#2 怠惰で甘い、煙の様な日常

 天頂付近から若干西に傾いている日の光が差し込む二階の教室。

 昼休みを挟んだ直後の五時間目の雰囲気は決して明るいものでない。


 梅雨独特の不快かつ淀んで湿った空気を更に悪化させる英語教師の下品な声が、不愉快にオレの名前を呼ぶ。腹ただしい程に激しい連呼。


「おいっ、斑目まだらめっ! 聞いてんのか? 斑目つかさっ!」


 うるせぇ、ウゼェ。何回も名前を呼んでんじゃねぇ。

 こちとらまだピチピチの十代だ、ボケ老人みたいに何度も呼ばなくったって聞こえてるさ。


 何ならこの退屈な授業を睡眠時間に充てずに起きてやっていたんだ。そのオレに、授業にちゃんと出席してやっているこのオレ様に向かってその口の聞き方は何だよ?


 ある種の不快感を隠さずに顔を上げて教卓を慇懃無礼に見据える。


「……なんすか?」


 散々罵詈雑言を心の中で吐きつつも、頭の中に思い浮かんだ暴言それをそのまま口に出す訳じゃない。


 そんなことを繰り返していたら、あっと言う間に社会から弾き出されてオシマイだ。

 別に結果として、構わないけれど、『それ』は自ら進んでなるような立派な立場でもない。だから、なるべくはならない。これこそが肝要だ。


 後藤は唸るように、先程言っていたのであろうと予測される文章を繰り返し言う。

 先程は偉そうに語ったものの、オレは本当に授業に出席していただけで、後藤の話に耳を全く傾けてやしなかった。


 ヤバイな。何が『出てやってるだけありがたいと思え』だよ。んな訳ねえだろ。


「斑目くぅ~ん? さっきから俺は言ってるよな? 三二ページの英文を訳せって」


 言われてみればそんな設問だった気もする。


 そこで始めて気づいたのだが、オレの机の上に教科書やノートは出ていない。

 それどころか学校の座学において必要不可欠であろう所の筆記具の類も一切出ていない。


 画一的な机上に出ているのは先程まで読んでいた文庫本ぐらいのものだ。この体たらくでよく前述みたいな強気な台詞が吐けたもんだ。少しばかり反省。


「えーっと、ちょっと待ってもらえます? 教科書出すんで」


 後藤に向けて慇懃無礼にそう言うとクラスに少し笑いが満ち、中年教師の脂ぎった顔に青筋が浮かんだのが見えた。


 進級してクラスが変わっても、二ヶ月経てばこのぐらいの地位には着けられるものだ。


―――楽勝だな。色々と。


 ごそごそと机の引き出しの中を漁りながら、そんなことを取り留め無く思った。


 そんな物思いに耽けること時間があるのも、机の中に全教科のテキストが詰め込んであるためである。


 より簡潔に言えば、探すのに時間がかかったということ。


「えぇっと…ありました。三二ページですよね? この文結構長いですけど、全部訳せばいいんすか?」


 馬鹿丁寧な――だけど、少し小馬鹿にしたようなニュアンスを分り易く含んだ質問に、愚人の大人は醜い笑みを浮かべて応答した。


「そうだなぁ…少し長くて難しいがやってもらおうか」

「わかりました」と即答。


 それからのろのろと起立し、順にきちんと訳してやった。

 これで満足ですか? センセイ?

 後藤の笑みは既に崩れ、引き攣っている。


 彼とは対照的にオレの口角が上がったことに気付いた人間はそうはいないはずだ。そう見えるよう


 眉間のあたりを細かく痙攣させながらも平静を装っているつもりの後藤が着席を促したので、素直に素早くそれに従う。


 席に着き一息つこうとしたところで、隣の席の女子がこそりと話しかけてきた。


「ねぇねぇ、スゴイね斑目君。あんな長くてめんどくさそうな英文をあっさり訳しちゃうなんて…相変わらずアタマいいねぇ」


 薄く茶色を帯びた綺麗な髪を手で軽く掻き上げているこの娘は『笹塚絵理』。クラス内は愚か、学年でも多分トップクラスに可愛いと評判の女子。


 加えて、偏差値若干高めのこの高校でも成績上位層。つまりは完璧超人である。

 更に備考だが、この年頃の女の子にしては裏表の差が小さいというか等身大な感じの性格ときてる。


 つまり天からニ物も三物も与えられた才色兼備の少女。

 今日もふんわりとした髪が可愛い―――ちなみにこの分析は個人の独断と偏見と少しの異能によって構成されているので、実際の彼女の性質とは異なる場合がありますので御了承下さい。


