第2話 ビタミンC
帰りの車で、秘書の松田が私に問う。
「社長、さすがに今回は哀れというか、後味の悪い仕事でしたね」
「そうかな。いつもこんなものさ。3年間、ずっとこうだった」
私はスーツを脱ぎ、捨てておくよう松田に命じる。
「社長は強いですね。いつもこんな仕事では、私なら精神的に参ってしまいそうです」
「慣れだよ。一度目は誰でも混乱し、苦しむ。けれど二度目からはそれほどでもなくなる。三度目には、感情を完全にコントロールできるようになっている」
松田は興味深そうに尋ねる。
「嫌だと感じなくすることができるのですか?」
「感情と感覚は違うものだよ。何も感じないというのは、目も見えず、耳も聞こえなくするのと同じだ。感覚はむしろ鋭敏でなくてはならない。しかし、その感覚に感情を支配されないようにすることはできる」
タブレットを見ると、ナガセの役員どもから続々とメールが届いている。議決が成って、約束の報酬が本当にもらえるのか不安になっているのだろう。あさましいやつらだ。
「感情というのは、海に浮かぶ船のようなものだよ。感覚が風を吹かせると、下手な水夫はその風に流される。優れた船長は嵐の中でも進むべき進路を見失わない」
午前10時55分。
次の予定まではまだ少し時間がある。
「ああ、このまま自宅へやってくれ。ちょっと着替えてくる」
私は車を自宅へ向かわせた。替えのスーツは松田に取りにやらせてもよかったが、夜には重要な会談が入っている。着るものはクローゼットから自分で選びたかった。
「社長、それでは30分後にお迎えに上がります」
会社から5分ほどの位置にあるタワーマンションの一室が、私の自宅だ。広い邸宅をもつよりも、独り身の私にはこのほうが性に合っている。3年前、会社を立ち上げた際に買った部屋だ。
自宅の玄関の扉を開けると、その瞬間から、何か奇妙な感じがした。
部屋の雰囲気が、どこかいつもと違う。
そしてこの匂い。
南国を思わせるイランイランの甘い香りと、シナモンのようなスパイスの香りが混じった、鼻につく匂いがする。
私は強盗を警戒しながら、ゆっくりと部屋の奥へ進む。
寝室の扉を開いて、私は愕然とした。
私のベッドに、奇妙な格好をした女が座っている。
ジプシーのようなフードに、過剰なほど肌を露出するローブ。きらびやかな宝飾品、そして浅黒い肌。まるでおとぎ話に出てくる占い師のようだ。あまりにも場違いな姿。
「こんにちは、巽さん」
女が私の名を呼ぶ。
私は警戒心をあらわにして詰問する。
「お前は誰だ。どこから入った」
女は笑って答える。
「扉が開いていたんですよ、巽さん」
「バカを言え。カードキー式のオートロックだ。開いているなんてことはあり得ない」
女は笑い続ける。
「ではどうやって入ったんでしょう。カードキー式のオートロックで施錠されたマンションに」
笑いながら、女は自らの肢体を見せつけるように、体をくねらせた。
美しい女だが、気味が悪い。私は携帯を取り出して、警告する。
「すぐに出ていけ。警察を呼ぶぞ」
「出ていきますよ、すぐに。ただ、ひとつお伝えしたいことがあるのです」
言いながら、女は私に近づき、耳元に唇を寄せると、ささやくように言った。
「そろそろ“ビタミンC”が必要になるころですよ」
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