少女の決断
金の月と銀の月、二つの月が夜空で輝く。二つの月の周囲には無数の星々がきらきらと輝いているが、地上にもちらちらと輝くものがあった。
それは、ぱちぱちと音を立てて爆ぜる炎だ。
黒一色の夜の森の中で、その炎の周囲だけが橙色に染まっていた。
そして、その橙色の炎には鍋がかけられ、鍋の中からは食欲を刺激する芳香が周囲に漂い出している。
俺たちゴブリンに焚き火など不要だが、今日ばかりはそうも言っていられない。
なぜなら、俺たちの傍には人間の少女がいるからだ。
彼女は鍋の中身をかき混ぜながら、時折おどおどと俺たちのことを見つめる。
まあ、無理もない。変な白いゴブリンやホブ・ゴブリンと一緒に焚き火を囲んで料理をするなど、これまでの彼女の人生の中ではあり得ないことだっただろうから。
あ、もちろん、白い変なゴブリンってのは俺のことな?
商人の馬車や死んだ護衛や盗賊たちから必要な物をもらい受けた俺たちは、再びリュクドの森の中へと足を踏み入れた。
ただし、今度は森の奥は目指さない。これから目指すのは、街道沿いにある一番近い人間の集落だ。できれば、兵士が常時詰めている大きめの町がいい。
以前の俺の記憶だと、確かこの辺りにレダーンという町があったはず。もっとも、方向音痴気味の俺の記憶だから、あまりあてにはならないかもしれないが。
だから俺は、少女にレダーンという町を知っているか尋ねようとした。その時、まだこの少女の名前も知らないことに改めて気づく。
「そういや、お互い名前も知らなかったな。俺はリピィ。で、そっちのホブ・ゴブリンがユクポゥとパルゥな。それで、君の名前は?」
「あ……わ、私はクースって言います……」
「ほう、クースか。
「……クースイダーナ様を知っているんですか……?」
少女──クースが目を丸くする。
このシュトラク大陸で最も広く信仰されているのは、キーリ教という一神教の宗派である。そのキーリ教はここゴルゴーグ帝国でも、最も信者の多い宗教であった。
そして、キーリ教以外の宗教もまた、シュトラク大陸には数多く存在しているのである。
月神教はキーリ教に次ぐ勢力を持つ宗派であり、キーリ教とは違って多神教の宗派だ。
当然ながら、一神教であるキーリ教は自分たち以外の宗派とその神を認めていない。だが、それでも他宗教を弾圧するというほどではなく、黙認という形で他教の存在を受け入れていた。
とはいえ、中には自分たちの神以外は弾圧すべきだ、と声高に主張する聖職者もいるのだが。
ちなみに、キーリ教の神は正式にはキーリジスクラスイエという名前で、教団の正式名称も「キーリジスクラスイエ信仰教団」なのだが、さすがにそれは長ったらしいし言いにくいことから、一般的にはキーリ教と呼ばれている。
そして一方の月神教の教えによると、この世界の夜空を照らす二つの月には、数多くの神々が座す「神々の座」と呼ばれる宮殿があるそうだ。
ただし、金の月には善なる神々が、そして銀の月には邪なる神々が座しているという。
先程クースとの話に出た舞踊神クースイダーナは月神教の神の一柱であり、金の月に座す神である。
とはいえ、主神格と言えるほどの神格でもなく、知名度もそれほど高くはない。
そんなクースイダーナをゴブリンの俺が知っていることが、クースには驚きだったのだろう。
驚きを隠そうともしない彼女に、俺は「ソレ」から視線を逸らすことなく肩だけを竦めた。
「あなたは……リピィさんは……本当にゴブリンなんですか……?」
「ああ、俺は間違いなくゴブリンだよ。ま、見た目は多少変かもしれないけどな」
クースが焚き火にかけた鍋の中身をかき混ぜながら、再び俺に問う。そして、その問いに淡々と答えながら、俺はじっと「ソレ」……クースがかき混ぜる鍋を凝視していた。
だって、すっげえいい匂いがするんだぜ? ゴブリンとして生まれてから今日まで、このようなちゃんとした「料理」を食べるのは初めてなんだよ。
食材や調味料などは、例の商人の馬車からいただいてきたものである。
