閑話 行商人



 彼は、しがない行商人である。店を構えるだけの資金もなく、使用人を雇う余裕もなく。自分が背負えるだけの商品を背負い、町から町へと売り歩く。

 せめて馬車があればもっとたくさんの商品を一度に運べるのに、というのが昔からの彼の口癖だ。

 だが、馬車を持つなど無理も無理、とてもではないが、今の彼の稼ぎでは馬車とそれを牽く馬を維持するだけの余裕はない。

 行く先々で僅かな商品を仕入れ、別の場所で売り捌く。そうやって、少しずつ少しずつ資金を蓄えてきた。いずれ、どこかの町で自分の店を構えるために。

 そんなごく普通の行商人でしかない彼に、ある時月の光が差し込んだ。

 果たしてその光を投げかけたのは、善なる神々がおわす金の月か、それとも邪神が座す銀の月か。

 その行商人自身もどちらとも判断がつかず、しばらく胸の内で秘かに悩むのだった。




 ゴルゴーク帝国の片隅、隣国であるグーダン公国にほど近い、とある町。

 その町に数ある宿屋兼酒場の一つで、酒を呷りつつ何やら話し込む二人の男がいた。

 その内の一人は、冒険者のような出で立ちだ。

 薄汚れた革鎧と外套、そして、腰には使い込まれ古ぼけた長剣。陣取っている机の近くの壁には、長弓と矢筒が立てかけられていた。

 対してもう一人はというと、こちらは冒険者ではなく商人のようだ。

 大きな背嚢と肩掛けの鞄。腰には小袋がいくつもぶら下がっている。

 冒険者らしき男が懐から何かを取り出し、それを商人へと差し出した。商人は布に包まれたそれを受け取ると、ゆっくりと薄汚れた布を剥がしていく。

 そして、布の中から出てきたものを見て、その両眼を大きく見開いた。

「こ、これは……ま、まさか……」

「そうとも、そのまさか、さ」

 へへへ、とどこか嫌らしい笑みを浮かべる冒険者風の男。

「そいつは正真正銘、魔石って奴だ。それも一級品の、な」

 魔石。それは内部に魔力を蓄えた宝石の一種で、魔力が多い土地の地中からごく稀に発見されるものである。

 考えるまでもなく、その価値は極めて高い。

 魔術師は言うに及ばず、兵士や騎士の中にも気術を使う者がいる。戦闘中に己自身が内包する魔力が尽きた時、手元に魔力を秘めた魔石があるのとないのでは戦闘で生き残る確率が大きく変化する。

 そのため、魔術や気術を扱う者は、切り札の一つとして魔石の所持を希望する。だが、発掘量が極めて少ないため、魔石が採掘できるような場所は国が厳しく管理しており、採掘された魔石もまた国の管理下に置かれ、質のあまり良くない魔石だけがごく僅かに民間で流通している。

 様は、需要に供給が追いつかないのだ。

 そのような理由から末端の商人──彼のような行商人が、魔石を商う機会など全くないと言ってもいい。

 だが、その魔石が目の前にある。しかも、普通なら庶民の間で流通することはないような、極上の逸品がだ。

 当然ながら、冒険者風の男がこの魔石を手に入れたのは、表立って言えないような手段なのだろう。盗品か横流し品か分からないが、そもそもまっとうな手段で入手したのであれば、このような場所でこそこそと商談をする必要もないのだから。

「で、どうする? この魔石……あんたが買い取ってくれるのかい?」

 冒険者風の男の笑みが、より深くなる。

「も、もちろん買い取らせていただきたいが……いくらで売ってもらえるので?」

 考えるまでもなく、この魔石はヤバいシロモノに間違いない。いつもであれば、行商人もこんなあからさまに危険な商品には、絶対に手を出すことはない。

 質素に、堅実に、小さなことからこつこつと。それがこの行商人の信条なのだから。

 だが、今はちょっと事情が違う。

 先日、この行商人はとある町で仕入れた商品を、旅の途中でほとんど失ってしまったのだ。

 これまでに何度も通った街道の途中で、数人の盗賊に絡まれてしまい、その時所持していた商品をあらかた奪われてしまった。

 今までに何度も利用した街道であり、過去に盗賊に襲われた経験はない場所だったため、経費を惜しんで護衛を雇うことをしなかった。そのためか、旅の途中で盗賊に狙われてしまったのだ。

 いや、もしかすると彼らは盗賊ではなく、あまり素行のよろしくない冒険者だったのかもしれない。冒険者の中には、依頼人を襲うような不逞の輩もいると聞く。

 もちろん、そのような冒険者は彼らを統括する互助会から厳重注意され、最悪の場合は秘かに処刑される、なんて噂もある。

 その噂が本当かどうかは知らないが、互助会からあぶれたゴロツキ紛いの冒険者が、運悪く通りかかった行商人を襲ったという可能性は十分あるだろう。

 どちらにしろ、商品を差し出すことで何とか命だけは助けられた行商人。手元に残されたのは、秘かに隠していた僅かばかりの硬貨。当然ながら、新たな仕入れの心当たりもない。

