#28 氷解の瞬間

 凄まじい物量を感じさせる何か、所謂スカラーとかベクトル的な緊張と疲労とか、あらゆるマイナス因子が崩落したダムの如く一気に押し寄せてきた。


 いや実際はそんなスペクタクルな場面に遭遇したことは幸いにも無いのだけれど、イメージ映像みたいな? とにかく、そんな感じの色々な質量がドッと身体を重りのように満たした。


 繰り返すようだが、元来オレのメンタルは豆腐なのだ。

 今までは神無月かんなづきの為にも精一杯余裕綽々な仮面を被っていたけれど、もういい加減に限界だ。

 リミットオーバー気味で可哀相な我が身体に暇を与える意味で軽く一呼吸置いてから、改めて神無月の方に向き直る。


 オレは座ってから少しばかり自嘲していたが、ガッツリ当事者である彼女は未だに先程のように険しい顔をしている。難しい顔を崩さない。


 別にここまで深部まで関わったオレがまるっきり部外者って訳ではないけれど、所詮他人事と言っても差し障り無い。

 冷たい言い方にはなるけれど、別に神無月の家庭がどうなろうとオレに実質的な被害はないのだから。


 オレにとってのワンナイトクルーズは、ほんのちょっと後味が苦い経験を過ごしただけ。ただそれだけだ。

 その点神無月は自分が主人公の物語で、ドラマが繰り広げられた舞台は彼女の家だ。自分を罵る程度の余裕すら失っていても不思議はない。


 さて、どう声を掛けたものか…。少なくとも『ゴリラの学名ってゴリラゴリラなんだぜ?』と雑学を披露する場面ではないことだけは確かだ。


 まあ、とりあえず――相も変わらず行き当たりばったりだが、話しながら考えることにしよう。


「なぁ、神無月…。お――」

「実に見事な弁舌とハッタリだったわね。あなた、役者に向いているんじゃない?」

「おま――」

「まともに考えれば、自分を巻き込む可能性があるのに引火させるわけないじゃない。全く、逃げる時のアイツの顔ったら無かったわ…」


 オレの掛ける言葉はことごとく遮られる。つーか、普通にシカトだ。

 そんな神無月の本当の心中は表情からは謀れない。別だけどね。


「あんなヤツに良いようにされていただなんて…本当に自分に腹が立――」

「おいッ!」

「何よ…? 突然大声出して…傷口開くわよ?」


 神無月は目を合わせないままに嘯く。


 でも、そんなの嘘だってことぐらい『非情の瞳』なんて無くったって分かるさ普通。

 それが現在のお前にとっての無意識的な拠り所だってことぐらい。有意識で形成した唯一無二の防護壁だってことがさ。


 だからこそオレはを揺さぶる。


「いいよ、無理しなくて。だって、お前…辛いし悲しいだろ? 愛憎合わさってグチャグチャな心境だろ?」


 分かり切った事象をいちいち確認するのは余り好きじゃない。無駄だから。エコじゃないから。


 だけれど神無月はプライドが高そうだ。心の本音に基づいて素直になるにはそれなりに大義名分が必要だろう。

 ここまで巻き込まれれば、乗り掛かった船というか降り掛かった船だ。本来の傍観者的な立ち位置としての領分を超えているのかも知れないが、ここまで付き合ったんだ。最後まで面倒見てやるよ。


 お前の為だけの舞台をオレが演出してやる。親愛なるアクトレスの為の物語をオレがつづってやる。

 せめてオレが後悔しないだけの結末に、お前にとって今日が過去ではなく思い出になるようにさ。


「そ、そんなわけないわ。宿願が叶って最高の気分よ」


 神無月は頭をふるふると左右に振り、声を気持ち上ずらせて答える。動揺が見て取れる。本当分り易い女だよ。だからこそ厄介だ。シンプルイズベスト―――いやこの場合はワースト。


 もういいんだ。無価値な嘘なんてつかなくていい。オレにはそんなの意味を成さないし、オレじゃなくたって一目瞭然。


 いい加減に嘘で隠した本音を見せてくれよ。


 互いに無駄な台詞も要らない。余計で過剰な演出は質を下げるし、オレも無意味で不必要な面倒臭さはごめんだ。


 でも、その手間が無駄なものではないのなら、お前にとって価値と意味を伴うものだとすれば――まあそのあれだ…例えオレにとって無価値で無意味で無駄だとしても、お節介がてら要らぬひと手間を掛けてやるのはまあ吝かでない。


 それはそうと現在演出兼助演男優に求められているのはありきたりな説教でも、ありふれた陳腐な口説き文句でもなく、神無月を溶かすような台詞なわけで…それがなかなかに難しかったりするんだよなあ。でも―――


