第7話 旅立ち
暑気の中を歩いてたどり着いた家は懐かしい造りをしていた。異国の建築様式で建てられた工房は出入り口が一つしかないのに対し、この家の出入り口は土間と縁側の二つがある。今は無い生家と同じ構造で、縁側から招かれた時は気安い声を上げそうになった。
「まあよく来なさった。暑かったでしょう」
そう言ってジョウメイを呼び出した農夫は、小間使いに言って麦湯を出させた。黒褐色の液体の中には氷が浮いていて、ヒムカシの伝統的な家の奥にはしっかり錬金術が根付いていることを伺わせた。
「不躾ですが、錬金術のことをどう思っていらっしゃるのですか」
早くも硝子の器が濡れてきた。その冷たい麦湯に口をつけてからジョウメイは訊いた。
「便利なもんだと考えてますよ。最初は鼻持ちならないと思ってましたが、うまく使えば米を毎日食べられるほどになる。雑穀よりはやっぱり米の方が美味いですからな」
「セキナンカ鼎は鼎令の方針で、錬金術を農業分野に応用することが推奨されています」
「色々言う連中もおりますが、わしは良いことだと思っておりますよ。あんたのところの工房主、キセーさんもなかなかの好人物ですからな」
ヒサガという農夫は、炎天下で焼けた顔を嬉しそうにほころばせた。
麦湯を飲んで喉を潤し、少し落ち着いたところで、ジョウメイはヒサガと共に田圃へ出た。二ヶ月で苗の背は伸び、水鏡を覆い隠すほど田圃を青く染めていた。
その傍らに、真新しい小屋がある。素朴な作りだが重厚な鍵がかけられている。
「厳重ですね」
素直な感想を口にすると、ヒサガは寂しげな横顔を見せた。
「これがないと今の収量を維持できないのに、それをわかってくれないのは悲しいことです。ヒムカシの者たちは、感情と理性を分けた行動ができると思っていたのですが」
扉を開くと同時に濃密な熱気が吐き出される。内部には金属で出来た筒のようなものがぽつねんと立つ。取っ手がつけられていて、上下に動かせるようになっていた。床を突き抜けて地面に埋まっているように見えた。
「ちょうど水の入れ替えの時間ですから、見てみましょう」
ヒサガはそう言って取っ手を勢いよく上げた。直後、水が泡立つ音が聞こえた。
外へ出ると苗の根元で水が動いているのが見え、見る間に嵩を減らしていく。
そうかと思えば、水が上がってきて元の嵩に戻っていく。そこまで数分しかかかっていない。かつての《水上技》と《水落技》と同じ水の動きだった。
「昔は準備も含めて数日がかりでやっていたことが、ほんの短い時間でできるようになりました。人手もほとんど要りません」
「知っていますよ。それがどれだけ画期的なことかも。おかげで我々狩人は、身の振り方を考えなくてはならなくなりましたから」
結局狩りを忘れられずに新天地へ旅立っていった父親や仲間を思い出した。狩人仲間で錬金術に携わっている者は他にいない。未だに野山を、槍やナガサを持って駆け回るか、もっと別の仕事に転身しているかのどちらかだ。
「この揚排水の機械を目の敵にしていたのは、そのせいでしょうか」
ヒサガは再び悲しげな目をして真新しい機械を見つめた。最初この機械を守るのは雨よけだけであったが、揚排水機が壊された上錬金術反対派からヒサガ自身も脅迫を受けたために鍵のかかる小屋を設えることになったのだ。ミクロコスモスの放火事件もあり、新しいものへの拒否反応は侮れないというキセーの助言も、ヒサガの背を押したようだ。
「犯人たちを擁護するわけじゃありませんが、心情は理解できます。俺にも錬金術がなければ良かったと思ったことはあります。子どもの頃の話ですが」
「そういう人が敢然と錬金術の道を選んだのは意味のあることでしょうな」
ジョウメイに視線を転じたヒサガの眼差しは温かかった。彼の受けた脅迫は孤独感をも与えただろうが、それにもめげず食糧生産という暮らしの根幹に錬金術を活かしている。男の勇気はジョウメイにも活力を与えた。