 そんな時だ。すっかり意気消沈していた彼に、一人の男が声をかけてきたのは。

 その男──冒険者風の身なりをした男は、周囲に視線を巡らせた後、行商人にこう切り出したのだ。

「なあ、あんた。見たところ商人のようだが……実はいい掘り出し物があるんだが、買う気はないかい?」

 と。

 その申し出は、すっかり追い込まれていた行商人にとって、暗い夜の中に差し込んだ月の明かりのように感じられた。




 所持していた金目のものを全て売り払い、僅かばかりの所持金をかき集め、何とか冒険者風の男が提示した金額をかき集めた行商人は、魔石を手に入れることに成功した。

 冷静に考えれば、その金でまっとうな商品を仕入れればいいようなものだが、その「冷静な判断」を下せるだけの余裕が今の行商人にはなく、彼の頭の中は魔石を手に入れることで一杯だったのだ。

「分かっているとは思うが、この魔石をこの国で売りさばくのは止めておけよ? 変なところからアシがつくか分からねえからな? 売るなら、隣の国にでも行くんだな」

「わ、分かっていますよ」

 この男がこれだけ価値のある魔石を、相場よりもかなり下回る金額で自分に売った理由はこれだった。

 確かにこんな大きな魔石を売れば、その出所を疑われるに違いない。まず間違いなく、庶民の間で流通するようなシロモノではないからだ。

「じゃあな。その魔石が上手く売れることを祈るぜ」

 そう言い残し、男は夜の町の中に消えていった。残された行商人は、薄汚れた布に包まれた魔石を素早く懐に隠し、これからどうしようかと必死に考えた。

 普段であれば絶対に手を出さないような、ヤバいシロモノ。懐の中の魔石が、ずしりと行商人の心と体に重くのしかかる。

 あの男の言うように、この魔石を国内で売るのはまずい。となれば、どこか違う国まで行く必要がある。

 当然ながら、他国は遠い。それに一人でそんな遠方へ行けるわけがない。道中の護衛だって必要になる。

 がやがやと騒がしい酒場の片隅で、行商人は一人頭を抱えた。




 結局、彼が選択したのは、やはり他国へ行くことだった。

 行商人が選択した行き先は、隣国のグーダン公国。その国には、賢者と名高い人物がいる。賢者とまで言われるほどの人物であれば、この魔石だって買い取ってくれるかもしれない。

 もちろん、何の伝手もないので賢者に会える可能性は低い。それでも、どこかでこの魔石を売ることさえできれば、今の窮状からは脱することができる。

 そう考えた行商人は、グーダン公国方面へ向かう隊商の後に付いていくことにした。個人で護衛を雇う余裕がない者は、よくこのような手段で旅をする。

 もちろん、相手の隊商からいい顔はされないが、それでも他に手段はない。周囲を見れば、行商人と同じ目的の旅人が数人いた。

 懐の魔石を怪しまれないように、背負った背嚢にはぼろきれなどを詰め込んで、商品を持っているように見せかけ、行商人は必死に歩き続けた。

 そうやって旅を続けた行商人。だが、常に自分と同じ方角へ向かう隊商があるわけでもない。時には一つの町で何日も足止めされることもあった。

 懐が寒い行商人は、町で宿屋に泊まる余裕はない。こっそりと厩などに忍びこみ、臭い思いをしながら何とか旅を続ける。

 だが、そんな彼の前に文字通りの壁がのしかかった。そう、国境の関所である。

 魔石が関所で見つかれば、当然不審に思われるだろう。となると、まともな方法で国境を超えることはできない。

 遠方に見える国境の砦を眺めていた行商人は、その視線を横手の山岳地帯へと向けた。

 残された手段は、国境を避けてこの山を越えるしかないだろう。決して安全とは言えないが、重い荷物もない自分一人であれば何とか越えられるかもしれない。

 一人頷いた行商人は、街道から外れて山の中へと足を踏み入れる。

 最初のうちこそ順調だった山越え。だが、足元の傾斜は徐々にきつくなり、生い茂った木々が視界を塞ぐ。

 水こそあるものの、食料も十分ではなく、行商人の身体には次第に疲労という名の重石がのしかかってくる。

 それでも、何とか足を動かしていた行商人。しかし、この時既に彼は窮地に追い込まれていたのだ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、それらは彼を包囲するように徐々に近づいて来た。

