俺は何もしない
「くっそ~、昨日は生徒指導が来るとはなぁ」
「噂によれば、誰かが俺らのことを告げ口したみたいですよ」
翌日、やっさん達は笑って登校してきた。そうだ。先生に怒られたからって、人間はすぐに更生するわけじゃない。
「おい」
そして驚くことか、やっさんが珍しく席に座る俺に声をかけてきた。
「お前さ~、通学路って商店街方面だったよなぁ?」
ああ、先生に連絡した犯人探しか…あの場には先輩と俺しかいなかったから、俺が黙っていれば先輩に危険はない。
「そうだが?…何かあったのか?」
俺は知らないフリをするのが得意らしい。いつも通りにちょっと控えめにやっさんを見上げる。少しだけ自分が弱者であることをアピールしておけば、強者たるやっさんが満足することなど…このクラスの人間なら知っている。彼が強者たる所以は俺らが少しだけ弱者になることにある。
根本的にいじめっ子の多くが自分を強者と思っているが、実のところはただのスタンドプレーに過ぎない。そりゃ、自分の土俵でなら、誰もが強者なのだ。
「俺らのことを告げ口した奴がいるみたいなんだ。見かけなかったか?」
やっさん達の土俵は「イケてる」「チャラい」「喧嘩っ早い」「やんちゃ」といったもので構成されている。しかしながら、俺らはそういった要素を持っているわけじゃない。だから、彼らの土俵で戦っても負けるのは必然なのだ。
ーーーだったら…戦わなければいい。
そこで俺らは彼らに勝利を譲る。いいや、土俵にすら立たないのだから勝負を辞退すると言った方がニュアンス的に近い。
「いいや?そもそも、うちの生徒なのかも怪しいんじゃないか?」
そう、つまりいじめられっ子とは…自己意思の有無を問わずして、彼らの土俵に立たされている人間のことを指しているのだ。
「…だな。あんがとさん」
やっさんは俺の頭を軽く叩いて去っていく。俺は笑顔を崩さず見送った。
『私、ああいうのは嫌いだな』
ちなみに虐めの対象になりやすいのは善人と中途半端な奴だ。
しかし善人は自らのしっかりとした正義感を持ち続けることができるため、彼らの土俵に立っても…負けることはない。彼らの歪んだ攻撃に揺らぐ程度の正義感ではないからだ。
問題は中途半端な奴にある。何を取っても中途半端で、曖昧で、俺らのように逃げるわけでもなく、善人のように立ち向かうわけでもない。ライオンが目の前にいるというのに、どうすることもなく、あたふたと、呆然と…立っているだけの彼らは、ただ食べられるのを待つだけだった。
「どういたしまして」
デブちんを幼い頃から知る俺に過ちがあるとすれば…それはきっと彼のことを善人だと信じたことにあるのだろう。実際の彼は中途半端な存在だったのだ。俺はどうやら…迫りくるライオンの前に立つ彼の手を引いて、一緒に逃げないといけなかったらしい。
「お~い、デブち~ん」
「緊急招集。デブちん君、早くブヒブヒ言いながら集合しなさい」
「10秒前~」
また1番前にいる丸い背中がのそりと動き出す。そしたら、また目が合う。
「「「9,8、7…」」」
俺は善人じゃない。だから彼らの土俵に立ち、彼を引きずり下ろすなんてことはできない。だから何もしないんだ。なのに…なぜ胸が締め付けられる。
「「「6、5,4…」」」
罪悪感、後悔…そんなものではないと思う。この妙な気持ちは彼に対して向けられているものではないのだ。だとするならば…この気持ちは、
「「「3、2、1…」」」
この気持ちは俺に向けられた自己嫌悪だ。
「はい、おそ~い」
デブちんが俺の横を通過する。またいつものように。
「ブタちんに改名するか?」
「そもそもブヒブヒ言ってねぇし」
「ほら、言ってみようぜ」
弱いくせに、善人じゃないくせに、心の中では彼を心配し、どこかで助けたいと思っている。思っているだけで何もできない…ヘタレ野郎な自分に対してイラついたのか。いいや、そうやって自分を卑下するくせに…それでもいいと受け入れている自分が嫌なのかもしれない。変わる気もないのに、変わりたいと願う自分が嫌いなんだ。俺は上っ面だけの張りぼてなんだ。
「言えよ。ブ~ブ~って」
あ~あ…クラスメイトは今の状況をどう思っているのだろうか?
善人になろうとしているのか?
俺みたく、張りぼてになっているのか?
今まで通り、黙認を継続するつもりなのか?
この状況に便乗して…虐めに参加するつもりなのか?
「ぶ…ぶ~…」
「聞こえな~い。教室中に響くように言ってもらわねぇと」
こういう時、最も重要なのは空気を読むことに相違ない。誰かが立ち上がり、誰かが支持するといった形が生まれない限り、きっと何も起きることはない。じゃあ俺も、みたいな便乗は誰にでもできるのだが…率先して立つ者はクラスにいない。なぜなら…
「ぶひ~!」
このクラスには善人がいないのだから。
腹を抱えて笑うやっさん達、教室は彼らの笑い声で包まれた。クラスメイト達の静けさには…さすがに笑ってしまいそうになった。
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