#13:夏、君のための夏

 かつて人々は大きな惑星に住んでいた。太陽によって熱を得て、風によって涼を得て、雨によって水を得た。

 しかしその惑星は凍り付いてしまった。何処からともなく現れた大量のエイリアンの死骸が、太陽と惑星を遮ってしまった。海は凍り付き、野は荒れて、人々は親兄弟の凍死体を踏み散らして地下のシェルターに逃げ込んだ。

 やがて大きな宇宙船が生き残った人々を乗せて新しい惑星へと旅立った。

 それが二百年前のことで、もうその惑星のことを知っている者はいない。だがその時代の文献は、少ないながらも残っていた。


「クルエ」


 思春期の少女にしては落ち着いた声音で呼び止められて、クルエ・リズは立ち止まる。

 コートリア惑星群、第五惑星ベリルは教育機関の集まる星であり、全惑星の中でも最高水準の頭脳が集結する宇宙機構大学の時計塔がシンボルとしてそびえ立っている。クルエが歩いていたのは大学の敷地内にある広場で、周りには大学生たちがそれぞれ歓談をしていた。しかし彼を呼んだのは、大学生ではない。彼と同じ附属高等学校の二年生だった。


「ミーズラン?」


 声から導き出された名前を呟いてあたりを見回すと、視界の下から手が突き出された。目の前にある植え込みの向こう側、ベンチに寝そべったまま手を上げている少女は、覗き込んだ彼に対して「はぁい」と気の抜けた声を出す。


「何してるんだよ。大学に用事なんかないだろ」

「そっちこそ何してるの?」

「俺は、その、新しい論文が出たから……」


 そう答えれば、ショウレ・ミーズランはベンチから立ち上がり溜息をついた。


「あー、やだやだ。クルエもレーちゃんも何が楽しくて論文なんか読むんだか」


 痩せた肢体に、手入れもさほどしていない長く赤い髪。少し毛羽立った毛先のせいで髪そのものが燃えているような錯覚を与える。


「あたしにはさっぱり理解出来ない」

「面白いんだけどな」


 宇宙機構大学附属高等学校は、高等学校としては最も優れた偏差値を有している。

従ってショウレもそれなりの頭脳を有しているはずだが、何かと勉強という分野から逃げ回っている。


「はいはい、学年一位の「面白い」はどうせあたしには理解出来ません」

「別にミーズランは…」


 頭が悪いわけではない。そう言いかけたクルエは、なんとなく口ごもった。

 文武両道、癖のない黒髪に切れ長の目をしたクールな外見のクルエは同世代の女子に人気がある。定期試験の結果が張り出される度に、彼の周りは女子たちの黄色い声と、男子達の羨望と嫉妬の眼差しに満たされる。

 だがショウレはその輪の中にいながらも、いつも数秒でクルエから興味を失ってしまう。「へー、一位なんだすごいすごい。おなかすいた」くらいの軽さでもって、彼女はその輪の中にいる。

 少々変わり者の彼女を、クルエはついつい目で追ってしまう癖があって、しかしその正体を自分で認めることも考えることも出来ない年齢だった。


「ところで、そんな頭の良いクルエに聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「夏って知ってる?」

「………今、夏じゃん」


 現在の暦は八月。カレンダーを見ればしっかりと「夏」と記されている。しかしショウレは首を左右に振った。


「そうじゃなくて、夏ってどういうものか知ってる?」

「………えーっと」

「旧星の夏が知りたいの」


 あぁ、とクルエは合点がいった。

 コートリア惑星群は複数の小惑星がエアレールで連結されている。そして「外殻」と呼ばれる巨大な球形の殻で囲まれており、それがすべての惑星の温度や湿度をコントロールしている。そのため、コートリアは一年中人々が暮らしやすい気温に保たれ、天候なども存在しない。外殻に表示された青空と太陽だけが人々にとっての空である。


「ほら、これ見てよ」


 ショウレが差し出したのは、「オレゴン」と呼ばれる電子書籍だった。そこに表示されている文字列を目で追って、クルエは首を傾げる。


「なにこれ。短歌?」

「そう。夏の恋短歌って題名で、旧星時代に詠まれた短歌が収められてるんだけど」

「恋」


 クルエはその単語に少し動揺するが、ショウレは構わずに進める。


「この短歌が良い物ですって、解説には書かれてるんだけど何がいいのかさっぱりわからないの」

「花火のことについて書かれてるんじゃないの?」

「そのぐらいわかる。問題はなんでこれが夏の短歌かってこと。調べたら昔は基本的に夏にしか花火を打ち上げなくて、花火は夏の風物詩だったんだって」

「そうらしいね」


 クルエも旧星の文献でその程度のことは知っているが、なぜ彼女が必死の形相でそんなことを言うのかがわからない。その疑問を口にしようとした刹那、鼻先が触れる位置に突然相手の顔が割り込んだ。


