閑話 帝都にて
繁栄を極めしゴルゴーク帝国。
その中心である帝都の名はオルンラフ。八万以上にも及ぶ人口を擁する、名実共に大陸最大の都市である。
だが、巨大であると同時に、その足元に広がる影もまた広い。
その影に潜むのは、社会から弾き出された者たち。スリ、盗っ人、物乞い、身寄りのない子供たちなどなど。数多くの者たちが、影の中で蠢いていた。
そんな帝都の影の一部に、一人の男が現れた。
三十代の前半から中ほどぐらいの年齢の男であり、その身を魔獣の革と思しき素材の防具で包んでいた。
腰にぶらさげる剣は業物ではあるがありふれた鋼製のもの。だが、鎧の方は見る者が見れば、その魔獣の素材が極めて稀少なものであることが分かるに違いない。
魔境と名高いリュクドの森。その奥地にだけ棲息するという、珍しい魔獣の素材ばかりを使っているのだ。
男の体運びにも隙はない。それだけを見ても、この男が相当腕の立つ冒険者であることが知れるだろう。
今、その男がいるのは帝都の目抜き通りから数本ほど入り込んだ路地の一つだった。
路地とはいえ、そこは目抜き通りに劣らぬほどの活気がある。
この路地界隈に暮らすのは、帝都の中でも貧困層に属する者たちである。だが、貧困層には貧困層の暮らしがある。
この路地に立ち並ぶ薄汚い店々は、全て貧困層相手の商売であった。
クズ野菜と少量の肉──何の肉かも分からないもの──を煮込んだスープや、どこから盗んできたのかも不明な古着。錆び付いた武器にぼろぼろの防具、一夜の春を売る場末の娼婦など、陽のあたる表通りでは絶対に見かけられないような商品が並び、商人は胡乱な目で通行人を見つめる。
表通りのような陽気な呼び込みの声はない。だが、通行人の数は決して少なくはなく、僅かな金銭と引き換えに、時には物々交換さえも行われて、商品はそれなりに売れていく。
そんな静かな活気を見せる路地を、男はゆっくりと歩いていた。
やがて、男は一軒の酒場に足を踏み入れる。最初からここが目的地だったのであろう、全く迷いを見せない足運びだった。
薄汚れた店内は、それほど広くはない。客は十人も入れないだろう。
そんな店内に、まだ昼間ということもあってか客の姿はない。
ただ、カウンターの奥で店主と思しき中年の禿頭で大柄の男が、暇そうに煙草を吹かしていた。
店主らしき中年男は、店に入ってきた男をちらりと一瞥すると、つまらなさそうに呟いた。
「まだ、店は開いていないぜ。暗くなったらまた来てくれや」
「そう言うなよ。この店のワインが美味いって聞いて、はるばるレダーンから来たんだぜ?」
男の言葉に、禿頭の男はぴくりと眉を震わせた。
「こんな場所にある酒場に、美味いワインなんてあるわけねぇだろ? 店を間違えていないか?」
「いや、ここに間違いないはずだ。あるんだろ? 『炎のように真っ赤』な極上ワインがよ」
再び、禿頭の男の眉が揺れた。男は咥えていた煙草を床に放り捨て、踏みにじるようにして火を消すと、何も言わずに店の奥へと姿を消す。
一人残された男は、興味深そうに店の中を見回した後、勝手に椅子の一つに腰を下ろした。
そして、そのまま待つことしばらく。
不意に、男は椅子から勢いよく立ち上がると、腰に佩いた剣の柄に手をかけながら数歩後ずさった。
「あら、いい反応ね? さすがは《辺境の勇者》と呼ばれるだけはあるじゃない」
見れば、それまで男が座っていた椅子の横に一人の女がいた。
年齢は二十代の半ばから後半ぐらいか。女性にしては結構長身で、グラマラスな身体の線を惜しげもなく見せつけるような、体形にぴったりとした衣服を身に着けていた。
その女は長く緩やかに波打つ明るい栗色の髪を、意味ありげにかき上げながら微笑んでいる。
「……いつの間に……?」
「ふふふ、この私に後ろを取らせなかっただけ大したものよ?」
妖艶に微笑み、女は男を見つめる。
男性であれば思わず劣情を覚えるような色っぽい仕草だが、男は戦慄しか感じなかった。
「あんたは……?」
「私? 私はあなたがお探しのものの関係者……ってところかしら?」
「ほう? ってことは、あんたが『
男の言葉に応えることもなく、女はただ微笑んで男を見つめていた。
「火鼠」。
それは帝都オルンラフの地下に広く根を張る、盗賊や暗殺者たちを取り纏める組織である。
その影響力は帝都だけに留まらず、帝国全土にまで及ぶと言われている。事実、「火鼠」の支部や下部組織が、帝国中の都市や町に人知れず存在している。
