神託
「殿下。たった今、《蜘蛛》が戻りましてございます」
執務室に入ってきた側近のその言葉に、仕事中だった僕は書類に走らせていたペンを止めた。
「もう戻ったのですか? 僕の予測では、彼が戻るのはもう少し先だとばかり思っていたのですが……」
もしかして、《蜘蛛》は任務に失敗したのでしょうか。彼がどれだけ優れた密偵とはいえ、相手が彼の技量を上回っていれば失敗することは十分考えられます。
あの人物……《辺境の勇者》と呼ばれているあの男は、僕が見たところ《蜘蛛》を出し抜けるほどの技量はなさそうでしたが……もしかすると、僕の見込みが甘かったのかもしれません。
ともあれ、今は余計なことを考えるよりも、本人から直接話を聞いてみましょうか。
「分かりました。《蜘蛛》をここに」
「御意」
一礼を残して立ち去る側近。彼はすぐに一人の男を連れて執務室へと戻って来た。
ひょろりと背が高く、妙に手足の長いその男。彼は密偵を取り纏めるガルディ兄上の部下の中でも、特に優れた者の一人で《蜘蛛》という異名を持つ男である。
「ただいま戻りました、ミルモランス殿下」
僕の前で跪き、深々と頭を垂れる《蜘蛛》。
「ご苦労でした。早速、報告を聞かせてもらいましょうか」
「は、私は殿下の命令通り、あの《辺境の勇者》と呼ばれる男の後を追いました……」
滞りを見せることなく、《蜘蛛》は自分が見たことを報告する。
それによると、レダーンの町を出た《辺境の勇者》とその連れの少女は、真っ直ぐにリュクドの森を目指したという。
より正確には、《辺境の勇者》はレダーンを出る前に一人の商人と何やら商談を行ったようだが、その商人は《辺境の勇者》とは馴染みの深い人物だそうで、レダーンでは二人が親密に取引をしていることは有名らしい。
その行商人と別れた《辺境の勇者》と連れの少女は、そのままリュクドの森に足を踏み入れる。特に周囲を警戒する様子を見せることもなく、迷いのない足取りで森の中を歩いていったそうです。
《辺境の勇者》は、リュクドの森を主な狩場として活躍する冒険者です。彼にとってリュクドの森は、自分の庭のようなものでしょう。
とはいえ、その「庭」は森全体からすればごく一部。いくら《辺境の勇者》といえども、リュクドの森全体を把握しているとは思えません。
「そして、森へと入った《辺境の勇者》は、しばらく森の奥へと進み……そこで妖魔たちを呼び寄せたのです」
「なんですってっ!?」
僕は思わず声を上げる。人間にとって、妖魔はいわば天敵。その天敵を自ら呼び寄せるとは、自殺行為にも等しい。
そうやって驚く僕を前に、《蜘蛛》は冷静なまま報告を続ける。
「呼び寄せたというより……これは私の私見でしかありませんが、妖魔の方から《辺境の勇者》へと近づいてきたように見受けられました」
「妖魔の方から……ですか?」
妖魔にとって人間は食料であり、時には玩具でもある。特に人間の若い女性は、妖魔にしてみれば食欲と性欲を同時に満たす存在です。少女を連れた《辺境の勇者》を、その妖魔たちは手頃な獲物だと思ったのでしょうか。
「それで、《辺境の勇者》はどうしたのです? 仮にも二つ名を持つ冒険者、妖魔などに後れを取ることはないでしょう?」
集まった妖魔がどのような種族かは知りませんが、森の外縁部で出没する妖魔といえば、最弱層に分類されるゴブリンやコボルトといったところでしょう。それであれば、あの《辺境の勇者》ならば数体に囲まれても突破することができるはず。少なくとも、彼がその程度の実力を持っていることは間違いありません。
しかし、そんな僕の憶測を、《蜘蛛》の言葉は裏切りました。
「い、いえ、それが……現れた妖魔たちと《辺境の勇者》は、まるで顔馴染みのような態度で言葉を交わすと、そのまま妖魔たちが使役する魔獣に乗って森の奥へと姿を消したのです」
「……」
《辺境の勇者》が……いえ、人間が妖魔と親し気に? そんなことはありえません。前世で妖魔だったこともあるこの僕には、それがよく理解できます。
「どうして、あなたは《辺境の勇者》と妖魔たちが親し気であると判断したのですか?」
「妖魔たちに気取られないよう、《辺境の勇者》たちとは距離を取って様子を窺っていたのですが……現れた妖魔の中にいた白いゴブリンらしき魔物と、《辺境の勇者》が実に親しそうに振る舞っておりました。そして、《辺境の勇者》の連れの少女までもが、姿を見せた妖魔たちをまるで恐れておりませんでした」
《蜘蛛》の判断は間違っていません。妖魔は人間よりも鋭い感覚を有しています。魔獣を使役していたり、白い肌をしたゴブリンがいたりしたことから、その妖魔たちには上位種が含まれていたことが考えられます。
そんな妖魔の集団に近づけば、どれだけ優れた密偵といえども発見される可能性は少なくはありません。
《蜘蛛》の使命は情報を持ち帰ること。それを考えれば、安全圏に留まったのは正しい判断と言えるでしょう。
「距離をおいたため、彼らの会話の内容までは聞き取れませんでしたが……所々漏れ聞こえて来た《辺境の勇者》と白いゴブリンの会話は、間違いなくゴルゴーグ公用語でした」
「……ゴルゴーグ公用語?」
ゴブリンがゴルゴーグ公用語を使っていたという点が、僕には少々引っかかりました。
《蜘蛛》の報告を聞いた時、僕は《辺境の勇者》が何らかの方法で妖魔たちを使役しているのかと思いました。
魔術などを用いれば、人間が妖魔を従えることは不可能ではありません。ですがその場合、使役者が妖魔語を用いて指示を与えるのが普通なのです。