小屋に鍵をかけてヒサガの家へ戻る。縁側で機械の保守整備の方針を話して用事は終わる。別れ際に彼は、ミクロコスモスのことを訊いてきた。
「理解が目的だというのなら、儂らも応援したいものです。それは樹を植えるということでしょう。夏の日差しから人を守る木陰を作り、その人が長い時間を紡いでいく。あなた方のすることは、樹を植えて人を育てるに等しいことなのだと思います」
「錬金術を志した者として、それは応えなければならない期待だと思います。錬金術の使い手はきっと、これから先もヒムカシを盛り立てていくはずですから」
何か大きなものを託されたような気がした。抱えて道を歩くには難渋しそうだが、風に吹かれても負けない足腰の強さが手に入る気がした。
その日は時間が来ると間を置かずに作業を終えた。イヨックがまだ隣にいる。その横で後片付けをしていると、
「早いじゃねえか。女か」
などと茶化された。
「まあな」
イヨックの追及を避けるようにジョウメイは作業室を素早く立ち去った。道沿いに並ぶ灯をたどっていく。十年前には見なかったそれは、硝子の奥に《フォス》の第一質量を利用した燃料が燃えている。
一つ一つが提灯以上の明るさを誇っているおかげで闇はかなり薄らいだ。代わりに星が見えにくくなって方角は掴みにくくなったが、充実した案内表示が補ってくれる。
待ち合わせ場所まで距離があって、その相手は上目遣いに不満の色を混ぜてきた。
「遅い」
スズシは子どもの頃からのお気に入りらしい生絹地に身を包んでいた。水色は街灯の下でもよく映える。
「仕事が多かったんだ」
つい言い訳じみたことを言ってしまったが、
「あたしだって同じだよ」
スズシに一蹴されて返す言葉を失う。それで会話の主導権を握られてしまった気がする。二歳の差は伊達ではないのかもしれないと思っていると、どこへ行くの、と彼女はあっさり導きを任せてきた。
「明日が休みならオノニ村に行っても良かったが」
「一晩で行くには遠いよ。とりあえず何か食べに行く?」
スズシの言葉に頷いて、キセーやイヨック、トオリなどと入ったことがある店を挙げたが、どれもエボロスをはじめとする外国の料理を提供する店で、スズシは未知の部分が多い味に尻込みしたようだった。
「だったら食べ慣れてきたものにするか」
それはジョウメイにとっても悪くない選択であった。スズシは笑みを浮かべて頷く。店の選択は任せるつもりのようで何も言ってこなかった。
異国を訪れたエボロスの人を相手にするつもりなのか、昔ながらの料理を出す店が多く出ている。しかしどこも人の入りが多く、何より手を出すのがはばかられる値段だった。
「ただの雑炊なのに」
スズシは不服そうな顔をして呟いた。
「物珍しさだろう。俺たちにとっては何の変哲もないものだとしても、異人たちは違う」
「ヒムカシの人向けじゃないわけね」
だとしたら、錬金術に携わる人が多い街でヒムカシの人を相手にする店は少ないだろう。二人は路地を抜けて街灯の少ない道に出る。ややあって見つけた店は手頃な値段を品書きに書いていた。
店の中に客はまばらであった。帳場の向こうで険しい横顔の男が包丁を振るっている。ともすれば温かみの失われそうな店内の空気を、小袖と櫛で飾った娘が華やいだものにしている。彼女は二人に気づくと、外へ聞こえそうなほど元気な声で迎え入れた。
店の隅の空いている席へ案内される。それなりに活気のある店であったが、向かい合った瞬間音が遠ざかったような気がした。
品書きからそれぞれ料理を選び、娘を呼びつけてそれぞれに注文する。昔ながらの料理を出すことに注力しているのか、品書きにはなじみ深い言葉がたくさんあった。
