第6話 小宇宙

 木鋤に足をかけ、思い切り体重をかけると鋤先は一気に土へ沈み込む。季節にかかわらず水気を含んでいる土だ。ホラクの泥を思い出したが、小動物の死骸から流れ出たものや糞尿で汚れた土とは違う。触れてみると指先が洗われるような清涼感を味わえる。そして指先には米粒大の青い石が触れる。いくつか集めて紙の上に載せると紙が濡れる。石を中心に小さな黒ずみができた。

「良い石だな。良質の《シレクス》を採れる。ヒムカシってところは水属性精霊の宝庫だと聞いたが、女王陛下も良いところに目をつけたもんだ」

 その様子をのぞき込んできたイヨックが満足げに言った。ジョウメイは彼を振り仰いで頷き、森の奥を見通す。

「あとは《クライプ》か」

「あっちに池があったな。あの辺の空気がちょうど良いだろ」

「俺が石集めをしよう」

「わざわざ重労働を買って出ても、今日の師匠の飯当番は代わってやらないからな」

「そんな下心じゃねえよ。さっさと行けって」

「気の利いたことの一つも言えねえんじゃ、女にもてないぞ」

「くだらねえこと言ってんじゃねえよ」

 そう言いながらジョウメイは、イヨックを足の裏で蹴飛ばす真似をした。彼は軽やかな足取りで動きをかわし、森の奥へ消えていった。

 イヨックの姿が見えなくなったのを見計らい、ジョウメイは再び土に木鋤を沈み込ませる。すくい上げた黒い土を篩にかける。土のほとんどは穴に戻り、やがて金網の目には小石が残る。水色から縹色まで濃さは様々だが、どれも水の性質を表す青い色に染まっている。正体は《シレクス》という十四番目の精霊番号を与えられた、水の性質に分類される精霊が作る第一質量に別の精霊が自然に結びついたものだ。

 土と梢のおかげで、森では薄暗い代わりに涼しく過ごせるが、土を掘り続けると汗ばんでくる。石が埋まる土は水を含んでいるからそれだけ重い。日差しがないだけありがたいが、重労働なのは変わりない。

 掘り進めると鋤先に固い感触があった。土を払うと白っぽいものが見える。周囲の土を払ってその石を掘り起こした時にはひび割れていた。

 その割れたところから徐々に霧散していく。きっと石ではなく、微生物の群体であったのだろう。ちょうどオソコ石のような――。

 ――虹が見えたら良いのに。

 ふとそんな声を聞いた気がして、霧散していくものの行方を見た。木漏れ日が薄く折り重なり、密やかに森を照らす。虹を見るには少なくとも他に大量の水気が必要だった。

「見えるわけがない」

 ここがスズシと夜虹を見た森だから、少し感傷的になったのだろう。だからスズシの声が幻聴として聞こえたのだ。

 翠ノ年という新しい暦を刻むようになって九年が過ぎている。ジョウメイは二三歳になっていた。消息の掴めないジケイやオドヤ、スズシの記憶が風化していくのがもどかしい。それでも忘れがたい記憶の手がかりはそれぞれにある。スズシの場合は夜虹であった。

 ぬぐいがたいスズシの幻影を脳裏で見ていると、不意によろめいて景色が現実に戻る。

「ぼんやりしてんじゃねえよ」

 声に振り向くと、右腕ほどの太さと長さがある竹筒を携えたイヨックが、足の裏を見せていた。土が腰の辺りについている。

「蹴るなよ」

「この前振られた女のことでも考えてたんだろうが。仕事中に女のこと考えてる方が悪いんだよ」

 当たらずとも遠からずのことを言われて素直に謝ると、

「おいおい、当たったのかよ。しっかりしろよな」

「そうだな、悪い」

 イヨックの呆れ声に謝ってから作業を再開する。ほとんど終わっていたために手を借りることなく予定の量の石を確保した。

 森を出る時、イヨックは少し乱暴に肩を叩いた。

「そんなにしょんぼりするなよ。女だったらいくらでもいるだろ。何だったら今度、良さそうなの紹介してやろうか」

「今度にしてくれ。そんな気分になれない」

 イヨックは両肩をすくめた。工房で働くようになってから数ヶ月は慣れなかったが、肩をすくめることは苦笑と同じ意味があるらしい。

「じゃあ頑張って働くか」

 イヨックは大きく伸びをして言った。

 かつてスズシと共に夜虹を見た森からキセーの工房までは歩くとなると遠い。かつては車と名のつくものを使うには許しが必要で、荷車さえも好きには使えなかったものだが、錬金術の普及と共に条件は緩和され、現在はほぼ無条件で使える。

