとうは生ビールがいいんだけど」といいながら、

グラスのアサヒスーパードライを、うまそうに飲んだ。


まだ未成年の、詩織と岡は、ふたりとも、ノンアルコールの

ジンジャーエールを飲んでいる。


ランチ・コースは、3人、それぞれに違ったコースだったが、

テーブルには、華やかなバリエーションの料理がならんだ。


オーブンで、蒸し焼きにしてある、白身魚・ホタテ貝

・車エビのポワレ。

生クリームで仕上げた、パンプキン(かぼちゃ)のポタージュ。

玉ねぎの甘味がおいしい、オニオン・グラタン・スープ。

牛フィレ肉のステーキやイベリコ豚ロースのロースト。

リンゴとブドウの、フルーツのコンポート。

スタードプディングと似たデザートのクレーム・ブリュレ。


そして、≪Happy 15th Birthday Shiori!≫

(詩織、19歳の誕生日おめでとう!)

とチョコレートで書かれた、ショートケーキを、

「詩織さん、お誕生日、おめでとうございます」といって、

ウェイトレスが、笑顔で運んできた。


「わたしね、なんで、川口さんのことを、こんなに

好きになっちゃったのか、自分でもよくわからないの」


長い髪をかき分けると、詩織が、ささやくような小さな声で、

ビールに酔って、上機嫌の川口に、そういった。


「恋っていうか、恋愛感情って、突然のように芽生えるからね」


そういうと、詩織と岡に、わらって、「ああ、おれ、酔ってるな」

といって、わらって、天井から下がる、

アンティーク(古美術工芸品)のような照明を、川口は見つめた。


「おれって、不器用な男なんですよ。詩織ちゃん。

女の子にも、ふられっぱなしの人生で・・・」


「そんなことないはずです。川口さんって、すてきだと思います」と詩織。


「川口さんは、もてますよ。性格はさっぱりと男らしいし」と岡がいう。


「けど、岡ちゃん、おれの恋愛って、長続きしたことないんだ。

その点、岡ちゃんと、なんか似てるよな。おれも、岡ちゃんも、

不器用なタイプってことで、きっと、似てるんだ。だから気もあう」


そういって、川口が、腹から声を出してわらった。


「そうなんだあ。わかった、きっと、わたし、そんな川口さんの

不器用なところが、大好きなのかも。

だって、わたしも、どちらかといえば、かなりな不器用なんですもん。

男女も、似ているところに惹かれ合うらしいです。

わたしって、器用に、世の中を渡る人よりか、不器用な人のほうが、

絶対に、いいと思います」


「ありがとう、詩織ちゃん、詩織ちゃんって、やさしくって、

とてもいい子だね。おれも、今度こそは、詩織ちゃんと、

うまくやっていけそうな気がしてくるよ。

詩織ちゃんがいうように、不器用な人ほど、真面目に

努力もするしね。だから、不器用って、欠点ではなくて、

長所だと、考えたほうがいいのかもしれないよね。

不器用なおかげで、わりと、ひとつのことに、粘り強いし、

執着するし、失敗や努力型は成功のもとってね。

ね、岡ちゃん」


「そうですよ、川口さん。ロッカーの斉藤和義が、

やっぱり、野球が好きでも、あまりうまくならないから、

ミュージシャンになれたとか、テレビで語ってましたよ。

ミュージシャンって、スポーツ音痴

が多いんじゃないかって、いってました、たしか・・・。

いまも、仕事の合間に、好きな野球はやっているらしいっすけど。

そんなところ、あの人も、不器用なのかもしれないし、

川口さんと、おれとに、似てるかもしれませんよね。」


「おれたちも、斉藤和義みたいに成功する夢を

あきらめちゃいけないよな。

そうかあ、おれも、岡ちゃんも、高校のとき、

バスケットが、大好きで、夢中だったけど、

へたっぴだったって、ところ、斉藤和義さんにも、

どこか似ているのかもなあ。スポーツ音痴かあ、

痛いところ、つかれるって感じだよな、岡ちゃん」


「はい」


川口と岡がわらった。


「川口さんと岡くん、バスケットに熱中してたんですか!

それも、すてきです」


そういうと、詩織は、川口に惚れなおしたようであった。


フレンチ・カフェ・レストランでの、誕生パーティのあと、

3人は、歩いて5分くらいの、ライブ・レストラン・ビートへ向かった。


今夜の公演の、女性・ポップス・シンガーの、

白石愛美と、

ピアニストの松下陽斗との、

コラボ(共演)は、チケット(入場券)も、

ソールドアウト(完売)という感じであった。


6時半の開演前、すでに、1階フロア、2階フロア、

あわせて、280席は、ほぼ満席、人だらけであった。


川口たち3人は、ステージ近くの席を予約できた。

クラッシュ・ビートの仲間の3人、

森川純、高田翔太、

岡林明、も会場に来ていた。

川口に、うまくやれよ!とでもいった、エールを送る。



司会は、店長の、佐野幸夫だった。軽快で、

おもしろい、MC(進行)も評判だった。


「今夜は、ライブ・レストラン・ビートへ、お越しいただいて、

ありがとうございます。いやーあ、今夜も、超満席になりました。

ほんとうに、ありがとうございます」と、店長の佐野。


「白石愛美さんは、わたしも、びっくり、

あの、華麗な歌姫、マライア・キャリーさんが、

大好きで、尊敬していて、歌の師匠であったんですよね。


それで、うちの、モリカワのレストランで、ウェイトレスをして、

チャンスを、虎視眈々(こしたんたん)と、

伺っていたというわけなんですよね。


そしたら、どうでしょう、このように、いまでは、

みなさまに、愛される、ポップス・シンガーとして、

ライブ会場を、満席にしてしまっています。


これは、まるで、現代のシンデレラ姫の物語、

そのものですよね。

わたしなんか、このサクセスストーリーだけで、

感動してしまいます!