娘は帳場から、酒と二人分の小鉢、猪口を持ってすぐに戻ってきた。丁寧に礼をして離れ、帳場で男の手伝いをする。そうかと思えば、呼び出しに応じて跳ねるような勢いで客の元へ向かう。その身軽さが快い。
「何見てるのよ」
わずかに険のある声を聞かされて我に返る。スズシがとっくりを傾けたまま頬杖をつき、睨めつけていた。
「何をしている子なんだろうって思ってな」
「女の前で良く言うわ。あまり素直だと損をするわよ」
言いながらスズシは猪口に透明な酒を注ぐ。柔らかな笑みを取り戻していて、声からも険が消えている。
ジョウメイも同じようにしてやる。今まで知り合った女たちは酒を好まなかったが。スズシはなみなみと注いでも何も言わない。酒がこぼれないよう慎重に杯を突き合わせてから呷る。香りは弱く、味も淡泊だったが、弱くない酔いが酒の印象を強める。手酌しようとすると、慌てないでよ、とスズシに咎められた。
「お酒は時間をかけてゆっくり飲むものよ」
保護者めいたことを言われる歳でもないと思ったが、スズシが楽しんでいるようだったので付き合ってやろうと思った。
酒と一緒に出されたのは、蕨を使った和え物だった。かつて春に食べていたものを夏に出されるのも不思議な気がしたが、どこかで錬金術の恩恵を受けているのだろう。
どうやら白ごま味噌で味を付けているらしい。口を付けた時の香りとわずかな味で充分な旨みを感じられ、舌に載せれば味の奥に甘みに気づく。その重層的な構造に、帳場の向こうで黙々と仕事をする男の技が詰まっている気がした。
「ちょうど良い感じ。無理して高い店に行くことはなかったのね」
スズシは満足げな顔をして、酒を飲み干した。和え物を食べ終える頃に、それぞれが頼んだ料理が運ばれてくる。店の品書きの中では少し高かったが、二人は白米の菜飯を頼んだ。飛び魚のすり身を団子にしたものが入った汁物に、胡瓜の香の物、鰹の味噌漬けが菜飯の周りを彩る。高級には見えないが、料理人の腕前がわかる整った料理であった。
二人で食事に手を合わせてから酒を注ぎ合う。食べ始めてからどちらともなく離れ離れであった日々のことを話し合う。ジョウメイが錬金術との出会いを語れば、スズシはサチと共に働く店にたどり着いたことを話す。戦の中では子供たちを守り切ることができず、自分のための働きなのだと寂しげに彼女は言った。
「色々あったんだな」
一言ではとても足りない出来事であったが、ジョウメイには他に言いようがなかった。子供たちを守り切れなかったやりきれなさをどう汲み取ってやれば良いのかわからないのは歯がゆいが、今の暮らしに覚えているらしい充実感に触れると心配は要らないことがわかる。
「のれん分けってわけじゃないけど、いつか自分の店を持ってみたくなってね」
スズシは気楽さを装っていた。店では雇い主である女将や同僚のサチと女同士で楽しく過ごしているようで時々戦の記憶に苛まれる夜があるものの、孤独に陥ることがないから乗り切れていると言った。
「それじゃ俺の出る幕はないな」
冗談めかして言ったが、そんなことはないよ、と半ば本気になって反論してきた。
「だって、あんただけでしょ。あたしの昔を知ってるの」
それだけで共にいる価値はあるのだと言う。何を失っても必ず残る価値であろう。そう思えば生きていく理由は自ずから見えてくる。
「苦しくなかったのか」
「それでも全部が嫌なものじゃなかったよ。トマラさんもいたし」
ジケイと共に消息を掴めずにいる男を思うと胸が痛んだ。彼がいなければ翠ノ年になってから錬金術に興味を持つこともなかっただろう。生き方を決定づけた男が、自分の未来にいないのは悲しいことだった。
「どこかで錬金術をやっているのかもしれないな」
「だったらあんたが、どこかで会えるかもね」
何気ない遣り取りに希望が見える。恵まれているとは言えない環境にあって、先を見ることを忘れなかった人だ。翠ノ年にあっても先を見据えたことをしているだろう。