 おかげで馬車も使えるようになった。なじみの業者に六頭立ての馬車を頼んで迎えに来てもらう。採集の成果を苦労なく運べたが、工房で精査分析すると使い物にならないものも多く含まれていた。人智の及ばない自然から取り出しているのだからやむを得ないことだが、重労働の後だけにやるせなさは禁じ得ない。

 ジョウメイが担当した採集物の精査分析自体は難しい仕事ではないが、代わりに賄い当番の役目がある。工房の居間に囲炉裏はなく、台所の竈のような場所で煮炊きするようになっている。また、煮物を作ろうにも具が頭を出してしまうような底の浅い平鍋の使い方もわからず、異文化を初めて意識した場所であった。

 床下に作られた物入れには、野菜から肉までを保存できるようになっている。その源は蛍石を第一質量として作る精霊で、錬金術の処理をすれば冷却剤として使える。その効果は、盛夏においても肉や魚を長期保存できるほどだ。

 魚や肉を保存しようと思ったら、燻製にしたり身を叩き潰して蒸し焼きにしたクズシを作ったりする一手間が必要であった。その仕事を行う専門の業者もあったほどだが、一手間をかける必要がないことを皆が知れば、クズシ屋もクズシも過去のものになるだろう。その時はまた一波乱ありそうだが、狩りの目的を変えた父のように、時代にうまく順応できることを願うばかりであった。

 物入れから取り出したのはクサイという山の獣の肉である。カモス狩りから獣の狩りに転向した狩人が多いため、獣の肉は値段が安くなっている。狩人同士の競争も激しいようで、成果を挙げようと焦る余り、獲るのを禁じられた雛や子どもを狙う狩人まで現れているようだ。

 肉と野菜を深鍋で煮込み、収量が増加して手に入りやすくなった米を炊く。雑穀を雑炊にして食べていた日々を思うと、その香りや味が良すぎて異質に感じられたほどだ。

 雑炊や汁物を作り終える頃には、キセーもイヨックも団らん室に戻っていた。二人は食べ物に対して文句を言ったことがないので気楽に役目をこなせる。酒を飲んだ後はそれぞれが寝床へ引き上げる。近くに工房助手向けの長屋があり、イヨックもまた、同じような長屋に暮らしていた。

 長屋の部屋は狭く、後架も外にある。台所も長屋の住人たちが共通で使っているが、皆面倒見の良い工房主の下で働いているのか、あまり使われることはない。

 あまり広くない部屋にいると、家族で暮らしていた頃のことを思い出すことがある。家族で雑魚寝するのが当然だったから、一人の部屋で眠ることになかなか慣れず、夜更けの物音に驚いて目を覚ますこともしばしばであった。それも一年経つ頃には朝まで起きることがなくなった。

 翌日工房から帰ってくると、父のコウザエから手紙が届いていた。アメヒ王族の治世下では都だったシオウでの近況が書かれていて、狩人としての日々は順調なようだった。

 手紙の中では、狩人同士の対立や競争は起きていないと書かれていた。過当競争を心配して状況を尋ねたことへの返事である。誰もが互いの領分を侵さないように配慮し、無駄な競争を避けることができている。おかげで大きな苦労はないようだった。

 文には自分や家族のこと、共に狩りをしているラウのことが書かれていることが多い。狩人として成長を続けるラウのことを嬉しがっているのが文面からわかるほどだった。

 ジョウメイは自分の仕事も順調であることをしたためて、封筒に入れて封をする。かつては地域ごとに料金が大きく異なり、届けられる日も約束ができないほどだったが、翠ノ年となってからは一律料金となり、シオウまで三日以内に届けられるという約束を聞くことができるようになった。

 これは錬金術の力ではなく、ヒムカシの人の力による制度改革に他ならない。エボロスの精度を参考にしてはいるだろうが、成し遂げたのはヒムカシの人なのだ。ヒムカシの人間は決して劣っていないのだと誇らしい気分になるのだった。

 翌日工房に顔を出すと、キセーに命じられたのは森の測量であった。いつも精霊の採集に訪れる森の地図を作り、精霊の棲息域を書き加えていく。イヨックと共に地図を書き上げると、キセーはそれを持って森の奥へ二人を伴った。

 その真意を、キセーはミクロコスモス造成のためと言った。

「私とトオリが中心となって実現できるように働きかけているところだが、このセキナンカにヒムカシ初のミクロコスモスを開きたいと思う」

 キセーの考えるミクロコスモスは多様な精霊を棲息させるために森の姿をしている。その見本に、普段精霊採集に訪れる森を調べているという。

「ヒムカシではまだないんですか。この国の政府連中の理解は得られてるんですか」

 イヨックが訊いた。さすがに二人だけで実現できることではないだろう。ジョウメイも同じ疑問を持った。

「味方はいるから心配は要らん。問題は政治家以外の理解だが」

 ミクロコスモスは新しい魔法の理解を助けるために造成されるが、それにしても用地選定から始めなければならない。場合によっては選ばれた土地に住む人々を、追い出すことにもなりかねない。

「錬金術の席巻が大事なものだとわかってもらう必要がありますね」

「それも我々の仕事だ。子供を作っているだけで完結するものではない」

 まだ学校もできておらず、錬金術を学ぶのは個人の問題に留まっているのが現状である。錬金術の使い手たちが森に通っているのを見て、何か得体の知れない儀式をしているという噂も広まっているのは、無理解の表れであろう。

「成功すれば我々の名はこの国に残る。張り切ってやってもらおうか」

 キセーの宣言が照れ隠しのように聞こえたのは、ヒムカシの錬金術の発展を請け負ったという思いを知っているからだろう。

 実地調査は昼夜を問わずに行われたが、キセーは疲れた様子も見せずに予定を消化していった。若くはない体に宿る体力に感心しながら毎日を過ごしていたが、ある夜にジョウメイとイヨックに見張りを任せてどこかへ出かけてしまった。仕方なく二人で張り込むことになったが、キセーがいないと思いの外くつろげることに気がついた。

「何だかんだであの人厳しいからな」

「それでいて自分には結構甘いし、しょうがない人だよ」

 イヨックの苦笑交じりの言葉には嫌みがない。錬金術分野での優秀さと、人としての癖が混ざり合うことでキセーの個性が作られる。イヨックは弟子として部下として、それを受け入れて過ごしているようだった。

「そういう人だから」

 酒の飲み過ぎが気にかかることもあるが、イヨックの言葉にはだいたい同意できた。

「しかしお前、ここで昔オソコ石を採ったらしいが、本当か」

 キセーが命じたのはオソコ石の採集だった。見られるかどうかもわからない夜虹を待つ役目を、わざわざ自分が担う必要はないと思ったのかもしれない。

「ああ、夜虹が出たんだ。あの時は」

 過去を語る言葉をきっかけにして思い出されていくのは、十年前に同じ場所、同じ季節に起きた出来事であった。

「一人でこんなところ来たのかよ」

 イヨックは胡乱げな顔をしていた。何を疑っているのかわからず、ジョウメイは正直に一人ではなかったことを告げる。

「偶然会った女の子と一緒に眺めてさ」

 他意は込めていないつもりだったが、イヨックはやたら強い反応を見せた。

「偶然だ? こんな森の奥で女と会うってどういう偶然だよ。もっと別の目的があったんじゃねえのか」

 にやつきながら言ったイヨックの脳裏に展開される映像がどんなものか察しがついた。適当にごまかすべきだったかと後悔したが、諦めてありのままを冷静に話すことに努める。

「偶然だよ。あの時は狩りをやるはずだったんだけど、色々あって逃げてきたんだ。そしたら水浴びしてるところを見て」

「おい待て、水浴びってことは裸だったんだろ。やっぱり別の目的だったんだろ」

 言えば言うほど泥沼へはまっていくようだった。偶然裸を見てしまったのは事実だし、その後夜明けまで過ごしたなどと言えば、イヨックの中では肌を合わせたことになりかねない。いくら清浄な水が土を充たす場所とはいえ、外でやる者の気が知れない。そう言い返してやりたかったが、イヨックがどんな反応をするかと思うとはばかられた。

「好きに妄想してろ。とにかく俺たちはあの時、夜虹を見たんだ。それは夢じゃない」

 ジョウメイは池の上に視線を転じた。夜虹が滅多に見えるものではないのはいつの時代も変わらないはずで、あの時見えたのはお互いの運が使われたのだろう。

「それで、その子とはどうなったんだよ。その後があるだろ」

 イヨックはどうしてもその辺りの話をしたいらしい。

「あの後少し仲良くなって、向こうから口も吸ってきたよ」

「おお、やるな。それで、今はどうしてるんだ」

 ジョウメイは息をつき、口を開く。

「どうしてるかわからない。白翁動乱の時に別れて、そのままだ」

 さすがに嫌な話題に踏み込んでしまったことに気づいたらしい。イヨックは表情を改め、悪い、とさっきまでの剽軽さが失せた声で言った。

「気にするな。人との別れを経験したのは俺だけじゃない」

「大きな争いだったからな」

 イヨックの声は親身に聞こえた。彼にもアルケミー系魔法が侵略者のようだという後ろめたさがあるようだった。

「でもあの後会えた人もいるからな」

 さすがに名前を告げるのは気恥ずかしいものがあったが、ソウビでの工房建設の時にトオリと出会えたのは僥倖であったし、その後キセーやイヨックと働けるようになったのも望ましいことだった。ミギョウ系魔法が今でも続いていたら、平和ではあっただろうが、理不尽な思いを押し殺しながら生きていくことになっただろう。多くの別れは、そこから脱出するための代償であった。

「そうかよ」

 イヨックは短い返事で締めくくった。言い繕わない分好感が持てた。

 その後夜明けまで二人は待ったが、夜虹が現れることはなかった。夜寒が厳しくなった頃、ようやくキセーは諦めてくれた。

 成果が出なかったことをジョウメイは密かに喜んだ。自分に許された幸運が、オソコ石の発見で使われてしまうような気がする。そうなったら未だ消息の掴めない人々に会うことができなくなりそうだった。

 忘れようと思っても忘れがたい情景と共に残る二人に、いつか会えると良い。誰にも言わないまま、ジョウメイは思いを胸にしまい込んだ。


 季節が巡り、厳冬を迎える頃になると雪の心配をするのが頭に刻まれていた。《冬隣の鎮》をするためにクンツエ狩りをしなくなって久しいが、白翁動乱の後錬金術が普及していく中で雪害はあまり聞かない話題になりつつあった。

 昨晩から雪が降り、日が昇ってもちらちらと降り続いていた。工房へ出かけるには妨げにならなかったし、工房の中は温められている。整った環境の中でジョウメイは書類を前にする。鼎令に提出するための報告書作りであった。

 森で調べたことはミクロコスモス造成のための資料となる。棲息する精霊の種類や数をはじめ、植生、動物の生息状況、水質や空気の質など、その森を構成する一切を紙に書き留めていく。

 それをキセーに提出しては書き直しの繰り返しだった。再提出を繰り返すたびに内容を膨らませていく。提出の許しが出たのは三月末のことだった。

 キセーの話では半年もすれば何らかの話が鼎令から降りてくるだろうということだった。季節を二つも超えなければならないと思うと気が遠くなる。

 気楽に構えるしかないと思っていたところ、四月の末にトオリが訪ねてきた。キセーを酒に誘うつもりかと思ってにこやかに出迎えたジョウメイは、

「キセーがいるはずだ。会わせてもらおう」

 見たこともない剣幕に気後れしながらキセーを呼んだ。

 作業室で彼らの遣り取りを聞いていたが、どうにも和やかさが感じられない。それどころか、時々怒号めいた声がする。ジョウメイは気になって作業の手を止めて様子を覗き見る。ほとんど同時にキセーが呼びかけた。

「出かけるぞ。支度をしろ」

 キセーはイヨックも呼んだ。四人で訪れたのはあばら屋が建ち並ぶ土地だった。

 その一角が騒がしい。制服姿の男たちと、野良着に身を包んだ人々が押し問答をしている。制服は鼎令の指揮下にある治安維持の役割を負う兵士たちである。彼らが出てきたということは何かが起きているということだ。ジョウメイはうそ寒い予感を覚えた。

 兵士たちが土地に続く道に立ちふさがり、壮年の男たちが何人もの野良着の男たちを背にして対峙する。彼らは武器を持っている様子はないが、武装した兵士たちを相手に気後れは見られなかった。

「今は大事な時だ。騒ぎを起こせばどんなことが起きるかわからん。即刻立ち去れ」

 兵士の一人が威圧的に言い放つ。それを引き金にどよめきが巻き起こる。その中には銘々勝手な言葉が含まれた。

「静まれ」

 それを諫めたのは、兵士たちに向き合う男の一人である。

「我らは乱暴を働きに来たわけではありません。ただ、この丘に住む者たちの名代としてやってきました。周りに集まった者たちは無関係です」

「名代と言うからには、何かを訴えかけたいということか。しかしそれなら、鼎令に伝えれば良い。何故ここへ来た」

「ここは我々の住処だからです」

 すると再び興奮したような声がわき上がる。それを男が再び諫めた。

「即刻解散いたせ」

 兵士は高圧的な調子を崩さずに言ったが、男たちは臆さない。

「小宇宙、大いに結構。それが新しい魔法である錬金術の理解に役立つのなら良い。我々とていつまでも得体の知れないものに怯えているのでは辛いのです。だからといって、白翁動乱以前より慎ましやかに生きてきた人々を追い立てるのはいかがなものか。それに対する抗議として、我ら名代がやってきた次第です」

「それはしっかり補償が為されることになっておる。心配は要らん」

「それがどのようなものかわからぬではありませんか。噂では元はホラクであった低地への移住を強いるとか。何の非もない人々にその仕打ちはひどいのではありませんか」

 男の声には熱がこもり、隣から諫められるほどであった。

「トオリ先生、どういうことですか」

 ジョウメイは険しい眼差しで騒ぎを見つめるトオリを振り仰いだ。

「彼らの住処がミクロコスモスの予定地だ」

「馬鹿な。そんな条件を出した覚えはない」

 声を上げたのはキセーだった。視線を転じたトオリは、

「本当だな」

 厳しさを保ったまま訊いた。その眼差しをまっすぐに受け止めてキセーは頷く。それで信頼を取り戻したのか、トオリは表情を和らげた。

「お前は人を追い出してまでミクロコスモスを作るような男ではなかったな」

「当たり前だ。それでは本末転倒というものだ」

「済まないな」

 険悪だった二人の間和らいだ。キセーも追及せず、騒ぎを見渡した。

「ミクロコスモスは精霊の採集だけが目的ではない。人の理解を助けることにもなる。そう伝えたはずだがな」

 ジョウメイも同意する。報告書にはキセーに直される前から書いていたことだ。一頃に比べて減ったとはいえ、未だに錬金術の関係者が襲撃される事件が起きている。それをなくすための一助になるはずだという意見も添えておいた。目の前の騒ぎは、それが無視されたとしか思えない。

 騒ぎはますます燃え上がり、野次馬たちが興奮し始めた。それを察したように名代たちは話し合いを終わりにして引き上げる。ジョウメイらもそれを見届けて工房へ戻った。

 仕事を終え、イヨックの作った賄いをそれぞれ食べている間も空気は重かった。対立をなくすつもりで行ってきたことが、新たな争いの火種になりかねない。キセーに何らかの解決策を期待したかったが、彼も考えあぐねているようだった。

 それでも、どこかで鼎令も住民を追い出すほどの無茶はしないだろうと楽観していた。それだけに、人を追い出して建物を潰している場面を目撃した時は呆然と立ち尽くしてしまった。

 その事実を告げると、

「そうらしいな。それでもやらなければならない。それを求められている」

 キセーはそう感情のない声で答えた。

「しかしこれはきっと失敗する。覚悟を今のうちに固めておいた方が良い」

 ジョウメイとイヨックにそう言い、仕事に徹するよう求めた。

 初め毎日のように行われた抗議も日が経ち、造成が進むごとに数を減らしていった。諦めてしまったのかと心配に似た気持ちになる。名代が懸念していたように、元の住人たちはホラクだった低湿地へ移されたらしい。それを本当に受け入れたのかわからない。

 造成中、キセーの工房は何も関わることができなかった。基礎となる情報を渡したら他に用はないらしく、造成に手を貸すことは認められなかった。

 それで良いのかとキセーに尋ねると、良くない、と明快な返事があった。

「ミクロコスモスは作り方を知っていればできるようなものではない。そう何度も意見を出したし、トオリも骨を折ってくれたようだが、肝心な部分を異人に任せたくはないらしい。ヒムカシのことはあくまでヒムカシの人間がやるという考えだろう。結構な自立心ではあるのだがな」

 仕事の合間に訊くと、彼は大量の書類を前にして物憂げな顔をした。鼎令の方針を頭ごなしに否定するつもりはないようだが、認める気もないようだった。

「失敗するとおっしゃっていましたが」

 完成する前から投げ出すようなことを言ったことがずっと気になっていた。

「触れて回ってはいないだろうな」

「まさか、そんなことはないですよ。今もそう思ってるんですか」

「トオリも同じ考えだよ。一度失敗した方が却って良いかもしれん。何が最良か、ヒムカシの人自身の目で見極めるには必要なことかもしれないからな」

 突き放した言葉に何も返せず、ジョウメイはキセーのもとから去った。

 進んでいく造成を尻目に、ジョウメイは個人としても工房としても何もできずにいた。その現実に向き合うと、心の折り合いをつけていき、次第に諦めへ移り変わり、やがては無関心に落ち着く。工房に持ち込まれる仕事は他にもあって、それをこなすうちにミクロコスモスのことは忘れていくことができた。