なんせ、これまで食べてきたものといえば、虫とか木の実とか狩った動物の生肉とかばっかりだったからな。
きちんと調理した食べ物って、やっぱり至高の存在だと再確認させられたね。
ちらりと兄弟たちの様子を見てみれば、やはり彼らもじっと鍋を見つめている。しかも地面に膝を折り曲げて座る、いわゆる正座という姿勢で。つまりは正座待機中なのである。
こいつらもきちんとした「料理」を食べるのは初めてだろう。鍋から立ち上る魔法じみた芳香に、すっかり魅了されている。
なお、兄弟たちがどうして大人しくクースが料理するところをじっと見つめているのかと言えば、俺がそう言い含めたからだ。
俺がいいと言うまで待っていれば、これまで食べたこともないぐらい美味いものが食えるぞ、と。
その言葉を信じた彼らは、こうしてじっと正座して待っているというわけだ。
しかしこいつら、身体的な能力は驚くほど高いが、反対に頭の方はホブ・ゴブリンの中でも低い方じゃないだろうか。確かにゴブリンやホブ・ゴブリンはそれほど賢い種族ではないが、それでもここまでチョロくはないはずである。
そんな兄弟たちの今後をちょっとばかり心配しながら、俺自身もクースの料理ができあがるのを今か今かと待ちわびるのだった。
「レダーンの町ですか? それなら一昨日の夜に泊まりましたけど?」
クースが作ってくれた料理を食べながら、彼女にレダーンの町のことを尋ねてみる。そうしたら、やはりこの近くにレダーンの町はあるようだった。
となれば、話は簡単だ。このまま森の中を街道沿いに進めば、数日でレダーンに着くだろう。
「なら、このままレダーンの近くまで君を送っていこう。そして、例の盗賊たちの情報をレダーンの兵士に渡してくれ」
調理の時の匂いで分かっていたが、やはりクースが作ってくれた料理はすっげぇ美味かった。どれぐらい美味いかと言うと、ユクポゥとパルゥが無言のまま凄い勢いで何杯もかっこんでいるぐらいだ。
料理そのものはよくあるシチュー。素材も調味料も見たところありふれたものばかり。それなのに彼女が作ったそれはとても美味かった。
丁寧に面取りされた野菜類は柔らかく煮込まれているものの型崩れしていないし、食べるのに丁度いい大きさに切り分けられている。やや量は少ないが、肉だって入っていた。もちろん、この肉も手頃な大きさに切られていて、ささやかながらも食べる者に対するクースの気遣いが感じられた。
しっかりと味が染みた野菜は、口の中でほろりと崩れて中に染み込んだ僅かな甘みを含んだ味が、一気に口一杯に広がる。うん、美味い。思わず叫びたくなるぐらい美味い。
シチューそのものも野菜や肉の旨味が溶け出していて、具なんてなくてもいくらでも食べられそうだ。
しかし、調味料の中にこんなほんのりとした甘みを出すものってあったか? それともこれが素材の味を活かしたって奴? おそらく、俺の知らない何か秘訣のようなものがあるのだろう。隠し味的な何かとか、そんな奴が。
やはり、美味い食事は心を豊かにするね。ゴブリンの言う台詞じゃないかもしれないけど。
そういや、捕えた例の盗賊の隊長も、時折こちらをちらちらと見ているものの、黙ってクースのシチューを食っている。
そうそう、こいつも捕えたまま連れて来ているんだよな。
しかし、こいつはこれからどうしよう? 殺してしまうのも後味が悪いし、かと言ってこのまま解き放つのも問題があるし。
一番いいのはレダーンの兵士に突き出すことだが、俺たちがレダーンの中に入るわけにはいかない以上、クースが一人でこいつを兵士の詰所まで連れていくしかないのだが、たとえ縛り上げたとしても、彼女の体格などを考えるとこいつを連行するのは難しいだろう。
下手をすると、クースに危害を加えて逃亡する恐れがある。
あの場に放置しておくわけにもいかず、とりあえず縛ったまま──今は食事のために一時的に戒めを解いている──こうして連れてきているけど、本当にこれからどうしよう?
いろいろと頭を悩ませつつ、それでも兄弟たちにシチューを食い尽くされる前におかわりしておこうと、空になった器をクースへと差し出す。
「悪いが、もう一杯くれないか?」
「………………」
だが、クースは俺の言葉に応えることもなく、じっと鍋の中を見つめていた。
もしかして、もう空になってしまったのだろうか? だとしたら、これは大失敗である。後でユクポゥとパルゥを食い過ぎの罪でちょっぴりシメておかないと。
いまだにがつがつとシチューをがっついている兄弟たちを恨めしげに見つめていると、それまでじっと鍋の中を見つめていたクースがばっと顔を上げて俺を見た。
「あ、あの……リピィさん……お、お願いがあるのですけど……」
クースは決意を潜ませた真面目な表情で、じっと俺を見つめる。しばらく無言でじっと俺を見ていた彼女が、思い詰めたようにその口を開いた。
「わ、私を……リピィさんたちと一緒に連れて行ってください……!」
直接詳しい事情を聞いたわけではないが、おそらく彼女は売られたのだろう。
つまり、盗賊に襲われて死んだあの商人は、人買いだったわけだ。
彼女がどんな理由で売られたのか聞くつもりもない。だが、成人前の子供が売られる理由など、大体決まっている。
そして、何の教養も特別な技能も持たない少女が売られる先もまた、ほとんど決まっているようなものだ。
「私……私には……帰る所なんて……ありません……」
彼女の言葉から推察するに、クースが売られた理由は口減らしといったところか。それならば、彼女が家に帰っても確かに迷惑になるだけだろう。
クースがいくらで売られたのかは知らないが、その金額だけで家に帰った彼女と彼女の家族が十年も二十年も暮らせるわけがない。となると、クースが家族の元に帰ったとしても、遠からず再び売られるだけだ。
盗賊の根城を兵士に知らせれば少しは報賞がもらえるだろうが、それだっていくらもらえるか知れたものじゃない。下手をすると、故郷の村まで帰る路銀にも足りないかもしれない。
「……そ、それに……あの村にはもう帰りたくないんです……」
「では、レダーンで暮らしてはどうだ?」
「見知らぬ場所でたった一人で暮らすのは……そ、その……」
俯いたクースが言葉を詰まらせる。
身寄りのない場所で少女が一人で暮らしていくのは、確かに難しい。下手をしたら、生活に困って結局娼館に身売りすることになりかねない。だからだろうか。彼女が俺たちと一緒に行くという決断をしたのは。
「……分かっているのか? 俺たちはゴブリンだ。人間である君が俺たちと一緒に行くということが、どれだけ厳しいことなのか……考えるまでもないだろう?」
「そ、それでも見知らぬ場所で、娼館に身を売るよりマシですっ!!」
「……俺たちと一緒に行くより、娼婦になった方が余程マシかもしれんぞ?」
俺はわざと牙が見えるように口元を歪める。凄味を帯びているであろう俺の顔を見て、クーリがびくりと恐怖にその身を竦ませた。
「ゴブリンと人間は敵同士だ。ゴブリンにとって、人間の少女など性欲の捌け口であり食料でしかない。君はいつ俺たちに犯され、殺され、そして食われるのかと、毎日びくびくしながら暮らすことになる。それでもいいというのか?」
俺の言ったことは事実だ。ゴブリンにとって、何の力も持たない人間の少女など玩具以下の存在でしかなく、最終的には胃の中に収まる哀れな
それぐらいなら、娼婦になった方がよほどマシであろう。娼館の経営者次第ではあるが、少なくとも、食べるものと着るもの、そして暮らす場所に困ることはないだろうから。
見知らぬ男に身体を開くことは辛いかもしれないが、無惨に犯されて殺され、そして食われるよりはマシに決まっている。それに世の中には、娼婦として逞しく生きている女性は数多くいるのだ。娼婦というだけで軽々しく馬鹿にするのは、そんな彼女たちに対して失礼であると俺は思う。
「悪いことは言わない。俺たちと一緒に行こうなんて考えず故郷の村に帰るか、何とか一人でレダーンの町で暮らすんだ」
「嫌です……っ!! 絶対に嫌ですっ!! 故郷の村には……絶対に帰りたくありませんっ!! 見知らぬ場所で一人で暮らすのも嫌ですっ!!」
クースはまるで親の言うことを聞かない幼子のように、ぶんぶんと勢いよく頭を横に振る。
その際、彼女の背中の中程まである燻んだ金色の髪もまた、激しく揺れ動いていた。
そして。
そして、彼女の蒼い色の両の瞳から、つぅと透明な雫が流れ落ちたことに、俺は気づいてしまったのだ。
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