閑話 帝都防衛戦 1



 ゴルゴーク帝国

 大陸で最も広い版図を誇る強国であり、大陸に存在する人族の国家の盟主的存在である。

 その中心部たる帝都の西側には水量豊かなグラール大河が流れ、この大河は帝国の物流を支える動脈の一つであり、また、そこから得られる魚介類は帝都に暮らす人々の胃袋を支える重要な食糧庫でもある。

 北にはグラール大河が流れ出る広大なアルマナス湖。そのアルマナス湖の更に北側には峻険なるゴルゴム山脈が連なり、天然の要害として帝都を守っている。

 また、東と西に広がる肥沃な土地は一大耕作地として、帝国のみならず周囲の国々へと食料を輸出していた。

 そんな帝都──正式な名称はあるのだが、誰もが単に「帝都」と呼ぶ──は、人族の手が及ぶ影響圏の中心……いや、この大陸の中心と言っても過言ではないだろう。

 その大陸の心臓部とも呼ぶべきゴルゴーク帝国の帝都は今……戦場となっていた。




 渦巻くは激しい喧騒。

 兵士たちが、騎士たちが、そして傭兵や冒険者、中には志願した民兵たちが命をかけて戦う戦場。そこでは怒号と剣戟の音が飛び交い、肉を打ち、骨が砕ける音が響き渡る。

 ゴルゴーク帝国の帝都が、そんな凄惨な戦場と化したのは本日の夜明けすぐのことだった。

 その日の明け方近く、帝都を取り囲む堅牢な城壁の上で、一人の兵士が眠たげに欠伸を零していた。

 空が徐々に明るくなってきた。間もなく夜が明けるだろう。そうすれば、今日のお勤めは終了だ。

 交代の兵士と引き継ぎを行い、兵舎に戻って酒と飯を腹に入れた後、昼過ぎまでゆっくりと眠れる。

 早く交代の兵士が来ないものかと考えながらも、視線はしっかりと周囲へと向けられる。

 そして、いよいよその兵士が待ち望んだ交代の時間がやって来た。彼と入れ替わって歩哨に立つ同僚に、夜の間特に何もなかったことを告げて引き継ぎを済ませると、彼は兵舎に戻るべく足を踏み出した。

 その時だ。

 彼と交代して歩哨に立った同僚が、不意に変な声を上げたのは。

「おい…………ありゃ、何だ?」

 同僚は目の上に手で庇を作りながら、とある方角の空を見ている。

 それに釣られて彼もそちらに目を向ければ、白み始めた空の一部が黒く染まっていた。

「んー……単なる雨雲じゃないか?」

「雨雲……? あそこだけ雨雲が広がっているってか?」

 長年城壁で歩哨を務めれば、風向きや空気の湿り具体などからある程度天気が変容する前兆は分かるものだ。

 その経験に照らし合わせてみれば、雨雲が近づく予兆はなかったように思われる。だが、経験則による天気予報は、必ずしも正しいとは限らない。突発的な天候の変化など、いくらでも起こり得るのだから。

 どちらにしろ、天候の変化は歩哨にとって重要な要素だ。雨が降れば視界が悪くなり、歩哨という任務に影響が出るし、当然ながら雨具の準備も必要になってくる。

「とりあえず、兵舎に帰る前に兵長に雨雲が近づいていることを伝えてくれや」

「おう、承知した……って、あれ?」

 一晩歩哨に立っていた兵士は、おかしなことに気づいた。空の一部を黒く染める雨雲が、どんどんと帝都の方に近づいてくるのだ。

「あの雨雲……風向きとは逆に動いていないか?」

 帝都へと近づく雨雲は、風向きに逆らうようにして帝都に近づいてくる。雨雲が風に逆らうなど、普通ならあり得ない。

「ま、まさか……」

 兵士は近くの城壁にぶら下がっている紐を力一杯引っ張った。その途端、城壁の上に重々しい鐘の音が響き渡る。

 彼が引いた紐は、緊急を告げる鐘を鳴らすためのものだったのだ。

「敵襲ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」

 帝都に近づく雨雲の正体。

 それは空を黒に染めんばかりの、ものすごい数の「黒い怪物」たちだった。




 「黒い怪物」の大群が、帝都に押し寄せて来たという情報は、瞬く間に帝都中に広まった。そして、当然ながらそれは、この帝都を支配する皇帝アルデバルトスとその側近たちにも伝わる。

