Side:? 知の宮殿

 何もない、真っ白な空間に男がひとり歩いている。スタイルのいい長身を、仕立てのいい白シャツと灰色のストライプの襟付きベストに包んでいる。

 長い脚を大時計の振り子のように大げさに動かしながら、その目は片手に持った本にくぎ付けになっている。


 はたと気づいたように本を閉じ、振り返った。


 それからゆっくり歩きはじめると──、男のはるか前方の何もない空間に、突如として黒点が浮かび、それはありえない速度で男の眼前に迫った。2、3歩も行く頃には男の真正面には巨大な建造物が出現している。まるで、男がたった数歩で千里の道を踏破したようにも見える。


「……ようにも見える、っと。誰も見てなど、いないのですがね」


 男はそう独り言をつぶやくと、白亜の巨大建造物へと至る、重厚な門扉に手をかけた。黒い鉄の門扉にはこの建造物を表す神聖なるよっつの表音文字が刻まれている。


 しばらく歩くと、庭にひとりの少女の姿を認めた。


「ツィーナ。帰ってましたか」


「カノヒト様」


 彼の使い魔たる少女は、片膝をつき忠誠を表した。カノヒトと呼ばれた男は手を振ってそれを立たせると、少女を伴って建造物の中へと入っていく。


「首尾は?」

「上々です。──しかし、メルーナのほうは」


「そういえばメルーナの姿が見えませんね。彼女は今、どこに?」

「あの子の伝達ミスで、ふた組の召喚時間がかなり近くなってしまいまして。カノヒト様のお叱りを恐れ、しばらくは帰らぬつもりのようです」


「あぁ、それで……。計画が多少狂ってしまいましたが、まぁ、良いでしょう。しかし、メルーナのどじは変わりませんね」


「なんでも、本人は自分のことを“どじっ”等と申していましたが。──理解に苦しみます」


「……まぁ、そこが彼女の愛らしいところですよ」


 白く明るい光が内部を満たしている。天井はなく、上空は青くかすんで見えるほど高い書棚がいくつも林立している。書棚は音もなく複雑に動き、カノヒトたちに道を開けた。ふたりは道を過つ心配など一切ないように、ただまっすぐ、建物の中を歩き続ける。


「ところで、ツィーナ。あなたは、『有能な将に率いられた弱兵』と、『無能な将に率いられた精兵』が戦ったら、どちらが勝つと思いますか?」


「……なぜ、そのようなことを?」


「なに、古来より、兵を率いる者たちの議論の的でね。他愛のない、酒飲み話のひとつですよ。もっとも、私は酒はたしなみませんが」


「うぅむ……。やはり、無能な将が上にいては、いかに精兵といえどその力を十全に発揮できず、犬死してしまうのではありませんか?」


 ツィーナが悩みながら答えると、カノヒトは心底楽しそうに笑った。

「ツィーナなら、そう考えるのですね」


「間違っていたでしょうか?」


「いえ。大変興味深い答えでした。──では、いかなる大国の軍も、100人の勇者でさえ倒せなかった魔物を倒した英雄……と、100年もの間戦い続け、幾度となく不死の軍勢を撃退し続けてきた賢王の率いる軍とでは……、さて、どちらが勝つでしょうか?」


「それは──。いかなる大軍でさえ倒せなかった魔物を倒したのだから、賢王の率いる軍と言えど、英雄には敵わないのでは? いや、しかし、英雄とて人。魔物相手には強くとも、大軍に絶えず攻め立てられ続ければ……」


「ふふふ。考えなさい、ツィーナ。この問いに、答えはありません。考えること、それ自体が大事なのです」


「カノヒト様も人が悪い。ご自身は、いかにお考えなのです?」

 ツィーナが恨みがましい目でカノヒトを見つめる。


 だが、カノヒトは手を振って話をはぐらかした。

「さて、どうでしょうね? ……さぁ、ツィーナ。住民の変数を変更しますよ。手伝ってください」

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