#38 確かに聞こえたその音は

「どうした? 一見して頭悪そうな顔がより一層間抜けに視えるぜ?」


 雨季の隙間を縫うような晴天の下。

 かつての主犯であるオレは微笑い、丸山の顔は季節相応に曇り、醜く歪んでいく。


 そんなの…だって、笑うしかないよな?


 かつて強大に見えた人間が今はちっぽけで、情けなくて、くだらなくて、しょうもなくて。

 いつまでも勝てないと思い込んでいたのは、本当にただの思い込みでしかなくて。

 いつの間にか、そんな壁なんてものはとうに乗り越えていて。


 何なら、こんなモノに囚われていた自分が本当に情けなくて、決定的に凄まじい程に格好悪くて。


 それはそれとして、長く待ちわびたそれに――本来嬉々として取り組むべきそれに、昔からずっと指折り数えたはずのその瞬間に――何故か、思ってもみないことに…胸の奥のどこかしらが少しだけ鈍く痛んだりして。


 オレの少ない語彙では到底顕しようのない、何とも言えない不思議な感情が身体を満たし、精神に染み渡っていく。不可解な感覚が自分の中身に充実していく。


 不意に、論理的な思考を飛び越えて反射めいた笑みが零れる。


 緩む口先と、それに従う本能的な言葉。


「そうか理解が及ばないのか……なら、頭の悪いお前に偏差値がおよそ二倍のオレ様がワザワザ分り易~く教えてあげよう」


 本当にオレの偏差値が丸山の二倍あるのかは知らない。そもそも丸山が高校に通っているのかも怪しい。

 もしもそうだとすれば丸山の偏差値を測る術など無いわけで、オレは大いに間違っていることになる。


 おっと話が逸れに逸れたな。


 我に返ったのか裏返ったのかはどうでもいいけれど、とりあえずオレは思い通りにならない悔しさに唇をきつく噛締め顔を歪める丸山に顔を近付ける。その距離は二〇センチくらい?


 そこで嘲る様に猫撫で声を出す。実に分り易い挑発。


 この瞬間、頭の中に何かが砕け散る音が響いた。

 それは多分オレを縛っていた――いや、誤魔化すまい。


 自分が自分を縛っていたくだらない過去の鎖が弾ける音で。

 止まったはずの時計の針が動き出した音で。

 止めたはずの僕が動き出した音で。

 オレが自分で囲っていた壁をぶっ壊した音で。そしてそれは多分―――


 オレが少しだけ変われた音だと思う。


 こめかみをコンコンと数回ノックする仕草を見せてから、オレはオレの檻を壊す。引きずり出したのは何だったろうか? 希望であればいいのに。


「…誰がお前なんかと付き合うかよ。バーカ。調子のんな、このド腐れビッチが。オレとお前じゃ全く持ってこれっぽっちも釣り合わねぇ…オレ様と付き合いたいなら、3億回生まれ変わってからにしろよ」


 冷たく言い放ち、軽く丸山の肩を押すと、彼女はよろけて二、三歩後ろに下がる。

 僕らの間にリアルな距離が生まれる。再び重なりそうだった僕らの人生が再び離れる。


 有り得ない例えばの話、オレが彼女を突き放さなければ、オレが丸山の腕を振り払わなければ…。


 もっと昔に遡ったとして、僕に『非情の瞳』なんて無くて彼女の告白を素直に受け入れていれば、現在とは違った未来イマが広がっていたのかな? 重なった人生のレールは僕達を何処に導いたのかな?


 くだらねぇ。どうでもいい仮定。有り得はしない妄想。

 オレと丸山の人生は重なりそうで、交わりそうでそうならなかっただけ。

 果て無く無限に見えるだけで実は有限な人生を揺蕩う僕達は辛うじてすれ違っただけ。ただそれだけのことだ。


 ただ、オレとしては、もう二度と欠片も重ならないよう願うよ。

 くるりと身を翻して、誰かに向けて手をひらひらと振りながら強く一歩を踏み出す。


「そしたら考えるだけ考えてやるよ。長くて二秒ぐらいかな。まあ、無駄だと思うけど」


 呆然と口を開けているチビ男の肩に手を軽く置き労った後の捨て台詞。

 振り返って膝をついている女の子を背中越しに指さしながら一言。


 余計な別れの言葉。蛇足な物言い。発つオレ後を濁すといった風体。


「悪いんだけど、オレの街が汚れるし……そんな些事は扠置いて、何よりも『僕』が不快で不愉快な気分になるから丸山あれ回収しといてね。じゃ頼むわ」


 それじゃあ、二度と会いませんように。


 言いたい放題言い残して歩みを再開する。

 一歩一歩踏みしめるように。明日に向かって歩き続けるように。


―――オレは未来に歩いて行く。

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