 ここ最近、「黒い怪物」たちは帝国各地で暴れている。この帝都にも散発的ながら数回ほど「黒い怪物」たちは襲ってきていた。

 これまで襲ってきた「黒い怪物」は、一度に20体ほどだった。そのため、軽微な被害で撃退することができた。

 損害は軽微とはいえ、それは帝国軍全体から見ればの話である。死傷者の中には、腕の立つ騎士や冒険者も含まれることから、「黒い怪物」は決して侮れない敵であると考えられ、それに備えていた。

 だが、その「黒い怪物」が空を覆うほどの数が飛来するとは考えられていなかった。

 アルデバルトス皇帝は、直ちに帝国軍に出撃を命じる。臨戦態勢を整えていた帝国軍は、すぐさま組織だった行動で城壁の上とその外側と内側に布陣した。

 相手は空を飛ぶ怪物だ。城壁は役に立たない。そのことを、帝国軍は過去の襲撃から学んでいる。

 城壁の上では、弓兵や魔術兵、そして大型弩を運用するための兵士たちが、「黒い怪物」を撃ち落とそうと準備を整えた。

 彼らは「黒い怪物」を仕留めることは考えていない。その翼を傷つけ、地面に落とすことを第一としている。地上に落としさえすれば、止めは地上の兵士たちに任せればいいのだから。

 「黒い怪物」が弓と魔法の射程内に到達した時、攻撃の指揮を執る指揮官が攻撃を命じた。

 城壁の上から、無数の弓矢と魔法、そして大型弩の矢が放たれる。

 放たれた矢や魔法が、迫る「黒い怪物」を傷つけて空から引き剥がし、中には致命傷を与えるものもあった。

 だが、迫る「黒い怪物」の数は多い。そのほとんどが、城壁に布陣する兵士たちの頭上を飛び越え、帝都への侵入を果たしてしまった。




 帝都を取り囲む城壁の内外に布陣した帝国軍。その比率は、内側の方が圧倒的に多かった。

 敵である「黒い怪物」が空を飛び、城壁が役に立たないことをこれまでの襲撃から学んでいたからだ。

 敵が城壁を越える前に撃ち落とせれば、その時は城壁の外に陣取った帝国軍が墜ちた「黒い怪物」に止めを刺す。

 以前の襲撃は、それで敵を撃退することができた。だが、今回の襲撃は敵の数が多い。多すぎると言ってもいい。

 そのため、帝国の首脳部は城壁の手前で「黒い怪物」の全てを迎撃することはできないと判断、帝国軍の多くを城壁の内側に布陣させたのである。

 そして、その判断は正しかった。

 城壁からの攻撃で数を減らしたとはいえ、それでもまだ無数と言ってもいいほどの「黒い怪物」が帝都上空へと侵入した。

 地上に展開した帝国軍は、空の敵に向けて果敢に矢や魔法を放つ。更には城壁の上からの射撃も加わり、「黒い怪物」どもは次々に撃ち落とされていく。

 だが、空を染める「黒い怪物」はやはり多すぎた。

 放たれる矢や魔法をものともせず、上空から急降下する「黒い怪物」は、地上の兵士へと襲い掛かるとその猛禽の嘴で兵士の頭を兜ごと割り、背中から生えた人間に酷似した上半身が振るう槍が、別の騎士の心臓を貫く。

