第2話 同じ月を見ていた
上海に住んでいたのはもう10年以上も前のこと。
その頃の上海は、まだ古い風景が街のあちこちに残り、狭い通りから空を見上げると洗濯物がまるで万国旗のように物干しざおに並んで空を埋め尽くす、なんとなく陽気で懐かしい匂いがする街だった。
僕は、
その頃の僕は、日本で自分の将来に行き詰まり、何か新しい自分を探そうと取りあえず上海を訪れたものの、中国語もまともに喋れない自分にやはり行き詰まり、言いようのない不安に押しつぶされそうになっていた。
そんなある日、仕事から帰っていつものようにパソコンをつけてインターネットをしていると、見知らぬ人から突然メッセンジャーでメッセージが入ってきた。
---月がきれいですよ。
(え?・・・)
僕は驚いて、一瞬何が起こったのかよくわからなかった。
---そこから月が見えますか?
僕は、窓を開けてビルの隙間から紺色の空を見上げてみた。そこには、大きな満月がポカンと浮かんでいるのが見えた。
---見えます!大きい月です!
僕がそう書くと、その人は笑顔マークをひとつ送ってくれた。
---わたしたちは、今、同じ月を見ています。
それは不思議な感覚だった。
見ず知らずの人とまったく違う場所にいながら、同じ時間に同じ月を見ているという事実が、何となくとても神秘的な出来事のように思えてきた。
---あなたは、今、どこから月を見ているんですか?
---上海です。
それが、僕と
僕たちは、その日を境に、毎日のようにメッセンジャーでチャットして、好きな音楽や映画の話、そして将来の夢について語り合った。
僕は、
やがて彼女は東京大学に留学することになり、日本人の僕が上海にいて、上海人の彼女が東京にいると言う、少し不思議な関係になっていた。
日本に行ったばかりの頃は、毎日の生活に興奮し、その日起こった出来事をとても楽しそうに報告をしてくれたけど、時が過ぎるにつれ少しずつ連絡も少なくなり、僕たちは、世の中の多くのネット友だちがそうであるように自然に "元の他人" に戻って行った。
---2008年、アメリカ発金融危機。
リーマンブラザーズの破たんをきっかけとした金融危機は全世界を大混乱に陥れ、僕の働いていた会社もとんでもない状態になってしまい、僕は上海に住み続けることができなくなってしまった。
仕方なく僕は逃げるように日本に戻り、先が見えない未来になんとなく落ち込む日々が続いていた。
僕は、なんとなく彼女のことを思い出し、メールで日本に帰ってきたことを伝え、「日本で何か困ったことがあれば遠慮せずに電話をください」と入れておいた。
---それから数年後
満月がぽっかり浮かんでいるある秋の夜、僕は横浜の桜木町駅のコーヒーショップでコーヒーを飲んでいた。
真正面に大きな観覧車、そして左側に横浜ランドマークタワーが空に向かってそびえ立ち、そのちょうど真ん中あたりに満月がポッカリと浮かんで紺色の空を明るく染めている。
僕は、変わり映えのしない日本での生活に退屈し、これからどんな風に生きていこうかと満月の空を眺めながらボーっとそんなことを考えていた。
そんな時、見知らぬ番号でショートメッセージが届いた。
---月がきれいだよ
僕は驚いて、あわててメッセージを返した。
---
---圭?
---そうだよ!オレだよ!元気だったの?
---うん・・・
それはまぎれもなく、あの懐かしい
---ひさしぶりだね!
---あの・・・
---ん?
---声・・・聞きたい・・・
(え?・・・)
---あ、いいよ。まってて、電話する。
僕はあわてて電話をかけた。
胸がドキドキしていた・・・
今まで、一度も聞いたことがない
(どんな声なんだろう・・・)
呼び出し音が鳴る間もなく
「もしもし・・・」
「
「うん・・・」
僕は一瞬緊張した後、軽く息を吸い込んでから「初めてだね、声聞くの」と言った。
僕は、その声が少し涙声になってるような気がして少し驚いた。
「どうしたの?」
僕がそう尋ねると彼女は、言葉を選ぶように間をおいた後、
「月、見える?きれいだよ」と、言った。
僕は可笑しくなり、「それを言うためにメッセージくれたの?」と聞くと、彼女も笑いながら「うん」と言った後、また少し涙声になった。
「何かあったの?」
「あのね・・・」
「ん?」
「大学を卒業したらね、上海に戻って来なさいって、お父さんに言われちゃったの・・・」
「え?」
「わたしは日本で仕事がしたいって言ったんだけど、駄目だって・・・」
僕は、何て答えて良いのかわからず黙ってしまった。
「その後口論になって、悲しくて悲しくて・・・」
「そっか・・・」
「それでね、空を見上げたら、月がとってもきれいで、なんか急にね・・・」
「うん」
「圭のことを思い出しちゃったの・・・」
僕は、悲しい時に一番最初に自分のことを思い出してくれたことが嬉しかった。
「離れていてもね、同じ月を見てきれいだねって言いあえる人がいてよかった」
僕は、
「ねえ・・・」
「なあに?」
「・・・
僕は思い切ってそう聞いてみた。
今まで、写真を見たいとか会いたいとか、そういうことを言ってはいけないという自分で作った暗黙のルールに縛られて今日まで来てしまったけど、今の僕はもう、できることなら、東京のどこかでひとりで寂しい思いをしている彼女の元にすぐにでも飛んで行って、話を聞いてあげたいと思った。
「あ、じゃあ、わたしがいるところ、写真で撮って送ってあげる」
「ホント?あ、じゃあ、オレも撮って送るから同時に開こうか?」
「うん!月の写真撮って見せて!わたしも月の写真撮る!」
僕たちはそうして一旦電話を切り、写真を撮って送った。
---観覧車とランドマークタワーの間にポッカリと浮かんだ月の写真。
数秒後、
僕は、彼女がどこにいるのかと少しドキドキしながら写真を開いた。
---あれ?
そこには、観覧車とランドマークタワーの間にポッカリと浮かんだ月の写真があった。
(どうして、オレの写真を送って来たんだろう?)
僕は、
「ははは、
「え?圭の写真こそ届いてないよ」
---え?
僕は一瞬、訳が分からなくなってその写真と空の月を見比べた。
その瞬間、僕は見た。
同じコーヒーショップのテラス席の隅で、僕と同じように月を見上げている女の人の姿を。
---え?まさかね・・・
僕は、恐る恐る彼女に近づき、受話器越しに小さな声で「佳佳カカ?
」とささやいてみた。
するとその人は、耳にあてていたスマホをゆっくりとはずし、驚いた顔をして僕を見た。
「け・い・・・?」
僕たちは、この広い世界で、同じ時間に同じ場所でコーヒーを飲みながら月を見ていたんだ。
---同じ月を見ていた・・・
それは、とても不思議で神秘的な出会いの瞬間だった。
※この物語はフィクションです。
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