ゴブリンやコボルトのような下位の妖魔に、公用語を教えるのは極めて難しい。彼らの言葉である妖魔語でさえ、満足に操れるかどうか怪しいぐらいなのですから。
ですが、《蜘蛛》が見た妖魔たちはゴルゴーグ公用語を用いていた。それはつまり、《辺境の勇者》がその妖魔たちを使役している可能性が低いということ。
では、妖魔たちと《辺境の勇者》の関係は? 僕には彼らの関係がいまひとつ理解できません。
「その後、少し話し込んだ妖魔たちは、魔獣に乗って森の奥へと姿を消しました。私も魔獣の足についていくことはできませんし、妖魔の一体……上位種らしきオーガーに危うく存在を気づかれかけたこともあり、その時点で追跡を諦めてこうして報告に戻った次第です」
なるほど。僕の予想よりかなり早く《蜘蛛》が戻ったのは、そのような理由があったからですか。
《蜘蛛》からの報告を全て聞き、彼の働きを労いゆっくりと休むように言い渡した後、僕は改めて《蜘蛛》の報告を思い返します。
《辺境の勇者》と妖魔たち。普通に考えれば、相容れない者同士。その両者がどのような理由で親しくしていたのか。
《辺境の勇者》が何らかの方法で妖魔を従え、森の上位魔獣を狩っていた。そう考えればそれほど不思議ではありません。ですが、《蜘蛛》の報告を聞いた限りでは、《辺境の勇者》が妖魔を従えていたとは思えない。
かといって、妖魔が《辺境の勇者》を利用して何かを企んでいる、というのも納得しかねます。
報告によれば、《辺境の勇者》と接触したのは、謎の白いゴブリンとホブゴブリン、そして魔獣を使役する上位種らしきオーガー。
普通に考えれば、その妖魔の一団を率いていたのはオーガーの上位種でしょう。ですが、オーガーはそれほど知能の高い魔物ではありません。人間を利用して何かを企むより、その場で食べるなり繁殖に用いるなりすると考えるのが妥当です。
では、オーガーが頭目ではないとすれば、一体何者がその魔物を率いていたのでしょうか。
この時、なぜか僕は一体の魔物のことがきになりました。
妖魔の一団にいたという、謎の白いゴブリン。おそらくは何らかの上位種、それも亜種か貴種といったところでしょうが、なぜかその白いゴブリンのことが妙に気になります。
「白いゴブリン……もしや、それが妖魔を率い、更には《辺境の勇者》までをも利用している……?」
普通に考えれば、あまりにも突拍子もなく、同時にあり得ないこと。たとえ上位種であり貴種か亜種であるとはいえ、ゴブリンがオーガーを支配下におくなど、あり得ない。ですが、僕にはそう考えるのが最も納得できるのです。
上位種とはいえたかが一体のゴブリンを、どうしてそこまで気にかけるのか。そう問われれば、僕自身も返答に窮するでしょう。
ですが、なぜか気になるのです。その白いゴブリンのことが。
「……一体、何者なのでしょう……」
とりあえず、その白いゴブリンについて情報を集めてみましょうか。
リュクドの森の近くに存在する互助会の各支部に、白いゴブリンについての情報に懸賞金をかければ、それ相応の情報は集まるでしょう。
もっとも、中にはまったくの出鱈目な情報も交えるでしょうが、そこはこちらで判断すればいいだけです。
早速その旨を記した指示書を作成しようとしたところ、執務室の扉が派手に叩かれました。
「……どうやら、本日は予定外の来客が多い日のようですね」
僕は一度だけ大きく息を吐き出すと、扉の外にいる者に部屋の中に入るように告げました。
「で、殿下! ミーモス殿下! た、大変ですぞ!」
血相を変えて執務室に飛び込んで来たのは、僕の教師役であり、またキーリ教団の重鎮でもあるギーリム大司教でした。
「どうしたのですか、ギーリム師?」
滅多なことでは動じないギーリム大司教が、ここまで露骨に狼狽している姿を僕は初めて目にしました。
「し、神託が……私の元に神の声が……神託がもたらされたのですっ!!」
僕の予想をはるかに上回るできごとに、思わず目を大きく見開く。
過去、キーリ教の神は教団に属する上位の聖職者、もしくは敬虔な信徒に直接その声を届けたことがあると聞いています。
そして、その神託は極めて重要なものばかりで、時には世界の命運に関わるようなものもあったとか。
実際、数代前の僕と「彼」の戦いを、神託で告げられたこともあったそうです。
もちろん、いつでも神託が下されるわけではありません。
神託を下される神の御心は、人間には到底理解できないものである。そうそう我々の都合のいいようにはいかない。神託なく苦難を迎えるのもまた、神が我々に下された試練である、というのがキーリ教団の聖職者の言い分です。
それが事実かどうかはともかく、神託が下されたのは間違いないようです。
これは後で分かったことなのですが、ギーリム大司教以外にも同じ内容の神託を受けた聖職者が数人いたらしいことから、今度の神託はかなり大事であろうとキーリ教団の上層部は大混乱に陥っているらしいとか。
「それで、ギーリム師。師が受けた神託とは、どのようなものですか?」
僕の質問に、ギーリム大司教はどこかうっとりとした表情で神託の内容を告げました。
神託の内容がどうあれ、聖職者にとって神から直接声を聞かされるのは、名誉であり嬉しいことなのでしょう。
そして、聖職者たちが受けた神託とは、次のようなものでした。
「白き厄災の鬼神、黒き世界へと誘う」
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