「うぇ……!?」


 一歩間合いに踏み込んだショウレは、眉間にしわを寄せて難しい表情のまま口を開く。


「あのね、夏の新作を考えようとして古い短歌を読んでたの」

「あ、はい」

「夏がわからないんだったら、読んだって意味ないじゃない」

「皆わからないからいいんじゃないの……?」

「よくない」


 至近距離のショウレの肌から、ほのかに甘い匂いが漂う。勉強嫌いで周りへの関心が薄い彼女は、飴細工の職人だった。実家はミヤビで「ミーズラン商店」という飴屋を営んでいる。クルエは見たことがないが、かなり緻密な作品を作るらしい。

 手先が器用なことは芸術の授業で嫌というほど見せつけられていたから想像はつくものの、ここまで真摯な表情のショウレは初めて見た。


「あたしはこの歌で飴を作りたいの。そのためには旧星時代の夏を理解しなきゃいけないんだから」

「そういうもんなのか……?」


 こうと決めたら梃子でも動かないショウレの真っ直ぐな視線に、クルエは思わず口ごもる。それが自分ではなく、まだ見ぬ飴と知らぬ夏へ向けられているとわかっていても、思春期の少年には刺激が強い。


「あんた頭いいんだから一緒に考えてよ」

「なんで俺が……」

「どうせ暇でしょ。試験終わったし」

「まぁ暇は暇だけど……俺、ミーズランの飴作りに付き合う趣味はないよ」


 そうは言ったものの、クルエも「夏」とやらには興味があった。勉強熱心な少年は、自分が知らない分野があることを嫌う。そこにほんの少しの下心、例えば普段自分に無関心な少女に頼られるという優越感が欲しい気持ちがあったとしても。


「えー、ダメ?」

「……飴作ってくれるなら」


 安い駄賃で、クルエはその願いに応じることにした。





 軽い気持ちで引き受けた調べものは、しかし即座に暗礁に乗り上げた。

 古い文献には夏に関する記述がいくつも載っている。ショウレの言う夏が旧星の極東にあった島国の夏のことだということは、あの歌を調べた時にわかった。そもそも地域によって夏に差異があることすら想定外だった。数学の数式のように、夏というのはこういうものです、としっかり定義されていると思い込んでいたクルエはまずそこで衝撃を受けた。

 夏は暑くて湿気があるとのことで、試しに風呂場の浴槽に湯を溜めてみたが、気持ちよさそうな風呂の準備ができただけだった。しかもそのあと読んだ別の文献には「夏場に行く銭湯は最高」みたいな記述があって、クルエを混乱させた。風呂場みたいな場所から風呂屋に行くとは、当時の人は何を考えていたのだろうと頭を抱えた。

 次に夏というものは暑いので、様々な手段で涼を取ると書かれていた。冷たいものを食べたり飲んだりして夏の暑さを打ち払うことを「暑気払い」というらしい。なので風呂場で冷えたソーダ水を飲んでみたが、全くもって暑さは払えなかった。そしてそれも「特に真夏のビアガーデンで飲む酒こそが暑気払いの代名詞」という文を見て、思わずソーダ水を零してしまった。

 暑いなら室内で冷房を利かせていれば良いのに、なぜわざわざ野外で酒を飲むのか。第一未成年のクルエには、野外で飲む酒云々は理解出来ない。意味不明な夏に悲鳴を上げそうになるのを何とかこらえ、文献を読み進める。

 今度は夏祭りの記述が出てきて、少し安心する。夏祭りは知っている。第八惑星「ミヤビ」で夏の時期に行われる鎮魂祭。先祖の霊が戻ってくることを子孫たちが踊りや歌で出迎えるものであり、浴衣と呼ばれる衣装に身を包んで櫓の周りを囲んで踊る。

 これなら理解出来そうだと思ったクルエだったが、関連項目として提示された「肝試し」なる夏の風物詩を調べて、今度こそ悲鳴を上げた。幽霊をわざわざ見に行って怖がって、それで涼しくなろうとか旧星の人は揃いも揃って頭の中に裂けるチーズでも生息させていたのかと疑いたくなる。