 役を終えた教科書を引き出しの中に仕舞いながら、自慢気にならないよう努めてギリギリだった感じを演出し、こちらを見つめる彼女に応対及び弁明する。


「いや、今回はたまたまだよ。ネットで同じ英文を見つけてさ。そのページに日本語訳があったから教科書に写しといたんだ」


 まあ予想は付くだろうが、オレの発した言葉はひとつ残らず嘘だ。


 この授業は―――いや、これを含め学校の授業全ては、そんな手間暇を掛ける価値があるものだとは思えない。あの英文は後藤に教科書を開かされて初めて見た。


 しかし、そのレスポンスは日頃の鍛錬と言えなくもない。


「へぇ~。アタマいい人はそんな勉強法なんだぁ~。やっぱり斑目君と喋っていると勉強になるなぁ」


 そう言って彼女は天真爛漫といった口調と面持ちでオレを持ち上げる。彼女はいつもこうだ。こんな可愛い娘に褒められたりすれば一人の男子高校生として悪い気はしないけれど、過度な持ち上げられ方にはもう懲りた。


「『頭いい』って笹塚さんに言われてもなぁ。別に嫌味って訳ではないんだろうけど、オレはそう感じちゃうよ? だって、テストの点で笹塚さんに勝ったことないだろ?」


 厳密に精密に彼女とテストの点で競い合ったことはないが、多分オレのほうが圧倒的に上って訳でもないだろう。

 圧倒的に下の場合はあるかもしれないがその逆は有り得ない。オレはその辺の位置について敏感だ。


「う~ん。そうかなぁ…って私別に嫌味を言おうとしたわけじゃないよ? でも君が不快に思ったり、気に触ったなら謝ります。ごめんね」


 可愛く両の掌を顔の前でくっつけ、オレに頭を軽く下げる。


 こういう所が彼女の人気の秘密なんだろうなと冷静に分析。

 素直というか、実直というか……あっけらかんとした爽やかさみたいなものが彼女にはある。


 それは、オレにはないもの。僕が過去に失ってしまったもの。


 そして、それらの言葉が嘘ではないことがオレには解る。その行動が本心からの優しさに起因するものだと理解できる。否、


「こっちこそゴメンな。笹塚さんに頭を下げさせたなんて他人に知られたら、オレは確実にボコられるよ? クラス中、いや学年中の男子から袋叩きに合うよ?」


 他愛のない日常の一幕、舞台に立つ役者の感情の篭っていない笑顔。

 我ながら、それが薄っぺら過ぎて笑える。とんだ大根役者だね。ブロードウェイにはきっと立てない。


 自嘲に気付いた様子もなく、笹塚さんは言葉を重ねる。自分とは違う、正しく爛漫といった笑顔で。


「何よそれ~。斑目君ってクールで大人な感じなのに、結構冗談が変わってるよね。ん?それとも大人だから感性が違うのかな? ん?」


 やっぱり天然なのかもな。


 正真正銘、偽らざる本音だっていうのに。彼女に熱狂的な信者がいたって、それは不思議じゃない。


 そして、こう授業中にも関わらず、楽しそうに談笑しているオレがそいつらの癇に障ったっておかしくない。

 事実、複数の男子から妬みと羨望の入り交じった視線を感じる気がするような気もしなくもない。


 加えて、斑目司という人間が少なからず注目を集めることは自覚している。

 平均以上の長身に金色の髪。クソみたいな同調を好む日本人には好まれない感じの人間性。ただでさえ目を付けられやすいのだ。


 ならば余計な火種は生まないことが吉だ。それは解っている。

 しかし抑えられない好奇心もある。一人の高校男子として少しの悪戯ぐらいはさせてもらおうかという欲望が。


「クールでも大人でもないよ。ただ引っ込み思案なだけの高校生ってのが、オレのキャラ。それより笹塚さん……」

「え? 何?」


 耳を貸してと彼女を促すと、彼女は再び髪を掻き上げてその形の良い、ピアスの穴もない耳が顕になる。オレとは大違いの綺麗な耳だね。いや、別にオレの耳が別に汚いって訳では無いと信じたいけれど、比喩的な意味で。