 行商人がその存在に気づいた時、最早手遅れとしか言いようがない状況だったのだ。

 そしてその脅威が、遂に彼の目の前にその姿を見せた。

「た、短剣ムササビ……い、いつの間に……」

 護身用に持っていた安物の小剣を腰から引き抜くも、彼に剣術の心得などない。

 すっかり魔獣に包囲されてしまっては、そこから抜け出すことは難しいだろう。

 それでも木を背にして背後から襲われることを防ぎつつ、手にした小剣を魔獣目がけて突きつける。

 魔獣が襲いかかって来ないのは、小剣を恐れているからか、それとも様子見をしているからか。

 しかし、行商人を取り囲む魔獣の群れは、少しずつにその輪を縮めてきている。魔獣が行商人に襲いかかるのも、それほど遠いことではないだろう。

 もはやここまでか。行商人が諦めを抱き始めた時。

 それは現れた。

 巨大な魔獣に跨ったオーガーが数体、突然飛び込んできたのだ。

 オーガーたちは瞬く間に短剣ムササビを葬っていく。よく見れば、オーガーたちの中にはホブゴブリンも混じっているようだ。

 妖魔たちが魔獣を倒すのを、半ば呆然として眺めていた行商人。その彼の前に、人間の少女とダークエルフ、そしてローブを着た骸骨を従えた一体の白い変なゴブリンが現れたのだ。

 この白いゴブリンとの邂逅こそが、彼の人生を大きく変えることとなるのだが、この時の彼はそれを知るよしもなかった。




 レダーンの町にある酒場の一角で、行商人はとある人物を待っていた。

 ほどほどの値段の酒を注文し、その酒で喉を潤していると、彼の待ち人は現れた。

「こちらですよ、《辺境の勇者》殿」

 酒場の中を見回していた人物に声をかけると、その人物はおもしろくなさそうな顔で近づいてくる。

 背後には、行商人もよく知っている少女が一緒だ。

「おいおい、あんたまでその名前で呼ぶなよ」

「ははは、これは失敬」

 互いに笑みを浮かべながら、行商人はよく知った二人に席を勧めた。そして、簡単にお互いの近況などを報告し合う。

「ほう、それはそれは……《勇者》とまで言われる第三皇子殿下と直に……いや、名誉なことではないですか。私もあやかりたいですな」

「よせよ。こっちは緊張で生きた心地がしなかったぜ」

「しかし、これはいよいよ《辺境の勇者》という異名が定着してしまいますなぁ」

「ったく、俺は《勇者》なんて呼ばれるガラじゃねえってのによ」

 しかめっ面で、彼──隊長は注文した酒を喉へと流し込む。その隣では、少女──クースが何やら書付のようなものを背負っていた背嚢から取り出していた。

「あ、あの、あのヒトから、次に購入してきて欲しい物の一覧を預かってきました」

「はい、いつもご贔屓に、とあのお方に伝えてください。ところでクースさんは、個人的に必要な物はありませんかな?」

 行商人の言葉に、クースはしばらく考え、そして口を開く。

「料理に使う包丁を……できれば、刃の長さが違うものがいくつかあると助かります。その他にお塩とか……」

 クースは思いつくものを口にし、行商人はそれを羊皮紙に書き留めていく。その後、隊長からいくつかの魔獣の素材を受け取り、代価を隊長へと支払う。

 そうやって一通りの商談を終えた三人は、揃って席を立つ。

「では、またご連絡いただいたらこの町まで参りますので」

「ああ、旦那に頼んで連絡してもらうさ」

「よろしくお願いしますね」

 二人を見送った行商人は、その足で互助会へと向かう。そこで旅の間の護衛を雇うのだ。

 最近ではすっかり懐が温かくなった彼は、そろそろ馬車の購入も考えていた。

「まさかこの私が馬車の購入を考えるようになるなんて……いやはや、人生は分からないものですな」

 誰に言うでもなく呟いた行商人は、足取りも軽く互助会へ向かう。

 この幸運は、全てあの白い変なゴブリンとの邂逅から始まったのだ。あの白いゴブリンは、果たして幸運を運んできただけなのか、それとも邪神が支配する暗黒の世界へと誘う冥府の使いか。

 その判断は、行商人にはできない。だが、儲けられる時に儲けるのもまた、商人というものだ。

 なんせ、あの白いゴブリンの口利きで、例の魔石は隣国の高名な賢者が買い取ってくれた。白いゴブリン相手に妙にへりくだっていた賢者を不思議に思うものの、そんなことは口にするような行商人ではない。

 そんなことをして賢者の機嫌を損ねるよりも、これを機に賢者との間に商売の窓口を設ける方が重要だ。気難しいと評判の賢者様と懇意にしてもらっていると世間に知られれば、いろいろと商機も広がるに違いない。

 少女から──実際はあの白い変なゴブリンから──渡された書付の中身を思い出しつつ、次はどの町へ行こうかと考える行商人だった。






《作者よりお知らせ》

 今回を持ちまして、第3章は終了となります。

 第4章は、8月25日より開始する予定です。

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