#26 壁を越える為に必要なこと

 余りにも突飛な行動と転がる現状に驚いたのか、神無月は顔を真赤にして目を見開いたが、すぐにその瞼を静かに閉じた。


 実際に僕達の唇が触れ合っていたのは、時間にしてほんの数秒。フレンチ以上ディープ未満。

 触れ合う部分から彼女の体温を感じたのも、彼女の気持ちがオレの中に流れこんできたような気がしたのも全ては益体無き錯覚。ファーストキスを失ったのは紛うこと無き現実。


 互いの唇からつーっと短い糸が引かれた。


 そして、それが切れたとき、まるでその瞬間が合図にでもなったかのように神無月父が発狂した。振り乱した腕が当たり、ウイスキーの瓶がスローモーションでカーペットに落ちていく。


 酒瓶の割れる音と辺りに液体が飛び散る音は、絶叫にかき消された。


「貴ぃぃ様ぁぁぁぁぁ! 人の、娘になにをするぅぅうぅ!」

「落ち着けよオッサン。徐々に奇妙な冒険野郎みたくなってるぜ? オレみたいに頭の血を抜いてみたらどうだ? スッキリするしオススメだ」


 こめかみでもノックして格好付けてみたかったのだが、手が動かないので舌だけ出しておいた。


「おい、立てるか神無月…」

「ええ、大丈夫よ」


 ふらつきながら、でも確実に自身の脚で立ち上がる神無月。

 目には見えない、服に隠されている部分にも痛ましい傷痕アザが幾つもあるのだろう。


「実際問題策はある。だから神無月、一方的に聞いてくれ」


 未だに朱色に染まっている神無月の耳元で静かに呟いたのは、たった今思い付いたばかりの策というには些かしょうもない考え。


「今、この部屋のカーペットはウイスキーでベチャベチャだ。そして、お前の親父は喫煙者。明晰な頭脳をお持ちである神無月先輩はもう理解わかるだろ?」

「もう勝手な男ね…。もしかして部屋を燃やす気?」


 神無月は乱れた髪を手櫛で整えながら、薄紅色の頬を膨らませて答え合わせをしてくる。


「ビビらせるだけだ。どうやら神無月紫音は小心者らしい。どうだ、当たってるか? 当たっているのならソコを突く。お前は少しばかり彼の気を引いてくれ」

「…ええ。分かったわ」

「じゃ、作戦決行ってことで――――――よ」


 そう言って二手に別れる。


 普通に考えれば、自己愛だろうが家族愛だろうが少なからず娘に対して――例え歪んでいたとしても愛情を持っている神無月父は娘のために、オレを殺すために追って来るはず。


 でも、そうなれば駆け引きをする前にすぐさま潰されエンディング。

 手の自由もきかない状態で、凶器を持った狂乱の男を相手にするのは是非とも避けたいシチュエーション。普通に瞬殺。ゲームオーバー必至。


 単なる一高校生で有るところのオレが、凶器を持ったアイツを退けるためには、駆け引きの成立が必須。神無月にだけ努力を強要して、オレが手を抜くのは道理に合わないからな。


 精々生き抜きましょうか―――。


「逃がすと思うかね? クソガキィィイ!」


 神無月父はゴルフクラブを振り回しながら獰猛に突進してくる。

 いくら神無月邸が大きいとは言え、一部屋の大きさが体育館クラスなわけもない。広いとは言っても、せいぜいこの部屋は見た感じ二四帖程度(一般家庭からすれば十二分に広いけれど)。こんな風に追われると、あっと言う間に逃げ場を失くす。


 だからこそ、神無月娘の役割が必要になってくる。


「待ってお父さんっ!」


 ナイスタイミング! 神無月娘が神無月父とオレとの間に両手を伸ばして割り込んだ。


「どけ! 沙織っ! 紫織に手を出す輩に天誅を下す!」

「私はお母さんじゃないっ! 私は、紫織。それ以外の何者にも成れないっ!」

「そんなことは分かっているよ。だから紫織に手を出す若造を殺すんだよ」


 いまいち思考が読み切れないな。独立系でぶつ切りの感情を歪に繋いでいる感じ。何故今ココにいない妻と娘を重ね合わせる? しかし、考えてばかりもいられない。オレも行動しないとな…。


