第3話 私には“ビタミンC”が必要だ

「社長、いらっしゃるのですか? 社長!」

 松田の声がする。

 どうやら私は眠ってしまったらしい。

 目覚めると、私は自宅のベッドの上にいた。

 私はインターホンの通話を開き、松田に言う。

「ああ、すまない。つい居眠りをしてしまったらしい。着替えてすぐに降りる」

 午前11時35分。

 まだ時間には余裕がある。

 しかし、あの女はなんだったのだろう。あるいは、疲労のあまり白昼夢を見たのだろうか。

 そういぶかしみながらシャツを脱ぐと、ポケット中にカードが入っているのを発見した。

 黒いカードに、白い字で住所が書いてある。

 ここからそう遠くない、雑居ビルの6階。住所の下には、店名が書かれている。

 カシミール雑貨店。

 あの女の居場所だろうか?

 そういえば、あの女は何かが必要になると言っていた。

 ……ビタミンC?

 カードを握りつぶして捨ててしまおうという考えをいったん保留し、私は着替えを済ませ、マンションを出た。

「社長、やはりお疲れなのでは? 顔色が優れません」

 松田が私を気遣うように言う。

「大丈夫……いや、そうだな。松田、ビタミンCの錠剤を買っておいてくれ」

 私の言葉に、松田は不思議そうな顔をする。

「ビタミンC、ですか?」

「ああ、ビタミンCだ」

 それから私はいつも通り、午後の業務をこなした。

 松田は顔色がよくないと言ったが、体調に変化は感じない。

 この分なら、会談も問題なく進むだろう。

「社長、溝口会長がいらっしゃいました」

 松田が私を呼ぶ。

 溝口みぞぐち喜一きいち

 今夜の重要な会談は、彼が相手だ。

 溝口は極右の大立者おおたてもので、我がファンドの主要な出資者の一人でもある。

 彼の意向次第で、私の会社の運命の約半分が決定すると言ってもいい。

 溝口は肥満した体をよたつかせながら、応接室に入って来た。

「ご無沙汰しております、溝口先生」

「ああ、巽はん。相変わらず男前でんな。親父さんの若いころに瓜二つやで。男のわしでもほれぼれしてまうわ」

 そう言って溝口が笑う。

「恐縮です。先生もお変わりなく」

「いやー、あかんあかん。もうこっちゃからっきしですわ。中国人が金持ちになったさかい、昔ながらのやり方じゃあよう稼がんのですわ。もういっそのこと左翼に鞍替えしようかな思うとりますんや。あっはは」

 どうやら溝口は上機嫌らしい。どうにかこの機嫌のまま帰ってもらいたいものだ。

「それで、ナガセの件はどないだす」

 溝口が突如、真顔になって言う。

 私は波立つ心を落ち着かせながら、澱みなく答える。

「リストラ計画は取締役会を通過しました。計画通り実施されれば、今年度の経常利益は黒字になるでしょう。そのあとは、東亜電産がナガセの名前を欲しがっています」

「東亜か。よっしゃ、東亜にはわしの友だちがおるさかい、そいつを窓口にしよか。なんぼくらいになりそうでっか」

 仲介料の要求だ。

 理不尽だが、断れない。

「おおよそ80億ほどかと」

「おっしゃ、そしたらな、東亜の窓口に1本、あんたんとこの裏口に1本、わしんとこに1本入れたってや。頼むで」

 このクソジジイ。株式の売却益でそんな利益が出るわけがない。それだけの金を手に入れるとしたら、裏金を動かすしかない。

 自分と同じ泥を浴びさせることで、相手を支配しようとする。

 邪悪だ。吐き気がする。

 ……吐き気?

 頭蓋が砕け散りそうなほどの激しい頭痛。

 世界が割れるような眩暈。

 いったいどうしたんだ?

 私は……

「ま、松田……」

「社長!」

 私は床に倒れ込み、嘔吐する。

 手足が痙攣する。

「松田、ビタミンCだ。ビタミンCをくれ……」

 かろうじて私はそう伝える。

 なぜかはわからない。わからないが、どうしても“ビタミンC”が必要な気がする。

 松田は困惑しながらも、私の言葉に従ってくれる。

「社長、どうぞ」

 松田が差し出す錠剤を、むさぼるように流し込む。

 ビタミンCを飲み込むと、症状は嘘のように収まった。

「巽はん、大丈夫でっか?」

 溝口が私の顔を覗き込む。

 私はなんとか立ち上がり、溝口に言う。

「申し訳ございません、先生。突然体調が……」

「ああ、かまへんかまへん。ちょうどそろそろやと思うとったとこですわ」

 溝口が奇妙なことを口にする。

「え?」

「ナガセの件は忘れんとってな。ほな、おおきに」

 笑う溝口。

 不思議なことだが、溝口はそのまま上機嫌で帰っていった。

 だが、なぜかこれだけはわかる。

 “ビタミンC”が必要だ。

 私には“ビタミンC”が必要だ。

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