「よく知らないけど、錬金術の使い手が国の命令で色んなところに行くようになるんでしょ。トマラさんが錬金術をやってたら、ここにも来るかもしれないし」
「士師制度のことか。始まるのは来年の春からだな」
「どういう決まりなの」
「国に仕える錬金術の使い手と、民間で錬金術を使う者に別々の資格を作るんだ。国に仕
えれば士(つかさ)、民間なら師(もろ)だ」
それによって錬金術の使い手と呼ばれていた人々の呼び名も変わる。それぞれ錬金術士と錬金術師になるのだ。
「面倒なことをするのね」
スズシの意見は率直だったが、関わりのない者にすればそう見えるのも当然だろう。
「まともに錬金術を使えない山師みたいなのを排除したいんだろう。師の役割は、技術を磨き人々の暮らしや国益に貢献することだからな。詐欺をやるような連中は徹底的に閉め出さなくちゃいけない」
「士は何のためにあるの」
「元々は近代魔法省って役所の役人のための肩書きだったらしいけど、錬金術の技術的指導ができる者の力を認めるために、制度が見直されたそうだ」
「あんたはどっちに行くの」
「それはまだ、決めてない」
キセーの下で働きたい気持ちはあるが、士に課せられた役割も魅力的に見えた。立ち位置が大きく違うため、最初の選択が一生ついて回るだろう。
「そう。大事なことなのね」
スズシは言い、手酌した酒を素早く呷った。表情を緩めてから語り出す話題は、仕事を離れた互いの日常であった。それぞれ責任を負うようになっても、近しい人間のことを語る時に楽しく笑うのは変わらない。それだけに時間の経過が早く感じ、スズシの門限が迫っていた。店の離れで女将とサチと同居しているというスズシは、家族のようなつながりが嬉しいと語った。
スズシとは小料理屋の前まで一緒に歩いた。手に触れた時胸は高鳴ったが、かつてほど不自然なものを感じなかった。心の変化か、あるいは時代の変化か、どちらにせよ時を経ていっそう近しい相手になれたのが嬉しかった。
「じゃあ、また」
何度会っても別れる時だけはぎこちなくなる。ジョウメイも不器用な返事をして、二人は互いに踵を返した。
翌朝も工房へ朝から出る。仕事と並行して、年末の士師制度試験の対策を練る。工房助手など錬金術に携わっている者には優遇措置があると聞いているが、万が一試験に落ちるようなことがあれば、工房を去ることになるだろう。来春からは士あるいは師の資格を持たない者が錬金術に携わることが許されなくなるのだ。
「お前士と師のどっち行くんだ」
昼餉の時にイヨックに訊かれて、迷っていることを答えた。
「何だよ、そこは師だろ。士になったら工房を出ていくんだぞ。今更役人みたいなことができるのかよ」
工房助手として働き出してから五年が経つ。キセーの下で働く内に関わってきたのは、政治とは縁の遠い人々であり、彼らの営む慎ましやかな暮らしであった。士ではどうしても関わりの薄い分野だろう。
「お前はもう決めてるのか」
「当たり前だろ。俺は師匠についてきたんだ。今更変える気はねえよ」
イヨックには定まったものがずっと昔からある。暴漢に襲われても変わることのなかった信念のようなものだ。それに基づく限り彼は行動を迷わないようだった。
鼎令の下で技官として働いているトオリが工房を訪ねてきたのは、夏が終わりかける頃であった。ジョウメイが出迎えると、キセーの居所を尋ねた。
「おりますけど、呼んできましょうか」
「いや、上がらせてもらう。キセーもわかっているはずだからな。ジョウメイ、お前にも関係のある話を持ってきた。聞いてもらう」
心当たりがなく、ジョウメイは気の抜けた返事をするしかなかった。
羽織り物を脱いだトオリを迎えたキセーも、ジョウメイに話を聞くように言った。ただ事ではなさそうだったが、どうしても思い当たる節はない。