 風呂場で頭を抱えて蹲っていたクルエの思考は、しかし頭の上から振ってきた声に救済された。


「何をしているんだ?」

「………」

「私はお前を風呂場でソーダ水片手に泣きわめく子に育てた覚えはないぞ」


 漆黒の長い髪と、幼さすら感じられる小さな顔。黒いワンピースに身を包んで、その上から白衣を羽織った女は呆れ顔だった。

 見た目は二十代後半であるが、クルエが知っている限り彼女の容姿が老いたことはない。


「アキホ」

「試験の成績でも悪かったのか?」

「お願い、助けて。夏が怖い」

「はぁ?」


 呆れ顔が更に歪んだのを見ながら、ついにクルエは一筋の涙を零した。





 クルエには両親はいない。何故いないのかはわからない。物心ついた時には、アキホ・F・フェリノルダが彼の親だった。

 コートリア惑星群において、アキホの名前は大きな意味を持っている。天才科学者として多様な理論を生み出し、それは形を変えながらも惑星の発展に貢献している。多くの優秀な教え子を持ちながら、自身の城であるラボ・フェリノルダには他人を入れようとしない。アキホの名前を知らない者はおらず、そして彼女に命令出来る者も存在しない。

 しかしクルエだけは彼女に我儘を言う権利があった。


「そういうことか」


 暑苦しいからと風呂場から出されたクルエは、今は部屋に置かれたソファーに座っていた。アキホは立ったまま話を聞いていたが、やがてクルエの話が終わると納得したように頷いた。


「お前は随分と彼女にご執心なんだな」

「そんなんじゃないって」

「まぁひと夏の甘酸っぱい恋というのも学生には必要なことだ」

「だから違う!」


 必死に否定するクルエを、アキホは薬品焼けした手を口元に当てて笑う。


「しかし、風呂場で夏を体感しようとするとは」

「だってわからなかったから」

「夏というのは、そう難しくとらえるものじゃない。暑くてジメジメしていて、それでいて楽しいのが夏だ」

「アキホは夏を知ってるの?」

「夏と言えば暑気払いだ」


 アキホはクルエの恋心を笑った表情のままで、答えになっていないことを言った。


「あぁ、あのいみわかんないやつ」

「大丈夫か、片言になってるぞ。暑気払いと言えば西瓜だな」

「西瓜?」

「緑色で赤い、知っているだろう」

「知ってるけど、あれって夏の食べ物なの?」

「そうだ。あれに塩をかけて、夕暮れ時に縁側に腰を下ろし、貪りつく」

「なんで夕方?」

「夕方になれば少し暑さが和らぐからな」

「そういうものなの?」

「そういうものだ。太陽が沈むから」


 クルエは少し考え込んでから、もう何度言ったかわからない言葉を相手に投げかけた。


「アキホはなんでそんなこと知ってるの?」


 その答えを得たことはない。いつも曖昧な表情で誤魔化される。

 アキホは色々な知識を持ち、そしてこの世界の謎を紐解く存在であるが、誰も彼女の謎を紐解けない。

 アキホの名前が二百年前からある理由も、アキホの容姿が何十年も変わらない原因も、アキホの実の娘が何処にいるのかも、彼女以外にはわからない。


「ショウレ・ミーズランは生粋の職人肌だからな。派手で華美なものよりは確実性があって美しいものを好むだろう」

「え、ミーズランのこと知ってるの?」

「エスペラードの祭りで見た。飴細工も貰った」


 自分以外のことについてはあっさりと答えるアキホに、クルエは少し歯がゆい思いをする。


「お前を見ていると、かつて旦那とデオキシアデノシン一リン酸を突きながら愛を語らった日々を思い出す」

「核酸いじりながら愛を語らないで」

「夏を楽しみたいならとっておきの方法がある。暑気払いの素晴らしさを未成年に教えるのも癪だが、可愛いクルエのために一肌脱ごうじゃないか」

「本当?」


 但し、とアキホは人差し指をクルエに突き付けた。


「夏風邪をひくなよ」





 クルエは演劇サークルに所属している。なのでそれなりに度胸もあるつもりだったが、ショウレを誘い出すのに使った度胸は、初めて舞台にあがったそれとは雲泥の差だった。

 折角決死の覚悟で「夏を体験させてあげるから、明日此処に来て」と言ったのに、ショウレの返事は両手でサムズアップして「オッケー」だけだった。世の中不公平だと思いながら、クルエは肌に浮かんだ汗を拭う。

 特に激しい運動をしているわけでもないのに汗が出る感覚は、クルエにとって初めての経験だった。周囲を見回せば、芝生に笹に竹。足元には大きな盥に水が張られて、西瓜が浮かんでいる。上を見れば、満天の星空だがそれはこの施設の天井に投影機を向けたからに他ならない。