 髪からほのかに香る甘い香りに少しばかりドキリとしたが、欲望を理性で抑えて耳に口を近づける。吐息のかかる距離。


 さぁ見てろよ、笹塚ファンの童貞共…つってね。


「後藤が、こっちを、スゲー見てる」


 息を吹きかけながら、そんなことを伝える。


 内容は何でも良かった。どうでも良かった。ただ、後藤がたまたまこっちを向きそうだった。そんな他愛のないこと。彼女の耳に低い声で囁いて、吐息をあてることが出来れば良かったんだ。


 案の定、彼女は小さな声を漏らして肩をビクンと震わせる。それは想像以上に耽美で、いつもの彼女にはその存在を感じさせようもない、乱れた背徳的な色気を孕んだ声だった。美しいものについた傷で価値が薄れるどころか、かえってその魅力を増すような背徳の芸術。ぶっちゃけかなりときめいた。


「ま…斑目く、ん。何す…るの?」


 軽い涙目で隣席の加害者を見つめるお姫様への返答は、頬を緩めてのそれはそれは爽やかな(尚且つ胡散臭い)笑顔であるように見せることができたと思う。


「もう…斑目君、そんな風に女の子を手玉に取ってばかりいると、『殴り男』に殴られちゃうよ? 昨日も出たらしいし…」

「そんな訳ないよ。『殴り男』に殴られるのは、チャラくて女癖の悪いヤツらだろ? オレには当てはまらないよ。事実オレにそんなウワサは立ってないっしょ?」



『殴り男』―――それは最近ウチの高校で流行っている都市伝説みたいなものだ。

 都市伝説とは言っても根も葉も無ければ罪もない類の妄言ではなく、実際に被害が出ている。


 被害者は全員ウチの高校の一コ上の男子、それも女性関係にあまりいい噂のない先輩達が五、六人。帰宅時にバットみたいな鈍器でボコボコにされていた。


 哀れな被害者達の証言によると、襲ってきたのはロマンスグレーという言葉がしっくり来る壮年男性だったり、或いは小さな女の子だったり、髪の長い女性だったりと纏まりがないらしい。


 それで呼び方に困って、最初の被害者の証言を採用したら、その犯人は『殴り男』なんて安直で恥ずかしい、男女参画社会において問題になりそうな気もする名前をつけられたわけらしい。


 個人的は、なんかこういう発想って男女差別じゃね?と思わなくもないんだけどな。


 生物学的には男性女性の比率ってほぼ同等なのに、悪いことは全部男性のせいというのは如何なものかと思うよ。本当個人的には。


 オレの高尚かつ社会的問題に対する思考が漏れたはずはなく、単純な事実として顔をほんのり朱色に染めた笹塚さんは仕返しとばかりに悪戯な笑みを零しながら、オレの人間性を朗らかに否定する。


「わかんないよぉ~? クラスの女子の意見を総括すると、斑目君には年上のキレイ系彼女が二、三人いるという結論に至ってさ。いっつも付けてるその高そうな指輪もお姉様からのプレゼントだと踏んでいるんだけど…どう? 当たってる?」


 真っ直ぐに最悪な内容の質問をぶつけられた。


 どうやら、クラス内女子の意見に関しては間違いないらしい。

 全くもう、最悪だ。全然上手くやれていない。僕は何も変わってない。

 もっと上手く生きられたら。もっと社会に疑問無く溶け込めたら―――


 なんてね、自己嫌悪ばかりもしていられないので、とりあえず真実を教えておくことにする。些か過剰に肩をすくめて両手を開く。


「当たるも何も、悪いけど、全部出鱈目だよ。このリングは叔母さんからの入学祝いだし、大体彼女なんて産まれてこの方一度も出来たことないよ」

「え? 本当? あんなに告られてるのに?」


 彼女は心底びっくりしたような顔をした後、何かをゴニョゴニョと呟きながら俯いた。


 この反応は…もしかして……


 俯いた彼女とは対照的に、オレは背もたれに思い切り身体を預けて天を仰いだ。

 仰いだところで見えるのは汚い天井ぐらいだけどそれでも構わなかった。


 そして、何の気無しに誰にも聞こえないように小さな声で呟いた。


「もうやめてくれよ…そういうの……ほんとに、コリゴリなんだ…」


 零した小さな後悔は、後藤の大きな声が鳴り響く教室の空気の中に誰にもその存在を知られること無く、瞬く間に溶けていった。

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