 神無月父が会話に集中しているのを見計らってこそりとテーブルに向かう。


「分かってない。分かってないっ。お父さんは何にも理解ってないっ!」

「分かっていないことなんてないさ。だってお前は…」


 弱々しい父の言葉に返す慟哭の刃。


「そういう所からしてまるで理解わかってない! 私の好きなものは? 嫌いなものは? どうしてこんな髪型にしていると思う? どうしてバイトをしていると思う? それがあなたには理解る?」

「そ、それは…」

「わかるわけないよね。仕事ばかりしてきたお父さんに判るはずない。だからっ、だから…そんなのだから、お母さんも逃げちゃうんだよ」


 それは神無月がずっと言いたかったこと。言いたいのに言えずにいたこと。言いたくて仕方が無いのに腹に抱えていたもの。偽りのない本心。虚飾のない本音。


 お、ライター発見。手を縛っているのはビニール紐っぽいし、炙ればいけるかな?


 結構必死なオレの作業と比較すべくもない、決死の親娘の対話はまだ終わらない。


「お母さんと離婚して寂しいのも理解る。それで、その空白を埋めるために私とお母さんを混同するのも道理かも知れない。でも、でもっ…」


 雨に打たれる氷像の独白。いや、告白。


「でも、理屈じゃないでしょう? 理屈だけで人は生きられない。私は寂しかった。ずっとずっと寂しかった。お母さんもきっとそう。だから他に男を作って出て行っちゃった。自分を一人の女として見てくれる人を選んだ」


 神無月は止めど無く流れる涙を拭うことは無い。きっと子供の頃から頭が良く、空気の読めた彼女がそんな風に感情を爆発させたことなど無かったのだろう。


 父親はいつの間にか膝をついている。その様子は口を開けて、呆然自失といった感じ。虚ろな態度で言葉にならない言葉を呟いている。それが何より明確な解答に見えた。


「お母さんは自分という人間を必要としてくれる男性を選んだ。それこそ道理でしょう? そっちのほうが自分にメリットが大きいのだから、理にかなっていると言える」


 泣きながら、喚きながら。端正な顔をぐしゃぐしゃに歪めても。それでも神無月は口を閉じない。思いを紡ぐ。


「そして、これはあなたの大好きなリクツと私のココロを合わせた意見。…現在ここに居る私に、現在此処にいないお母さんを重ねるのは、私を否定するってことだと気付いてる?」

「あ、ああ…あ」

「いや、あなたには絶対に解らない。頭では理解出来たつもりになるかも知れないけど、あなたのココロは絶対にそれを拒絶する。あなたはそういう風に出来ている」


 よっしゃ。久方ぶりの手首が動く感触。分かり合えるかどうかは別問題だとしても、親娘の対話も終局が近そうだ。あとは酒の並んだキャビネットにと…。


 神無月は不敵に微笑う。


「不思議ね…」

「な…に……が」

「あれほど強大に見えたお父さんが、今は愚かな中年にしか見えない」


 チラッとこちらを向き、軽やかに、悪戯気に片目を瞑る。

 それはオレが知る神無月のテンションに相違無いと思った。凄いやつだと感心し、同時に応援したくなった。それも無意識的にだ。何とも善人のような心情を抱く自分に軽く苦笑い。


 頑張れよ…神無月


「妻に逃げられ、挙句娘に諭されている…そんな例えようもない程に愚かで可哀相なおじ様に私が一つだけ真実を教えてあげるわ。私がバイトをしていたその理由をね」


 尊大に足を広げて、父親を見下しながら煽情的に告げる。


「私はアンタが好きじゃなかった。むしろ大嫌いだったと言ってもいい。だから、家を出て行く為にお金が欲しかったの。でも、現在はそう思ったことを後悔しているわ」


 神無月紫音に差し込む、一筋の光。錯覚の愛情を捧ぐ娘からの柔らかな笑顔。


 しかし、儚き希望の笑顔は、すぐに歪み消え失せる。


「もっと早くからこうすべきだったと。くだらないアンタの喜劇に付き合うんじゃなかったと。危うく馬鹿げた悲劇に巻き込まれるところだった。そんな愚行を犯した自分が心底情け無いわ」

「ああぁぁっぁぁああああああああぅぅううう」


 もう何度目になるかも解らないけど、ココロが現実に適応できなくなって発狂した神無月紫音は床のゴルフクラブを拾い、目の前の少女に飛び掛ろうとした。もう瞳には嘘の愛情すらない。浮かんでいるのは敵意だけだ。


―――まぁ、させねぇけど。


 何故ならば、それこそが道化オレの全うすべき、与えられた役割だから。

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