#29 犠牲の上に成り立つ幸福
「ん…うぅん…う…んん…?」
右肩付近に預けられた頭がモゾモゾと動く。
さて、眠り姫のお目覚めだ。
随分と長い間お休みだったな…つってね。
その証拠に暗がりに落ちていたはずの空は白く青い。もうすっかり夜が明けた。
割れて歪な模様が入った大きな窓から――否、オレが意図的に割った窓の向こうから――陽の光が薄く差し込み、荒れた室内を淡く、それでもしっかりとした光量を持って優しく照らす。梅雨時だというのに雨の気配がない、実に気持ちのいい朝。
全く、長い一日だった。若しくは一晩だったと言い換える。
故に、オレは色々と感情やら感傷やらを多く含んだ挨拶を投げ交わす。
「おはよう
「ん。んう…おはよう…」
眠りの残滓に目を擦りながらも、律儀にも朝のあいさつを返してくる。
この平和ボケで飾らない――間の抜けた顔を見ていると、平穏な日常が返ってきたのだと実感する。
そして数秒後に自省する。
いや、オレは何もしていないなと。
この平穏は神無月が自分の意思で取り戻した日常で、オレはそれに少しばかり要らぬお節介を付け足しただけだ。
元のカタチが分からないほどに歪んでしまったオレだけどさ、それでも『オレが取り戻してやったんだぜ!』なんておこがましいことを言わない程度の――最低限の人間性はまだ残っているさ。
「んでもって、寝起きでいきなりだけど…気分はどうだ? 意識はハッキリしてるか? それとも何処か痛むか?」
一応神無月に身体の安全確認をしておく。
重症とは直後にはその重大さが分かり難く、時間を置いてから現れるのだと本で読んだ。生憎というか幸いというか、
「ん~、特には……ってぇええ?」
徐々に…しかし間違いなく覚醒した神無月は唐突に高速でオレから顔を逸らす……少し傷付いた。
その勢いのまま顔を両手で塞いで甲高く叫んだ。静かな朝には不釣合いな大声で。それはもうご近所さんの迷惑になるくらいの絶叫でした。
ちなみに女の子の小さな掌で隠し切れていない耳は茹でダコの様な色をしている。
ここが満員電車で、発した台詞が『この人痴漢です』ならば、その瞬間にオレの人生が終わるような声色と体裁。
「み…みみみ、見ないでぇっ! お、おっ…おあ、起き抜けを異性に見られるとかっ…!」
「今更連れないこと言うなよ。昨日はもっと恥ずかしい所を見たし、あられもない泣き顔も見た。そしてお前の寝顔もバッチリ拝見済みだ」
お互いの恥部についてはもう…今更アレだろう?
「ね、ねがっ…寝顔って…。そう言えば、あなたが寝ているのを見ていないけど、もしかして…」
指の隙間から可愛らしくこちらを覗く。
その仕草は大変可愛らしくて、うっかりときめきそうにはなるんだけど、何故だろう? なんだか面倒なことになりそうな雰囲気をひしひしと感じる。
だが、疲れた身体と活動限界間近の脳みそでは、これとハマる様な解答が浮かびそうもなかったのであえて正直に申告する。まあ眠たいし、普通に面倒だったわけだ。
「あぁ、ずっと起きていた」
ザァっと波が引くように、勢い良く距離を取られた。整った小顔にあったはずの両手が今は凸の少ない胸の前にある。
あ、唐突だが正解が見えてきた。察するに見当違いな妄想をしていないか?
「ま、
はい、予想的中と。
おい、身体中を確認するなよ。そんなことしたって、見つかるのは標高の低い山脈と出来たてで痛々しさの残るアザぐらいだぜ?
呆れながらも両手を上げ、身の潔白を示す。
土台となる証拠は不十分だし、そもそもの起こりが冤罪もいいところだなんだ。魔女裁判や悪魔の証明よりもかなり容易い自己弁護。
「誓って何もしていない。大体お前みたいな年齢不相応で貧相な身体に対して過去から未来に至るまで決して欲情したりしない」
生憎オレは生来の紳士である。
「一晩中ちょっといい感じの高尚で建設的な考え事をして過ごした。父なる主でも仏でも、マホメットでもゾロアスターだろうが
清廉潔白な身の上をこんこんと説いたつもりだが、彼女のお気には召さないものであったようだ。
涙目ジト目の年上女性の反証が始まる。
「ひ、貧相って…女性に向かって貧相って…あ、あなた失礼過ぎるわよ?」
「では慎ましくて貞淑であると言い変えるよ」
「な、一緒じゃないっ! それに少しぐらいはあるわよっ!」
「はいはい、そうだね。皆の憧れの神無月先輩は誰もが羨むナイスバディだねぇ~」
もう疲れたので会話を切ろうと顔を逸らしながら、遠い目をして賛辞の言葉を述べたのだが、逸らした顔に両手が添えられ強引に神無月の顔の方に向けさせられた。
オレが床に座っているのに対して、何故か神無月は膝を地面に立てている。
つまり現在オレ達がどういう体勢なのかと言えば、オレと神無月の顔には標高差が生まれたわけで、なら今どうなったのかと言えば、オレの顔の目の前には美人系先輩の胸部がフルパノラマッ? 鼻先三寸に男のロマンが広がっていたわけで…。
フフンと鼻を鳴らして神無月は恐喝するように冷たい平坦な声で尋ねる。
「どう? これでも貧相だと言える?」
「い、いや分かったっ! ごめんっ、オレが間違ってました」
正直近付き過ぎて、そんな確認出来るはずもなかった。そんな余裕など皆無だった。鼻先に薄っすら残ったオンナノコの匂いが生々しい。
「そう? 分かればいいのよ」
満足気な表情を浮かべてオレを解放する。
「…っ、やめろよ、そういうの」
悔しいので無駄なあがきをぼそっと言ってみた。
純情な青少年の心を弄ぶ様な真似はヤメたほうが身の為だぜ? 何時かきっと手痛いしっぺ返しをくらうぞ。ん? 何故か英語の授業と笹塚さんの顔が思い浮かんだ。ん? あれ?
首を傾げるオレは訝し気な視線を感じて神無月の方を見る。そこにはジト目でこちらを覗く神無月がいた。
「…今他の女のこと考えたでしょ?」
「いたっ! 何故ほっぺをつねるっ? 何故内ももを全力で叩くっ? おいっお前はオレの彼女かっ? 彼女なのかっ?」
「………」
「おいっ! 無言でスピードアップすんなよっ!」
爽やかな朝に小鳥の囀りよりも大きく木霊する乾いた音と男の悲鳴。優雅な早朝とは言い難い。
―――こんな日常なら取り戻さないほうがマシだった。
そんな不謹慎なことを考えられるのは、いま現在が非現実の上になり立つ平和だからこその幸福かも知れない。
曖昧な事象と確かな現実を前にした少年は漠然とそう思った。
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