閑話 リュクドの森侵攻Ⅰ
「…………なあ、騎士様よ? このまま進んでいいのかい?」
先頭を行く斥候役の冒険者の問いかけに、最後尾にいるカーバン伯爵配下の騎士は、「ちょっと待て」と手を上げて指示を出し、懐から何かを取り出した。
「……はい、……はい、……はい、了解致しました」
それは、今回のリュクドの森侵攻作戦に際して、カーバン伯爵より──正確にはヒルパス男爵より──貸与された魔封具であった。
遠く離れた所にいるカーバン伯爵と、直接言葉を交わせる非常に優れた魔封具である。
その魔封具を用いて、騎士は主人たるカーバン伯爵から指示を仰いだのだ。
いや、実際に指示を出しているのはカーバン伯爵本人ではなく、その配下で軍の指揮に優れた上位の騎士なのだが。
「我らはこのまま前進だ。別の方角から、他の仲間たちも進んでいるそうだからな」
「うっす、了解ですぜ、騎士様」
騎士の言葉にひとつ頷き、冒険者たちがリュクドの森の奥を目指して歩き出す。
五人の冒険者パーティに、カーバン伯爵配下の騎士を加えた六人で、彼らはリュクドの森を進んでいるのである。
「今のところ順調だな。魔獣の一体も出てきやしねぇ」
冒険者パーティの中の一人、リーダー格の重戦士が周囲の木々を見回しながら呟いた。
もちろん、そこに油断も慢心もない。今も周囲を警戒しつつ、ただ事実を口にしただけだ。
実際、彼らがリュクドの森の中に足を踏み入れてから随分と時間が経過したが、いまだに魔獣どころか普通の野生動物とも遭遇していなかった。
「俺たちは今まで、これぐらいの深さの場所までなら、何度もこの森に入ったことがあるが……普通ならそろそろ何らかの敵と遭遇してもよさそうなものだよな?」
「ああ。だが、今日は全く何とも遭遇しないな……」
冒険者パーティの魔術師と弓使いが、重戦士と同じように周囲を見回しながら呟いた。
「逆に……これは何かあると考えるべきですね」
一行の中央を歩いていた治癒術師が周囲を見回した時、突然それは現れた。
どすん、と重々しい音と共に冒険者たちの前に現れたのは、巨大なトロルだった。
岩のようなごつごつとした灰色の皮膚に、9フィート(約2.7メートル)近い巨体。
そんな怪物が、突然目の前に現れたのだ。冒険者たちが思わず硬直してしまうのも無理はないだろう。
「な……こ、このトロル、どこから……っ!?」
「ちっ、木の上に潜んでいやがったのかっ!?」
「だ、だが、トロルにそんな知恵が回るか……っ?」
「んなこたぁどうでもいい! 今はこのトロルを倒すことを考えろ!」
さすがは場慣れした冒険者たちらしく、一瞬動揺したもののすぐに臨戦態勢を整える。
ただ一人、このような状況に慣れていないカーバン伯爵配下の騎士以外は。
いまだに状況が飲み込めず、おろおろとしている騎士を見て、冒険者のリーダー格である重戦士は忌々しそうに舌打ちをひとつ。
だが、すぐに気持ちを切り替えると、目の前のトロルへと意識を集中させた。
「おまえらはここまでだ。これ以上、先へは行かせられねぇぜ?」
巨大なトロルが、手にしたこれまた大きな両手剣を弄びながら、冒険者たちに告げた。
「と、トロルがゴルゴーク公用語を使うだと……?」
「もしかしてこいつ……トロルの上位種かっ!?」
「気持ちを引き締めろ! 一体だけとはいえ、トロルの上位種となれば強敵だ。絶対に侮るな!」
それぞれの得物を構え、冒険者たちが素早く展開して陣形を整える。
その様子を、トロルはおもしろそうに眺めているだけだった。
「そろそろ準備はいいか? んじゃま、始めようぜ」
両手剣を肩に担いでいたトロルの姿が消えた。いや、冒険者たちには消えたように見えた。
そして彼らが再びトロルの姿を認識した時、彼我の距離はほとんどない状態。つまり、もう目の前にいたのだ。
「うお……っ!! こ、こいつ、速いぞ!」
振り下ろされるトロルの両手剣。それを手にした方形盾で、重戦士は何とか受け止めた。だが、トロルの膂力にぎりぎりと押し込まれていくのを、重戦士は歯を食いしばって必死に耐える。
「く……っ!! も、もう保たねぇ……っ!!」
力自慢の重戦士だが、それでも人間はトロルという種族に力ではどうしたって及ばない。
だが、彼にあるのは「筋力」だけではない。彼には仲間という別の力がある。
重戦士の声に応え、彼の仲間たちが的確に動く。
トロルの側面に回り込んだ弓使いが、矢筒から数本の矢を素早く引き抜き、瞬く間に数射する。
同時に、弓使いとは反対側に回り込んだ魔術師が、紡ぎあげた魔法をトロルに放つ。もちろん、放つはトロルの弱点である炎術だ。
だが、トロルは全く動じない。左右から迫る矢と魔術など眼中にないとばかりに、目の前の重戦士を押し潰さんとするばかり。
トロルの身体に矢と炎術が突き刺さった。だが、矢はその頑強な皮膚で弾かれ、炎術は体表で弾けただけ。
その結果に、思わず目を剥く弓使いと魔術師。
「悪いな。ここに来る前に、ちょいと防御の魔法をかけてもらっているからよ? この程度の矢や炎は効かないってもんだ」
にぃ、とトロルが牙を剥き出しにして笑う。
そしてそれが、重戦士が見た最後の光景となるのだった。
トロルという名の暴力の前に、重戦士が大地に沈む。
パーティの盾役の重戦士の欠落は、そのまま全体の崩壊へと繋がりかねない。
最も防御力の高い重戦士が落ちたのだ。残るは軽装の斥候や弓使い。そして、魔術師や治癒術師といった、やはり防御力が高くない魔法使いたち。
彼らはリーダー格の重戦士がやられた瞬間、その場から一斉に逃げ出した。
その判断は間違いではない。自分たちが敵わないと判断すれば即退散する。それが冒険者の流儀なのだから。
盾役を欠いた状態で、あの化け物に敵うはずがない。そう判断した冒険者は、迷うことなく逃走を選択したのだ。
だが、この場には冒険者ではない者がいた。カーバン伯爵配下の騎士は、いまだに状況が理解できす、ただ、見上げるような巨体のトロルを呆然と見つめるのみ。
「何だ? おまえは逃げないのか?」
重戦士の血と肉片がこびりついた両手剣をぶらさげて、トロルが騎士へと迫る。
「まあ、あいつらもこの場は逃げることはできても、生きて森からは出られないだろうがな」
トロルは騎士から目を離し、冒険者たちが逃げ去った方へと視線を向けた。
それを、騎士は好機と捉えた。
敵はすぐ目の前。しかも、自分から注意を逸らしている。これが好機でなく何だと言うのか。
もしも彼が冒険者であったなら、これを逃亡の好機と捉えただろう。だが、彼は冒険者ではなかった。
腰から剣を引き抜き、目の前のトロルに向かって力一杯突き出す。
鋭い剣の切っ先が、トロルの皮膚と筋肉を突き破り、鋼の刃がトロルの身体に深々と突き刺さる──はずだった。
「………………え?」
だが、騎士の手に伝わったのは、皮膚と筋肉を貫く感触ではなく、まるで岩を剣で叩いたかのような硬質な感触。
その結果、騎士の手は痺れ、剣をその場に取り落としてしまう。
「おお、いいねぇ、いいねぇ。やる気のある奴は大好きだぜ!」
騎士の渾身の一撃などなかったかのように、トロルがにぃと再び笑った。
「おまえを倒して、大将から褒美にクースの芋料理をもらうとするか」
トロルの剣が高々と振り上げられる。
それを、騎士はただ、呆然と見ていることしかできなかった。
その剣が、彼の頭上に振り下ろされるまで。
「……こ、ここまで来ればもう大丈夫……だよな?」
ようやく足を止めた斥候が、背後を振り返りながら呟いた。
どうやら、先程出会ったトロルは追いかけて来ないようだ。
リーダー格の重戦士には悪いが、あの場は逃げるのが最善だったのは間違いない。
仮に重戦士が生き残っていたとしても、同じ判断を下したはずだから。
斥候は腰にぶら下げていた水袋を外し、その中身を喉へと流し込む。
ぬるい水は決して美味くはないが、それでも水を飲んだことで幾分か気分も落ち着いてきた。
あんな化け物がいる以上、もうこの森にはいたくはない。仲間たちと相談して、さっさと森から抜け出そう。
そう思った斥候が、仲間たちへと目を向ける。
そこには、地面に座り込んで荒い息を吐き出す仲間たちの姿があった。
逃走していたのはそれほど長くはない。だが、仲間たちは皆、疲労困憊といった様子である。
そして、それは斥候も同じだ。
死地から何とか抜け出したのだ。死の恐怖から逃れることができた今だけは、気が抜けても仕方がないというものだろう。
だから、気づくのが遅れた。
先程とは違う死の影が、彼らに迫っていることに。
ずん、と重々しい音が響いた。
反射的に顔を上げた冒険者たちは、そこに見た。見て、しまった。
彼らに迫る死の影を。
「あ、あ……ああ……」
「お、オーガー……? 魔獣に乗ったオーガー……だと?」
冒険者たちの顔色が、青を通り越して白くなる。
足場の悪い森の中、どれだけ必死に走ろうが魔獣より速く走れるわけがない。
そのことに気づいてしまったのだから。
魔獣──烈風コオロギに跨った一際巨大なオーガーが、手にした
途端、そのオーガーの背後から、いくつもの同じような影が森の中から現れる。
現れたのは、先のオーガーと同じように魔獣に跨ったオーガーたち。
その姿を見た時、冒険者たちは悟った。
自分たちは先程の重戦士のように、ここで終わるのだと。
そして、その予想は遠からず的中することになるのだった。
これと同じような戦いが、リュクドの森の各地で繰り広げられた。
森の中に侵攻した冒険者たちは、オーガーやトロル、ダークエルフといった妖魔たちの襲撃を受け、次々にその命を散らしていった。
カーバン伯爵主導のもとで行われた、リュクドの森侵攻作戦に参加した冒険者や傭兵たちは、伯爵配下の騎士や兵士共々、そのほとんどが二度と森から帰還することはなかった。
森から帰らなかった者たちは、おそらく妖魔や魔獣の腹に収まったのだろう、と後日にレダーンの町の住民の間で噂されることになる。
こうして、カーバン伯爵が企てたリュクドの森への侵攻は、作戦が開始されてからそれほど時間が経つこともなく、早々に頓挫したのであった。
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