 ミヤビ以外では見かけることの少ない木で出来た長椅子は、アキホが何処からか調達したものである。否、椅子だけではなくこの施設そのものもアキホが借りてきたものだった。

 第四惑星リディーグは、バイオトープ用の惑星である。小さなものでは数メートル四方、大きなものでは数キロメートル四方に及ぶ建物が点在しており、それぞれの中では各企業や研究機関などの要請によって管理士が様々な条件を作り出して植物や生物を育てている。

 一週間前、アキホはバイオトープを通信一本で借りて、腕の良い管理士に頼み込んでこの景色を作り上げた。ラボ・フェリノルダの名は伊達ではない。

 気温は三十四度、湿度は八十パーセント。肌には湿気がまとわりつき、偶に発生する熱気が不快指数を上げる。

 これが夏だと嬉しそうに提示したアキホの傍らで、クルエが失望したのは言うまでもない。こんなものの何が楽しいのかと問えば、アキホは時折見せる母性の混じった笑顔で「楽しくするのはお前の仕事だ」と言い切った。


「女を遊園地や水族館に連れて行きさえすれば、後は放っておいても大丈夫と思っているなら、お前は人間について学んだほうがいいぞ。場所は場所でしかない。相手を如何に楽しませるのかが逢瀬の醍醐味だ」

「はぁ?」

「ショウレ・ミーズランがこれを楽しい夏だと思うかどうかはお前にかかっているということだ」

「だ、か、ら!アキホ何か勘違いしてるだろ。ミーズランはただ夏を知りたいってだけで……」

「じゃあやめるか」

「………やる、けど」


 そう言ったのが一昨日。単にここまでお膳立てしてくれたアキホに申し訳ないからであって、それ以上の意味なんてない。クルエはそう自分に言い訳しながら、動きにくい浴衣の裾についた汚れを払った。


「どうせあいつが興味あるのは夏だけなんだし」

「何ぶつぶつ言ってんの」


 不意に後ろから話しかけられてクルエは総毛立つ。


「またお得意の幾何学でも呟いてるわけ?」


 呆れたような物言いに言い返そうとして振り返ったクルエは、次の瞬間にはその状態のまま固まってしまった。

 上品な紺色に枝垂れ花火の模様を虹色で描いたシンプルな生地。それを引き締める真っ白な帯。髪を高く結い上げたショウレがそこにいた。


「………」

「どう?お祖母ちゃんの御下がりなんだけど。丈がちょっと短いけど、これでも直したんだ。結構いいでしょ」

「いい生地だと思う」

「あんたいつから布問屋になったの。ねぇ、これが旧星の夏?」


 建物の中を見回すショウレの目は好奇心に満ちている。虹色の花火を目に宿したかのような煌きに、クルエは思わずぶっきらぼうな返答をする。


「らしいよ」

「すごい!ジメジメするし暑いし、草の匂いでいっぱいだし!最高!」

「え、最高?」


 ショウレの並べ立てた感想は、どう聞いても文句のようにしか聞こえなかったので、クルエは聞き返してしまった。


「だってこんなの初めてだもの。セントラルカのことわざにもあるじゃない。「風景を描きたくば家を出よ」って。やっぱり体験しないとわからないもんね」


 長椅子に腰を下ろしたショウレは、兎に角嬉しそうだった。徹底的に感覚が違うのであろうことを意識しつつ、クルエは口を開く。


「旧星の極東の国の夏を再現したものらしい。暑い夏に外の風を感じて、冷たいものを飲んだり食べたりして暑気払いをするのが醍醐味なんだって」

「だから西瓜があるの?」


 水に浮かぶ緑と黒の球体を指さす少女の目に、クルエは映っていない。


「うん。西瓜は夏の食べ物らしいよ」

「ふーん」


 ショウレは椅子の上で身体を屈めて、西瓜に手を伸ばした。


「ところで、どうやってこんなの用意したの?」

「え、あ、その……」


 アキホが育ての親であることを、クルエは隠していた。無論それはアキホの指示であったが、その理由はクルエが悪意ある人間に利用されないためであり、信頼している者には話してもかまわないと言われている。