 街に光が灯り、夜もあまり寒くならずに済んでいる。街の賑わいに誘われそうになるのを堪えて、長屋がある方を目指す。ミクロコスモスの造成地はその途中にあったが、夜になると人気がなくなり、光も絶えるために気がついたら通り過ぎていることも多々あった。

今日だけは違った。怒号がその周囲で飛び交っていた。

 再び兵士たちと名代の衝突があったのだろうかと思ったが、ジョウメイが捉えた光景は予想を超えていた。闇から炎が噴き出し、音を立てて造成中の森を焼いているのだ。怒号はその火を消そうと奮闘する男たちが上げていた。

 荒れ狂う炎の勢いに呆然とし、火消しに走り回る男に突き飛ばされて我に返った。邪魔だという怒号に押し出されるように、炎上する森から離れる。それでも炎から目を逸らすことはできず、火消しの邪魔にならない場所に佇んだ。

 しかし風に煽られた火の勢いは油を食うかのごとく荒れ狂い、火消しの男たちも及び腰になりつつある。そのうち立ちこめる煙で息をするのも辛くなり、やむなくジョウメイは火事の現場から離れた。

「馬鹿なことしやがって……」

 ジョウメイは両手を握りしめて吐き捨てた。火の気のない森から出火した理由は瞭然で、その背景も理解できる。住処を奪われた者か、名代の誰かに疑いがかかるだろう。これで人々の暮らしを奪ったミクロコスモスは灰燼に帰したが、元の暮らしが戻ってくるのだろうか。焼け野原の上に再び家を建て、土を耕し、営みを続ける。それが焼き尽くされた土の上でできるのだろうか。

 ミクロコスモスは近くの建物にも被害を及ぼしながら二日間燃え続け、鎮火した。その翌日早くに訪れた時、ジョウメイは何か大きなものを失った気分になった。

 どこかから植林されたばかりの木々は焼き尽くされ、土も真っ黒な色を晒している。まだ焦げ付いたような臭いが立ちこめて、風に吹き散らされても後から後から立ち上る。人が住めるようになるまで時間が必要だろう。

 夏と秋を超えて冬を迎える頃には臭いも落ち着き、雑草と共にどこからか飛んできたのであろう精霊が作る第一質量を見つけることができた。それでも人は寄りつかない。家を建てようとする人はおろか、様子を見に来る人も皆無であった。

「大丈夫か」

 不意に声をかけられてジョウメイは息を呑んだ。

「ああ、何だ」

 振り向くとトオリが立っていた。安堵から出た声に、彼は苦笑した。

「どうしたんですか。仕事は良いんですか」

「お互い様だろう。キセーに言われて来たんだが」

 時間を見つけてミクロコスモスの跡地に来ていること自分から話したことはないが、キセーは何を手がかりにしたのかしっかり見通していた。彼はジョウメイの行いを良いとも悪いとも言わなかったが、トオリを寄越すあたり心配は感じていたのだろう。

「あまり入り浸るなってことですか」

「そう言われたわけではない。私自身の心配だよ。キセーは気が済むまで見つめていれば良いと言うだろうが。別に工房に損害をもたらしたわけでもないようだからな」

 キセーの放任ぶりが少し心地よかった。

「せっかく森がなくなって更地になったのに、誰も寄りつかないんですね」

 焼け野原を見渡すと冷めた気持ちになる。その心のまま口にした言葉は自分自身の心をちくりと刺す。

「お前らしくない言いぐさだな」

 トオリは嫌悪感を隠さなかった。すみません、と謝ったが、迷いから来る気持ちはぬぐいがたい。ふと、トオリは、

「言いたくなる気持ちもわかるがね」

 声を和らげ、ジョウメイの隣に立った。そうですか、と応じると、トオリも同じようにミクロコスモスが灰燼に帰した事実に心を痛めているのを感じることができた。

「誰が火を放ったんでしょう。森を燃やして何をしたかったんでしょう。森を燃やしたところで、元の暮らしが戻ってくるわけではないのはわかっていたはずなのに」

「そうとも限らないさ。錬金術の全てを憎んだり恨んだりしていたら、火をつけて象徴が燃えていくのを眺めるだけで充分に感じることもあるだろう」

「象徴、ですか」

「ミクロコスモスはエボロスにおいてアルケミー系魔法が定着するために不可欠だった。それがなければエボロスにおける発展はなかっただろうし、この国に渡ってくることもなかったはずだ」