「それで? 《辺境の勇者》さんは、どこであの符丁を知ったのかしら?」
誰もいない場末の酒場の中で。
《辺境の勇者》と呼ばれる男と、「火鼠」の関係者──おそらくは「火鼠」の幹部だろう──らしき女は、薄汚れたテーブルを挟んで腰を下ろしていた。
「ああ、あの『炎のように真っ赤』な、って奴かい? それなら骸骨の……ジョーカーの旦那に聞いたのさ。この酒場でそう言えば、『火鼠』の関係者と連絡が取れるからってよ」
酒場に置いてある酒を勝手に持ち出し、女は二つのグラスにその酒を注ぐ。
「が……骸骨……? じょ、ジョーカー……? ま、まさかそ、それって……」
それまであくまでも優雅で妖艶だった女の仕草が、「ジョーカー」という言葉を聞いた途端に乱れ始めた。
酒を注ぐ手ががたがたと震え、酒瓶の中身をグラスの中ではなくテーブルにぶちまける。
「お、おい、どうしたんだよ、突然?」
「あ、あなた……あいつの……い、いえ、あの方の知り合いな……の……?」
怖れを多分に含んだ目で、女は男──《辺境の勇者》と呼ばれている者を見つめる。
「ま、まあ、知り合いっつうか、俺は骸骨の旦那の部下みたいなもんさ。今回、その骸骨の旦那……の、友達のとある人物の命令で、この帝都に来たんだ」
「あ、あの方の部下……?」
がたりと音を立てて立ち上がった女が、恐怖を顔に貼り付かせてその場に跪く。更には、その妖艶な色気を醸し出す豊かな肉体は、細かな震えが止まることはない。
「……あの方の関係者とは知らず、とんだご無礼を致しました。な、何卒、この失態は寛大なお心でお見逃しくださいますよう……」
跪き、深々と頭を下げる女。女のその態度に、《辺境の勇者》と呼ばれる男はぽかんとするばかり。
「お、おい……い、一体どうしちまったってんだ?」
「あ、あの方の怒りを買えば、どのような目にあうか……い、嫌よっ!! ただ死ぬのならともかく、死んだ後も身体を弄られてよく分からない魔術の材料に使われるのは……っ!!」
決しって顔を上げることなく、女は震えたまま言葉を続けた。そして、女の顔の下に、ぽたぽたと何かの雫がいくつも滴り落ちていることに、《辺境の勇者》は気づいていた。
「が、骸骨の旦那……あの人、一体この帝都で何をやらかしたんだ……? ま、まあ、
いまだに震え続ける女を見下ろしながら、《辺境の勇者》は呆れたような、それでいてとても疲れたような表情を浮かべた。
ようやく恐怖が薄らいだ女に案内され、《辺境の勇者》は「火鼠」の本拠地へと足を踏み入れた。
どう見ても暴力に親しみ過ぎている男たちに睨まれつつ、彼は女に先導されて本拠地の最奥にある部屋へと通される。
そこには、「火鼠」の首領らしき、中年の男がいた。右目の下に傷跡を持つ、何とも威厳と迫力のある顔つきの男だ。もしも幼い子供がこの男の顔を見れば、間違いなく泣き出すだろう。
だが、その威厳と迫力を誇る男の顔が、「ジョーカー」という名前を聞いた途端に青くなった。
先程の女と同様にがたがたと震え出し、恐怖に目を見開いて《辺境の勇者》を見つめる。
「わ、分かった……っ!! お、おまえの言うことには無条件で協力するっ!! だ、だから、あのお方にはよろしく言っておいてくれよ? な? な? た、頼むぜ……こ、この通りだっ!!」
「火鼠」……帝国中の裏社会に強い影響力を持つ組織の首領は、高価そうな机に額を擦り付けるように頭を下げた。それこそ、恥も外聞もないほどに。
「あ、あの旦那、本当に帝都で何やったんだよ? 巨大な
一体、あの人物……じゃなかった、あの骸骨は何をしでかしたのか。聞いてみたいけど、聞くのが恐い《辺境の勇者》。
ともかく、何やらすっきりしないものを感じつつも、《辺境の勇者》は「火鼠」の協力を取り付けることに成功したのだった。
その後、「火鼠」を通じて帝国中の様々な情報が集められ、それらの情報を《辺境の勇者》は与えられている使い魔を通してジョーカーに報告していく。
彼に情報の優劣を判断することはできないし、する必要もない。ただ、「火鼠」が集めてくる情報を、そのまま使い魔の向こうにいるジョーカーに伝えるだけだ。
そして集められた情報の中に、とある貴族たちが反乱を企てているというものが紛れ込むのは、彼が帝都に居着いてしばらくしてからのことであった。
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