座る席に迷ったジョウメイに、キセーが自分の隣に座るよう言った。着席したのを見計らってトオリが口を開いた。
「士師制度のことは知っているな」
ジョウメイはぎこちなく頷いた。
「お前はどちらを目指している」
「それは、正直迷っているんです。期限まで考えようと思っています」
キセーとトオリは顔を見合わせ、頷き合った。
「なら、これからは士を目指してくれないか」
口を開いたのはキセーであった。どちらかに思い入れがあるわけではないが、他人に道を決められる筋合いはないはずだ。
「どうしてですか」
疑問を正直に伝えると、
「納得できないのは当然だ。お前の言い分は聞くから、まず我々の話を聞いてくれ」
トオリが割って入るように言った。
「士師制度が始まるのは来春からだが、私はそれに合わせてセキナンカを離れることになった。錬金術試験場の運用が始まるんだが、そこの場長として赴任する」
「どこへ行くんですか」
「ソウビだ。懐かしいな、私とお前が初めて会った場所だ」
港の周囲は賑々しく洗練されているそうだが、海風の届かない山際はセキナンカと似たような風景も多いという。そのような場所にトオリの赴任先はあって、人々の理解を得る努力が必要だと語った。
試験場は他にも三つの港町に設置され、同時に運用が開始される。国際競争力を高めるための技術向上や問題の解決、国民の錬金術への理解を促すための方法の発見と実際の行動が主な役目である。監督省庁である近代魔法省は、それを実現するための職能集団として士を配置する考えのようだった。
「まだ実際の行動を起こすには早いが、試験場が主導してソウビにミクロコスモスを作る計画がある。それをお前に手伝ってもらいたい」
既に諦めがついていたことへの誘いに、ジョウメイは言葉が出なかった。人の暮らしを壊さなければ作れないものであれば、作る必要はないという結論をどこかで下していたところだ。それだけに手放しで受け入れることはできない提案であった。
「それは俺でなければいけないのですか」
慎重さを装って訊くと、イヨックでは駄目だ、とキセーが言った。
「イヨックはきっと工房を離れることを受け入れないだろう。私を追ってここまで来たのだからな」
彼自身の言葉が思い出される。説得しようとすれば相当な労力と言葉が要るだろう。
「士はヒムカシで生まれた者でなければ資格を得られない。役人になるのに近いからな」
トオリが後を引き継いだ。
「しかしキセーさんはそれで良いのですか」
工房助手という身分は士師制度が始まったらなくなるので、制度の問題には引っかからないだろう。しかし単純な雇用関係の問題がある。伺いを立てるようにキセーを見遣ると、彼は頷いた。
「話はついている。だからこうして来たんだ。あとはお前の気持ちだ。失敗したことをやり直す機会があるんだ。やってみないか」
心を揺さぶられた感じがしたのは、トオリの声に宿る熱さのせいだけではない。どうしようもないこととして諦めざるを得なかったことを、再び動かせるからであった。その瞬間を思えば心が躍るような気がした。
「いつまで答えを待ってくれますか」
「試験の申し込みが締め切られるまでだ。ソウビへ行く気が起きないなら、そのまま師の試験を受ければ良い。私は一人でソウビへ行こう」
二人を見比べ、ジョウメイは即答を避けた。世話になった二人からの頼みとは言え、自分の今後に関わることを軽々には決められない。
返答は申し込みの締め切り日まで引き延ばせる。しかし勉強のことを思うと早く態度をはっきりさせなくてはならない。士と師では共通する分野が多いものの、制度の理解を問う分野に違いがあると聞いている。その違いに足を掬われたのでは泣くに泣けないだろう。