 アルケミー系魔法発展の礎になったのだから象徴なのだとトオリは締めくくった。火をつけた犯人にどこまでの知識と考えがあったのかわからないが、象徴を攻撃したことは旧と新の間にある感情が頑ななものになる。融和や理解が遠のくのがわかった。

「俺はこんな事態を望んでいたわけじゃありません」

 再び焼け野原を眺め、言った。長くミギョウ系魔法が使われてきた国であっても新しい魔法が定着する土壌はあると信じていたからこそ、ミクロコスモス造成のための情報集めに奔走したのだ。

「多くはそう考えているよ。鼎令も早く新しい魔法を定着させなければならないと焦っていたから、人々の反発を招くことに思いが至らなかったのだろう。きっと翠ノ年が続く限り、その考えも改まっていく。うまい方向へ進んでいく」

 トオリの声には確信があった。どうしたら未来を信じられるのかと思ったが、問いただすことに意味は感じない。未来を信じることが彼の原動力であり、自分もまた同じだ。

 ふと風が吹いて思わず身震いする。それをめざとく見つけたトオリが、今夜の食事に誘った。

「良い店を知っておくと、今後のためになる」

 ジョウメイはその言葉に口説かれた。いつも粗食で済ませていて、店で出されるものとは縁が薄かっただけに持ち金が心許なかったが、トオリが出すというのなら迷わない。

 夜を迎えてからトオリが案内した小料理屋は、女将を中心に数人の給仕が立ち回るそれなりに大きな店であった。トオリを出迎えた女将は親しげな様子を見せる。彼も当然のような反応を見せ、通い慣れていることを物語った。

「昔だったら使えなかった部屋だ」

 通されたのは畳敷きの個室だった。常にざわついている店から離れて、絶妙な静寂が垂れ込める。かつてはユイヌシなどミギョウ系魔法を行使する立場の者でなければ入ることの許されなかった部屋であったらしい。そもそも狩人が入れる店でもなかったという。

「外は寒かっただろう」

 そう言い、トオリは酒を注いだ。杯を引き寄せた時の指先に熱が宿る。

「これからどうなるのでしょう。ミクロコスモスはこのまま頓挫するんでしょうか」

 ヒムカシの人に受け入れられなかった事実はある。しかし諦めて良いものではないとも感じている。

「きっとこのセキナンカでは難しいだろうが、場所を移せばできるかもしれない。今回のことで、強引に進めても反発を招くだけだというのがわかっただろう。再び何かが始まる時は、私も暴走を止められるような立場にいなければならないな」

 権力の側にいるトオリは、強引な姿勢の政治を見つめながらも尚、諦めてはいないようだった。酒を呷っても眼差しには確かなものが宿っている。

「ミクロコスモスを作るのは何のためか、理想を追う私たちもちゃんと見定めておかなければならない」

「理解のためでしょうか」

「そう。実際に効果のあることだった。しかし不充分かもしれない。しばらくは模索が続くだろう」

 ジョウメイは長い時間を想像した。翠ノ年が始まって十年足らずだが、まだ足並みは揃わず理解も進んでいない。充分な理解が浸透するまで何年かかるかあまりに不透明だが、それを成し遂げるのが、ヒムカシで初めて錬金術を日の当たる場所で学び、使う自分たちであろう。若さを全て賭けるに値すると思えた。

 トオリが理解のための模索を話したのは、自分を巻き込むための伏線であったのかと次の日に思った。珍しく昼間からトオリが工房を訪ねてきて、工房主催の私塾をやらないかと持ちかけた。

「影響は微々たるものだろうが、時間をかければ広がっていく。それはやがて大きな動きになるはずだ」

 キセーは黙して語らず、イヨックは呆気にとられた表情をしていた。二人ともトオリの言葉を否定的には聞いていないようだった。

「鼎令の方針ですか」

 ジョウメイが訊くと、放火事件があったからだ、と彼は答えた。

「錬金術を何とか理解してもらうことが必要だと、鼎令だけではない、もっと上の政治家たちも思うようになってきている。新しいものを押しつけるだけでは反発を生むのだと、わかってきたのだな」

「その役目を工房に任そうというのか」

 キセーが口を開く。

「この話に乗るかどうかは、工房主の裁量次第だ。日々の仕事で精一杯ならそれで良い」

 イヨックとジョウメイが注目する中で、熟考した後キセーは口を開いた。

「我々が来たのは、新しいものを伝え、広めるためだ。あのような事件が起きたのは力不足を露呈したことだと感じていたところだ。この国の政治を執る者たちの考えが変わってきたなら、それに協力してやるのが本来の仕事をすることになる」