虎視眈々のトラのように強靭な目的意識をもった

若干20歳女の子が、

シンデレラ姫となって、羽ばたいていくんです。

みなさま、絶大なる声援を、これからもお願いします!」


会場からは、割れんばかりの拍手と声援がわきおこる。


「あ、みなさま、シンデレラ姫といったら、王子さまが、

必要ですよね。わたしがその、王子さまになれたら、

いまにでも、死んでも、悔いはないのですが、

運命のいたずらというか、現実はいつも、きびしいものです」


といって、佐野が、おいおい、泣くマネをすると、会場からは、

わらいがもれた。


「さて、今夜は、白石愛美にふさわしい、

すてきな王子さまも、来ております。

白石愛美も天才級の歌声ならば、

この人も、天才級のピアニストです。

ピアニスト・松下陽斗です!」


ここで、ステージには、松下陽斗と、白石愛美が現れた。


会場に、絶大な拍手と歓声がわきおこった。

その会場の熱気は、このふたりの人気度をあらわすようであった。


ポップス・シンガーの白石愛美と、ピアニスト・松下陽斗は、

モリカワの全店と、モリカワ・ミュージックが、全面的支援していた。


そして、すでに、そのふたりの才能は、雑誌やテレビのマスコミも、

注目していて、その知名度も、急上昇中であった。


去年まで、白石愛美は、モリカワのレストランで、

ウェイトレスをしながら、地道に歌のレッスンをしていた。


去年(2012年)の初秋、モリカワ・ミュージックが、

デモテープや、ライブハウスなどから、新人を発掘し始めたので、

白石愛美は、大好きで、社会活動や、

チャリティー活動をしている誠実さでも、尊敬する、

マライア・キャリーの、My Allを歌った、

デモテープを、モリカワ・ミュージックへ送ったのであった。


そのデモテープが、モリカワの社長の長男の、

モリカワ・ミュージック・課長の森川良に、

感動とともに、絶賛されて、認められたのだった。

森川良は、課長の森川純の兄である。


「それでは、みなさま、お待たせしました。

ごゆっくりと、お楽しみください。

日本に現れた、若干20歳の、

天才的、アーチスト、白石愛美と

松下陽斗との、ライブです。

歌う曲目は、マライア・キャリーの名曲の数々です!


ドラムは、ベテランの綱樹正人

女性コーラスは、青木エリカ、本間ともみ、相沢理沙のみなさんです!」


1階と2階のフロア、会場全体から、ゆったりとした気分で、

飲食を楽しんでいる観客たちの、歓声と拍手がわきおこった。


「わたし、いくら、がんばっても、マライア・キャリーのような、

歌唱力では、歌えないだろうけど、

わたしも、カーリー・レイ・ジェプセンや、

テイラー・スウィフトのような、シンガーソングライターにはなりたいの」


そう、大沢詩織が、川口信也の耳もとにささやいた。


「詩織ちゃんなら、だいじょうぶだと思うよ。

おれも、がんばるから、おたがいに夢を追っていこうぜ」


「うん・・・」 詩織の瞳が、少女のように、輝いた。


「川口さん、詩織ちゃん、おれも、がんばるから」と、岡もほほえんだ。


静まりかえった会場の、ステージから、松下陽斗の

ピアノだけが鳴りひびいた。


1曲目の、『 Without You 』のイントロであった。『 Without You 』は、

1994年、 全米3位を記録した。

『生きてゆけそうもない、あなたのいない人生なんて。

何もする気もおきない・・・』と、失恋の、失意の歌で、

人生のどん底に落ちている、その心情を、詩情豊かに、歌いあげた

名曲だった。


2曲は、『My All 』だった。『My All 』は、1998年、全米3週連続1位

であった。『抱きしめてもらえるのなら、命をかけてもいい。思い出

だけでは生きてはいけないわ』という、女性のせつなる心情を、

高貴なまでに、神聖なまでに、歌い上げている。


15曲を歌いあげたあとの、アンコール曲は『Hero』であった。

『自分自身を見つめて、勇気をだして、そのとき、真実は

見えてくるものよ。ヒーローは、自分の中にいるのよ』と、

聴くものを、元気づけてくれる名曲であった。


マライヤ・キャリーを、ありありと、思い浮かばせるような、

ハープやフルートの、最高音にちかい、超高音域の、

ホイッスルボイスも、白石愛美は、思いのままに、熱唱できた。

そんな、ボリューム(量感)と、繊細さとをかねそなえた、

女性らしい、甘美な歌声に、会場は酔いしれた。


松下陽斗の、ピアノも、原曲に忠実な部分と、ジャズっぽく、

アレンジした部分が、絶妙で、聴衆を魅了した。


ベテランの綱樹正人の、ドラミングも、

青木エリカ、本間ともみ、相沢理沙たちの、女性コーラスも、

聴衆をじゅうぶんに堪能させて、見事だった。


≪つづく≫ 

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