試験対策が手につかないのを見かねたのか、イヨックが事情を聞いてきた。工房のラウンジで正直に状況を話すと、行けば良いだろう、あっさり答えた。
「どっちかにするしかないんだ。だったら少しでも人を助けられる方がましだろうが」
いい加減に見えて人情を理解する良い男だと思った。こういう男だから共に働いていたいと思ったのだが、正直に思いを言ったらやはり怒るだろう。
「トオリ先生のことは助けてやりたいが、ソウビへ行かなくちゃならないのが引っかかってるんだ」
「今更枕が変わったら眠れないとでも言う気かよ」
茶化すように言ったイヨックに、笑いたきゃ笑えよ、と言い置いてから、胸の内を打ち明ける。
「心配な女がいるんだ。あいつは俺がいなくても平気なのかって」
イヨックは驚いた素振りもなく、なるほどな、と暢気な声を出した。
「普通の理由だな。別にたいしたことでもねえ」
「軽く言うな。俺にとっては大事なんだから」
「そうかね。心配してるのはお前だけかもしれねえだろ」
親身でなく、まさに他人事のように言ったイヨックに、ジョウメイは言葉を詰まらせた。「どういう気持ちでいるのか訊いてみたら後腐れがないだろ。ついでに今後どうしたいのか訊いてこい」
「どうしたいって、何だ」
本当にイヨックの言っていることがわからなくて訊き返すと、彼は身を乗り出してのぞき込んできた。いつにも増して真剣な表情だった。
「スズシと所帯を持ちたいのか、違うのか、はっきりさせておけってことだ」
それは胸の片隅に置いておきながら、触れずにいた思いであった。両親をはじめ、家と家の話し合いで縁組みが決まるのが普通であったから、自分も同じ道をたどるのだと思っていた。しかし今、本来なら縁組みを決めるはずの家はない。
答えに迷っていると、曖昧が一番悪いんだぞ、とイヨックは呆れたような声で言った。
「俺たちには目標を目指すことに託けて一人でいつづけることもできるが、同じようにできる女は少ないんだ。先延ばしにして結局話がなくなるようなことになったらお前、恨まれても文句は言えないんだぞ。子供みたいにやり直せるわけじゃないんだから」
互いに負うべきものを持つ自分たちは、確かに子供ではないのだろう。別れや出来事をいくつも重ねてきた、子供より進んだ人間なのだ。それは時間と引き替えであった。やり直せる時間が残っていないからこそ、道を決めなければならないのだ。
「トオリさんの誘いもそうだ。成功すればお前この国の歴史に名前が残るぞ。ミクロコスモスは大事な場所なんだからな」
ミクロコスモスがあることで錬金術の仕事には安定感が出るし、人々が親しみを覚えることもできる。少なくともエボロスではそうであったという。ヒムカシでも同じことが起きるとは限らないが、全てはやってみなくてはわからないことだ。新しいものは、先の見えない不安をかいくぐる担い手の勇気で根付いていくものだろう。
「お前、あのさ」
思えばずっと同僚として一緒だったイヨックと、将来のことで真剣に話し合ったことはなかった。親身な人柄が意外にさえ思えたが、今日はそれでずいぶん救われた。感謝の一つも言ってやろうと思ったが、
「おう、お礼が言いたいのか。それだったら言葉なんかよりもっと形に残る何かが欲しいんだけどな」
俗気にまみれた言葉を聞いたら、高潔な気持ちが失せてしまった。将来という大事な話題を選んでいたはずが、顧みればいつもの世間話と変わらないものになって見えてしまう。それが却って、ジョウメイの気負いをなくす。
「調子に乗るな」
ジョウメイはそう言ってイヨックの額を叩いた。すると彼は、強く叩き返そうとしてきた。長い付き合いになるイヨックを前にしていれば充分予測できた行動で、ジョウメイは軽く身をよじってかわす。しかし片方の手で裏拳を叩き込んできたのはさすがだった。
「年上だろうが、大人げねえよ」