 二人を見たが、同意を求めるような眼差しではない。工房助手として従うことを求めるようであった。

 次の休日から仮小屋を建てる作業を始め、塾としての体裁を整えていく。工房の仕事を終わらせた火点し頃に集まってくる塾生は数人で、翠ノ年以前は狩人など魔法の周辺で生きてきた人々であった。好奇心より順応の必要性を感じているような真面目さがあって、知識を伝えるのもやりがいを感じた。

 塾生たちに訊くと、彼らの家の中でも錬金術を学ぶことは議論を醸すことになっているようで、中には内緒にしている者もいるということだった。そのことを嘆いても始まらず、人々に信頼してもらうよう少しでも学びを深めてもらうのが新しい仕事であった。

 塾を始めてから一月が経つと工房の中も慣れてきて、仕事との両立も苦ではなくなっていく。三日おきに開かれる塾に、塾生たちもよくついてきてくれて、利益を出さなければならない日々の中で良い気分転換であった。

 いつものように仕事を終え、塾を開く準備をしている時に訪う声があった。それぞれが仕事を抱えているところであったため、三人で顔を見合わせてにらみ合う。やがて根負けしたジョウメイが外に出た。

「何か」

 余計な仕事を増やされた気がして、不機嫌な声になった。その相手がわずかに身を引いたようであったから、申し訳ない気分になって声を改める。

「何か、用事か」

 その相手がまだ十五にもならないであろう少女であったから、ジョウメイはいっそう済まない気分になった。できるかぎり姿勢を低くし、声を和らげると、錬金術の私塾のことを訊いてきた。

「ここで錬金術の私塾を開いていると聞いたのですけれど」

 入塾希望者は、現在通っている者たち以来現れていない。それも全員年を経た男である。塾生たちの中にいたら目立つであろう相手を前にして言葉に詰まる。

「入塾の希望か」

 ややあって返事をしたが、

「いいえ、女は駄目でしょう。それよりジョウメイさんという方がここで教えていると聞いたので」

「それは俺だが」

 答えながら少女と記憶を重ね合わせる。地味だが真新しい櫛で結い上げた髪を飾り、着ているものも古くない。新しいものに警戒を示しそうな家の出に見えたが、お付きの者も周りにはいない。

「あなたを呼んでいる人がいます。忙しいようなら、また日を改めますが」

 少女に言われていくつかの顔が思い浮かんだ。未だに生死が確かめられていない者たちである。

「いや、会える時に会うのが良い。中で待っていてくれ。良かったら講義を聞いていっても良いが」

 重ねて誘ったが、少女の返事は変わらなかった。男たちの中へ入っていくことより、前へ立つことを避けているようで、それが過ぎた慎みにも見える。

 あるいは当然の考えなのかもしれないと思った。自分たちがずっと分限を超えたことをしないよう教えられたように、性差にも分限は定められていた。少女の分限は学ぶことであろうが、慎みの奥に微かな欲求も見て取れた。

 それに触れようとすれば彼女の心を抉ることにもなりかねない。ジョウメイはサチと名乗った少女を奥へ案内し、塾での講義が終わるまで待つように言った。

 遅い時間になって、ジョウメイはサチを送ってくると言って外へ出た。提灯などの光源が必要になると思ったが、サチが案内する道には街灯が整備されている。ほんの一年ほど前から、鉄柱の上に光が灯るようになって、提灯の準備も必要なくなった。

 たどり着くまであまり歩かなかった。裏店が建ち並ぶ通りではあるが、周囲とは一線を画す存在感を放つのは、漏れてくる光のおかげだろう。

 サチは勝手口を開いてジョウメイを招き入れた。彼女の声に応じて現れた相手は、何となく予測のついた人物であった。

「セキナンカに残っていたのね。出ていく人の方が多いっていうのに」

 その声が自然と記憶を遠くから引き寄せてくる。始めて出会った頃から同じ記憶を持つに至った日々、別れることになったことまで鮮明に思い浮かび、目の前の現実へ結実する。

「ここで錬金術をやると決めたんだ。お前もここで働いていくんだな、スズシ」

 久しく呼べずにいた名を口にした時、その名の持ち主の表情は華やいだ。

「まあね。ジョウメイも元気そうで良かった」

 少し気怠そうな、気の置けない感じの声で呼ばれると、時の流れと同時に絶えてはいなかった縁を感じる。訊きたいことがいくつも思い浮かんだが、今は見つめ合うことしか要らなかった。

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