 ショウレには話しても構わないと思う反面、クルエはこれ以上彼女の興味が自分以外に向くことが不愉快だった。


「親の仕事の関係で、丁度ここで実験していたから」

「それで借りれたの?」

「うん。実験が終わって、明日には解体しちゃうから良いって」

「へぇ、ラッキーじゃん」


 西瓜食べよう、とショウレは水の中から球体を持ち上げる。浴衣の袖がその拍子に濡れて、そこだけ濃い色を帯びた。


「濡れるよ」

「いいの、いいの」


 西瓜を二人の間に置いたショウレは、濡れた袖をまくり上げる。


「包丁」

「え、俺が切るよ」

「切れるの?切ったことある?」


 固いよ、と釘を刺されればクルエは黙って包丁を差し出した。

 勉強は兎に角として、こういうことはショウレの方に軍配が上がる。上がった軍配を下ろせば脳天に突き刺さるだけだとクルエは理解していた。

 捲った袖、大きな西瓜、無骨な包丁。浴衣を着た少女に不釣り合いのようなそれは、妙にバランスが取れている。手際よく西瓜を切り分けたショウレは、一つを手に取りクルエに差し出した。


「はい、一番おいしそうなのあげる」

「いいの?」

「だって準備時間かかったでしょ」


 その笑顔と西瓜が間違いなく自分だけに向けられていることを確信したクルエは、舞い上がりそうな気持を抑えながら西瓜を受け取った。

 勉強は出来るが男女の機微はさっぱりな少年は、「一番おいしそうなの」が自分の手にあって、「一番おいしいの」が彼女の手にあることは気付かない。

 揃って西瓜に食いついた二人は、その仄かな甘みに頬を緩ませた。


「ねぇ、これ本当に熱気払えてる?」

「さぁ。こういうのは気分的なものなんだってさ」

「そっか。でもこういうの悪くないね」


 ショウレは笑いながら手についた西瓜の果汁を吸い上げる。


「いつもは何食べても何を着ても、そういう気分ってだけだけどさ。今はちゃんと理由があるから」

「理由?」

「いつも浴衣って動きにくいとしか思ってなかったけど、夏に着るにはちょうどいい。西瓜だって他の果物に比べていまいち味気がないと思ってたけど、この暑さの中食べると美味しいし」

「確かにいつもより美味しいかも」

「星だって、普段は夜か昼か判断するだけのものだけど、この環境だと風情がある」


 風情だの情緒だのは、クルエは専門外なのでわからない。今だって、暑ければ空調を整えてアイスクリームでも食べたほうが良いと思っている。だが傍らで楽しそうに西瓜を食べている少女に、そんなことを言えるわけがない。賢い少年は賢く口を閉ざす。


「でもこれって多分一人だと楽しくないんじゃないかな。一人で西瓜切って一人で星見ても、それは暑気払いじゃなくてただの日常」

「どういう意味?」

「だから、誰かと一緒に楽しく夏を乗り越えるための手段なのよ、「暑気払い」は」


 読み漁った文献の中にも、似たような記述があったことをクルエは思い出す。


「でね、一緒に楽しめる人がいるってことは楽しまないと損ってこと」


 いつもよりテンションの高い声を維持しながら、ショウレは何処に隠し持っていたのか、花火を取り出した。ミヤビの祭りで売り出される手持ち花火、その中でも一等地味な線香花火だった。


「いや、もっと派手なのなかったのかよ」

「えー、だってこういうところに来ると思わなかったし、花火出来ない場所だったら悲しいじゃない。荷物も増えるし」


 どうやらロマンより利便性を重んじる傾向にあるショウレは、花火を丁寧に二等分してクルエに渡した。


「夏は楽しまないと。ね?」

「………そう、だね」


 ジメジメしていて暑苦しくて、草の匂いも土の匂いも気に入らない。絶対に一人だったら、こんな場所にこない。


「ミーズラン、楽しい?」

「超楽しい!」


 それでも楽しんでいる人がいるのだったら、こんな状況も悪くないかとクルエはひっそりと笑った。






「そういえば夏風邪ってのがあるんだって」

「夏風邪?」

「汗かいたままにしておくと引くらしい。で、そういうことをする奴は馬鹿だから「夏風邪は馬鹿が引く」って言うんだって」

「えー、あたし絶対引きたくない。引いたら馬鹿にしそうなやつが目の前にいるし」

「馬鹿にはしないけど、半年ぐらいネタにはするかな」

「それは馬鹿にしてるって言うの!」


 抗議するように声を張り上げたショウレの手元から、線香花火の火種が落ちる。


「はい、俺の勝ちー。西瓜貰うね」

「諮ったな」

「何のことかわかりませーん」

「ちょっと!」


 燃え尽きた線香花火を片手に、立ち上がったショウレの浴衣が揺れる。虹色の枝垂れ花火が翻るのを見ながら、クルエはショウレが見せたあの短歌を思い出していた。


青玉の しだれ花火のちりかかり 消ゆる途上を 君よいそがむ(北原白秋)


ー終ー

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