「俺は年上の同僚として、人としての礼儀をだな」
「強突く張りめ」
「うるせえ」
イヨックは腕で体当たりをかましてきた。いつしか互いに笑顔が戻っていて、懐かしいような気分になっていく。
別れがたい男ではある。しかしその男が、ソウビへ行って力を貸してやれと言う。その一言だけで、迷いはいくらか晴れた。
「ありがとよ」
イヨックとの別れ際にそう呟いた。聞こえないように言ったつもりだったが、
「端から素直に言っとけ」
そんな呟きを聞かされた。
スズシと待ち合わせの約束をした日は雨が降った。夜寒を感じるようになった頃で、それに合わせたように雨も冷たくなっている。冬にはまだ早いが、時雨のように短く激しい降り方が一日中繰り返された。
待ち合わせの場所には雨宿りの人間を含めてかなりの数が集まっていた。その中にスズシを探すが見つからず、ジョウメイは人の流れを妨げないように端へ寄った。
スズシはそれから数分置いて現れた。雨よけの外套を羽織っていて、裾からわずかに生絹地の小袖が見えた。
「待った?」
素直に遅いと言い返すのも大人げなく思って、
「いや、今来たばかりだ」
当たり障りのない返事をした。
ジョウメイが先に傘を開き、同じように傘を開こうとしたスズシを制して自分の傘の下に入れた。彼女は何も言わず、雨を避けて寄り添ってくる。
「ご飯を食べるのに良い時間よね。ちょっと混むかもしれないけど、時間はあるし」
気楽に言ったスズシに、ジョウメイは首を振った。
「話したいことがあるんだ。できれば人がいないところが良い」
スズシは返事に迷ったように言葉を詰まらせた。
「奇遇ね、あたしも話したいことがあるんだ」
「そうか、雨だけど、少し歩いてみるか。駄目だったら仕方ないから、その辺の小料理屋で話そう」
スズシが頷いた後は互いに喋ることもなく歩き続けた。皆外套なり傘なりを準備してきており、雨に際して慌てている者は見当たらない。小さな子供などは、おろしたての雨具を使うのが嬉しいようで、わざわざ雨によく当たるように道の真ん中を歩いていた。
「かわいいわね」
小さな傘を差して歩き去った子供に、スズシの呟きが向けられた。子供がどこへ帰っていくのか。どんな家で暮らしているのか。優しい眼差しの奥ではそんな思いを馳せているようだった。
ジョウメイは聞こえなかったふりをして、二人で落ち着ける場所を探すことに専念した。やがて前しか見えなくなって、スズシに服の袖を引っ張られるまで周りに気づかなかった。
「ここでどうかしら。人来なさそうだから」
そこは馬車の停車場であった。しかし椅子の上に屋根をつけただけで、タチキの中心部にある停車場と比べるとひどく粗末である。おまけに収穫が終わったばかりの田圃に囲まれていて、人家の灯りは遠い。
「ちょうど良いな。きっとここに人は来ない」
「そうなの」
「灯が消えてる」
夜でも乗降客がいるなら屋根につけられた灯がついているはずだった。ジョウメイは懐から小箱を取り出すと、指で上下から押しつぶし、内部を強くこすった。小箱は破れながらきらめくものをまき散らす。次の瞬間にはきらめきが集まった炎となり、滞空する。炎は揺らめいて形が安定しなかったが、小箱が炎に投げ入れられると球体になってその場で漂った。
「すごい、これってどうなってるの。提灯よりずっと明るい」
光が球体になっていくのを呆然と眺めていたスズシは、光の形が落ち着くのを見届けて興奮した口調で食いついてきた。
「燐火灯って呼ばれてる。錬金術の産物だ」
「蛍みたいね」
ヒムカシでは提灯を使って夜の闇に対抗してきたが、エボロスをはじめとする西国ではずっと燐火灯が夜の友であった。これがあれば野外での仕事を夜も続けられる。明るさもさることながら、両手が空くのが大きい。
ジョウメイはスズシを椅子へ導いた。燐火灯もついてくる。使い手を追いかける性質が精霊にはあった。