 中には怪物によって上空へと連れ去られ、そこから落とされる兵士もいる。

 更に、「黒い怪物」は帝都に暮らす人々へも襲い掛かった。

 建物の屋根や壁を打ち壊し、その中に隠れていた人々を、一切の慈悲なく惨殺していく。

 兵士や騎士が纏う金属製の鎧や兜さえ、怪物たちには大した障害にはならない。そんな怪物相手に、一般の市民が抗えるわけがなかった。

 帝国軍によって「黒い怪物」は徐々にではあるが、数を減らしている。だが、怪物の数が減る以上に、帝国軍の騎士兵士はその命を戦場で散らしていた。

「こ、このままでは…………」

 今もまた、隣で戦っていた戦友が「黒い怪物」の鋭い鈎爪で引き裂かれたのを目の当たりにした兵士が、恐怖をありありと浮かべた顔で周囲を見回した。

 彼の周囲にいたはずの同僚たちは、もう数人しか残っていない。彼が戦っていたのは城壁間近の地域だったが、周囲はすでに黒に染め上げられている。

「こ、こんな怪物相手に勝てるわけがねぇ……」

 戦意を完全に砕かれたその兵士は、手にしていた槍を捨てて逃げ出そうとした。

 だが結論を言えば、彼がこの場から逃げ出すことはなかった。いや、逃げ出す機会を失ったと言った方が正確だろう。

 なぜなら、敵にほぼ占領されたこの場所に、あまりにも場違いなモノが現れたからだ。

「あ、あれは近衛騎士か……?」

 そう。

 この場に現れたのは、数騎の騎士たち。だが、彼らが纏う一際煌びやかな鎧は、間違いなく近衛騎士だけが用いることができるものだった。

「ど、どうしてこんな戦場に、皇族を護るべき近衛たちが……? し、しかもあれは……、いや、あのお方は……」

「近衛騎士の中心におられるあの方は……」

 数騎の近衛騎士に取り囲まれ、馬上で戦場をまさに睥睨するのは、一人の皇族。

「だ、第二皇子殿下……ど、どうして第二皇子殿下が戦場に……?」

 近衛に護られながらも戦場に姿を見せたのは、間違いなくゴルゴーク帝国第二皇子であるガルバルディ・ゾラン・ゴルゴークその人だった。




 戦場で生き残っていた騎士兵士たちは、突然現れた第二皇子の姿を見て困惑の表情を浮かべていた。

 もしもこの場に現れたのが、武闘派として知られる第一皇子であったならば、また、槍の名手として知られ、今代の《勇者》でもある第三皇子であったならば、兵士たちもそれほど困惑したりはしなかっただろう。

 だが、この場に現れたのは第二皇子であった。

 第二皇子であるガルバルディ皇子は、彼の兄や弟とは違い武よりも政に長けた人物だと評判であった。その第二皇子が、近衛に護られているとはいえどうして戦場に現れたのか。

 ガルバルディ皇子は確かに武官よりは文官として長けた人物である。本人もまた、自分が兄や弟よりも武という面では著しく劣っていることを自覚している。

 実際の彼は帝国の影とも言うべき密偵の統領であるが、その事実を知る者は多くはない。

 そして、彼の周囲を固めているのもまた、本物の近衛騎士ではなく、彼の直属の部下たる密偵たちが変装している。

「ここが敵の一番多いと言われている地域か?」

「御意にございます、殿下」

 馬上から周囲を見回したガルバルディが静かに問えば、傍に控えていた近衛騎士の鎧を纏った密偵が頷いた。

「やれやれ。本来ならこういうことはバレン兄上が喜んでやりそうなことなのだが、その兄上がに掛かり切りになっている以上、私がやるしかあるまいな」

 何やら呟きながら、馬上の皇子は手にしていた一本の杖を高々と掲げた。

「さて……先日兄上が帝城に連れて来た賢者ジョーカー師より借り受けたこの杖の力……試してみるとしようか」

 ガルバルディが掲げた杖が、ぶん、と僅かに震えた。

 近くで「黒い怪物」と戦っていた騎士や兵士は、その僅かな振動には気づかない。

 だが、次に起きた現象に、兵士たちは戦闘中でありながらも思わず動きを止めてしまった。

 なぜなら。

 周囲に存在する建物の陰から、無数の白くて大きな蜘蛛たちが、のそりと這い出してきたのだから。


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