 もういい加減に閉めようか…。


 神無月の左胸を指さして尋ねる。勿論性的な接触にはならない程度の距離を空けて。


「お前はそう言うけど、ココロの中はどうだ? オレには違った答えがえてるぜ?」

「だったら、あなたの目は節穴ね。若しくはただの見間違えで勘違いよ。あ、もしかしたら傷が開いて血が入っているんじゃない?」


 見え見えの虚勢は痛ましい。こっちの方が辛くなる。


「茶化すなよ。あんなのでもお前の父親だ。少なからず情もあれば思い出だってあるだろ? それが、こんな決別の仕方をしたんだ。何も思わない訳あるかよ」

「問題ないわ。心は良好、ベストコンディションよ? 第一『深窓の氷像』にそんな人間らしい健気さを期待するほうが変なのよ」


 コイツ…本当に心底メンドクサイやつだな…。早くも投げ出しそうだ。

 もう鍵は壊していて、扉すら開いているのにどうして踏み出さない?

 氷の鎧は壊れて用を為さないのに、まだそれに縋るつもりか?


 意地を張りすぎて、後悔することもあると思う。

 そりゃあ生きていく上で誇りを持つことも大切だろうけど、高過ぎるプライドなんてただの重荷――真の自由を奪う足枷にしかならないんだよ。

 それはきっとお前の大切を殺すことと同義だ。オレは――僕はそれをよく知っている。


 それに……氷はいつか溶けるもんだろ?


 お前の凝り固まった心の氷解は必然で、それは子供がサンタの正体に気付くくらいに当然で、誰もが通って、みんなは通らない。そんなもの。


「そうかい…。でも『氷像』では無いけれど、像が人間よりも人間らしい、温かい健気さを持つ例だってあるんだぜ? かの有名なオスカー作、『幸福な王子』とか知らないか?」

「それは自己犠牲の象徴よ。結局あなたは何が言いたいの?」


 オレを見上げる神無月の目は初めて見るものではない。

 これは初めて会った時の目に近しいものだ。他者の一切の介入を許さない、自分以外を認めない拒絶の瞳。


 昨日は恐怖を始めとした嫌悪感しか抱かなかったけれど、今は違う風に視えるよ。

 昨日よりもオレはお前を知ってしまったから。

 お前の人生に少なからず関わってしまったから。


 だから僕の言うことは初めから決まっているんだ。


「泣けよ、神無月。『オレにはお前の気持ちが全部分かる』なんて三文芝居の様に驕ったことは言えないけどさ」


 でもね。


「お前が単に楽しいハッピーな気持ちじゃないってことは視える。悲しさとか切なさとか。怒りとか不安とか色んな感情が溶けて混ざって。悲喜こもごも、グチャグチャってことぐらいは分かる」


 キャラじゃないけど神無月を安心させたくて、表情を緩めて少し微笑う。

 その笑顔の何処までが本音で何処までが演技なのか、そんな人間らしい感情が一体何処から湧いて身体を流れてきたのか、僕にはもう分からなかった。


「だから、現在は泣いておけよ。胸ぐらいなら貸してやるから。お前は他でもないお前の為に泣け。今はそれが必要だ」


 この瞬間に『深窓の氷像』は『一人の女の子』になったのだと思う。


 それが成り上がったのか成り下がったのかは人によって意見が割れる所だと思うけれど、それはきっと彼女にとっては良かったのだとオレは信じたい。

『救いを与えてやる』なんて大層な大言壮語を吐いておいて無責任だとは思うけど、こればかりはしょうが無い。


 いくらオレの瞳が異質だろうと、非情にもオレは嘘の中の本音しか見抜けないのだから。

 オレが掬えるのは言葉うそで隠された心の底ホンネだけ。

 非常に口惜しいけれど喋ってくれないことには話にならない。だから現在の神無月の答えホンネは視えない。


 オレの肩に顔を預けてスヤスヤ眠る少女を見て何の気無しに考える。

 この結末がどうしたって御世辞にも、最高のハッピーエンドだなんて思えない。

 でも、最悪のバッドエンドだとは思いたくない。これが不幸な結末だなんて信じたくない。


 だからせめてベターであったらと願うし、それでなくともビターエンドの範囲であればと祈るんだ。

 最高でなくとも最善の結果であればいいのにと、心の底から思うよ。


 でも、それでも自分の行動が真に正しいものだったのかなんて今でも解らない。

 だって、少女の家庭の崩壊を決定的にしたのは、他ならない自分オレだから。

 

 だからは贖罪と呼ぶには儚く、報われるかも分からない不確定な幻想を抱く。


 願わくば、彼女にとってこの結末が納得の行くものでありますよう。

 願わくば、今君の見ている夢が楽しいものでありますようにと。


 泣き疲れ、眠ってしまった少女の髪を撫でながら、僕は何かに向けて確かにそう願い、哀しき想いを誰かにそう祈った。

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