傘をたたみ、それぞれ外套を脱ぐ。スズシが外套を脱ぐと、その下から生絹地の小袖が現れる。ヒムカシはどこへ行っても薄く目立たない色が多いから、水色の小袖はこの薄暗い停車場でもよく目立つ。
しかし雨が降る中ではいささか薄かったらしい。スズシは両腕をさすると、外套を着直した。
「寒くなってきたわね」
人のいないところへ行きたいと言ったことを少し恨んでいるのかと思って、悪かったな、とジョウメイは言っておいた。
「あたしも他の人に聞かれたくないことを言いたいから、別に良いよ。それより言うなら言ってよ」
「わかってる」
言ったが、言葉が声にならない。言いたいことはイヨックと話し合う中でまとまったはずだった。それがうまく現れない。
「スズシ、お前今幸せか」
ややあって出てきたのは、自分でもとんちんかんだと思う言葉だった。スズシも戸惑ったのか、すぐには返事がなかった。
「うん、まあね。わざわざ確かめなくても大丈夫よ」
再会した後、会うたびにスズシは表情が明るくなっていく。確かめるまでもないことだったが、会話の糸口が掴めない。
一人になっても平気だろうか。その一言が訊けなかった。
「わざわざそんなこと訊くためにここまで来たの?」
声にわずかな険が混じった気がする。表情に変わりはないが、不機嫌になったのかもしれない。むしろ変わりのない表情が怖い。
「そうじゃない」
「じゃあ何。寒いんだからはっきり言ってよ」
「一人で平気なのか」
思った通りのことを言うことができた。しかし脈絡を感じなかったのか、彼女はすぐに返事をしなかった。
「何を言いたいのよ。子どもじゃないんだから大丈夫に決まってるでしょ」
「俺が遠くに行ってもか」
「どういう意味」
スズシを訝しませることになったが、ようやく思いを口にする糸口を掴めた。ジョウメイは鼎令の下で技官として働くトオリに誘われてソウビへ行く話があることを告げた。ずっと反応が怖くて話す踏ん切りがつかなかったことだが、スズシは思いの外静かに受け入れた。
「そうなんだ。じゃあ今までみたいに気軽には会えなくなるのね」
「そうだけど、お前は大丈夫なのか。寂しくなったりしないのか」
思ったよりスズシの態度が淡々としていて、自分の方が心細くなる。
それを見透かしたように、スズシは温かな笑みを見せた。
「心配されるのはあんたの方でしょ。本当は自分が不安だから、わざわざこんなところまで来て話をしてるんじゃないの」
からかいや苛立ちで言っているのではないことは表情でわかる。心情をまっすぐに貫く言葉であったが、ジョウメイは素直に受け止められた。
「錬金術ってこれから大事になってくるんでしょ。せっかく下働きからやってきたんだから、もっと突き詰めていけばきっと良いことあるよ。自分の旦那が国に仕えて錬金術をやってるなんて言えたら鼻が高くなるような日がきっと来ると思うの」
何気なさを装っていたせいで返事が遅れた。燐火灯に潤んだ双眸は逸らされて表情はうかがいしれないが、彼女の望みを確かに聞いた。
「ミクロコスモスはこの国に錬金術が根付くのに必要なものだ。それに携われる機会なんて他にないかもしれない」
「だったら迷わないで行きなよ。気軽に会えないって言っても、ずっと変わらないわけじゃないし」
スズシは再び顔を向けてきた。雨音に負けない声の張りと、冷え込みを忘れるほどの温かさが体に満ちた気がした。自分もスズシもそれぞれの役割があって、それを果たそうと努めている。今はそれで良いのだと思えた。
一頻り抱擁を交わしてから二人は見つめ合い、ほとんど同時に顔を近づけた。十年前に初めて交わした口づけは、今回は冷たく、微かに塩の味がした。
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