ビタミンC
既読
第1話 感情は完全にコントロールされている
午前十時十分。
感情は完全にコントロールされている。
5分後、私は株式会社ナガセの取締役会に出席し、従業員を3分の1に削減するリストラクションを提案する。
ナガセは優れた技術をもつ精密機器メーカーだったが、海外市場に軸足を移し過ぎ、為替レートの急激な変動に対応できず、経営が傾いた。経常赤字転落と同時に、折悪しく創業者である社長の長瀬氏が病に倒れ、二代目を娘が継いだ。娘に経営能力は無く、結果、取締役会は私のファンドによる買収に同意し、身売りをすることとなった。
「心苦しいご提案をお聞かせしなくてはなりません」
私はそう言って、リストラクションの実施要項を配布させる。
取締役会の7割にはすでに根回しが済んでおり、彼らは自分が安穏な老後を暮らせるだけの報酬金と引き換えに、会社の実質的な解体に同意するのだ。これは茶番ではあるが、必要な茶番だった。
取締役会に出席する役員の中で、私の提示する条件を今日初めて知るのは、二代目経営者である娘だけだ。
彼女は文面に記された事業削減の規模に息を飲んだ。
「
娘が何か言いだす前に、先代から仕える老副社長が穏当な反対意見を出した。
これも事前に用意されたシナリオだ。副社長の堀内は1年後に引退し、ある私立大学で教授のポストを得る。そのために彼は、自分の派閥に属する役員の票を私に売り渡し、あまつさえこんな茶番を演じている。
「お気持ちはわかります。しかし、この改革を断行すれば、来年度の決算を黒字化することができます」
私は想定する財務の推移を示し、黒字化の道筋を説明する。
馬鹿げた話だ。
従業員を削減し、資産を食いつぶせば、黒字化は赤ん坊でも達成できる。その代わり、ナガセは従来の事業の継続が不可能になる。テセウスの船というやつだ。名前は同じだが、従業員も事業内容も資本もすべて入れ替えられ、まったく別の会社になるしかない。それでも私は、まるでこの会社を救おうとする使命感に満ちた医師のような口調で、彼らに告げる。
「黒字化ののち、しかるべき出資者を募れば、ナガセは再生します。私はナガセの潜在価値を信じております。あなた方も、この会社の価値を信じてください」
詭弁だ。
たしかにこの会社には価値がある。積み重ねた実績が、ブランドという価値を築いている。それは名前と結びついた価値であり、肉体が根こそぎ剥ぎ取られても残るものだ。その社名を欲しがる企業は多い。私はこの年老いた羊のような企業から、従業員や工場といった肉と内臓とを切り離し、きれいに下ごしらえして、それぞれを望む者に売り渡す。いわば企業の屠殺屋というわけだ。
打合せ通り、取締役会の過半数の賛成をもって、リストラクションの実施は可決される。結果的に反対票を投じたのは全体の2割に満たなかった。もはやこの会社に未来を見ている者はほとんどいない。
創業者の娘は、唇を噛みながら、議決の行方をただ見守っていた。
「それでは、あとのことは長瀬社長と堀内副社長にお任せいたします」
私がそう告げて会議室を去ろうとすると、長瀬の娘が声を上げた。
「待ってください!」
彼女は私のそばまで走ってくると、私の腕を手を取り、頭を下げて言った。
「お願いです。あと1年だけ待っていただけませんか」
娘はふるえながら泣いていた。
娘と言っても、今年で45を越えた女だ。哀れというよりむしろ、みすぼらしく見えたのは、私だけではあるまい。
ふと見ると、私のスーツの袖に、彼女の涙が落ちた。
私は言いようのない嫌悪感を覚えた。
衣装棚の中でもわりと気に入っていたはずのスーツが、途端に汚らわしいものになったように感じられた。
「長瀬社長……ことここに至っては、たとえ大資本の一ブランドとなっても、ナガセの名を残すことこそ先代への供養というものです」
私は
泣き崩れる女社長と、その肩を抱いて慰める裏切り者の副社長。
醜悪だ。
午前十時四十分。
感情は完全にコントロールされている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます