第8話 再会

 港に近い通りでは、気温の高まりに合わせて潮の香りが強くなる。初めの頃は生臭く感じて苦手だったのが、いつの間にか港町ソウビの個性と思えるようになってくる。俯瞰すると境界線が末広がりになり、ソウビ港が要に当たる扇形の街であるソウビは、人と建物の密集の具合が故郷では考えられないほどである。

 外は朝から気温が上がったが、会議所の中は日差しが適度に遮られ、錬金術の何らかの作用か空気が少し冷えている。汗が乾くほどではないにせよ、自然の風に頼らず部屋の温度を操れるのは驚異的だった。

 翠ノ年が始まった翌年に竣工したという会議所は、国産の木材を異国の技術と構造で以て建てられている。ユイヌシなどの魔法に携わる人々の屋敷の部屋が障子や襖など動かせる仕切りで構成されていたのに対し、異国風の建物の仕切りは動かせない。出入り口が一つしかないことに息苦しさを感じたこともあったが、五年も経てば慣れてきて、セキナンカで見られる建物の素朴さが懐かしく思えるほどだった。

 その一室に集まった人々を端の席から見渡すと、自分が歩んできた道が数奇でありながら確かなものだったのだと思える。錬金術に直接携わる者だけではなく、実業家や役人、異人など出自や立場を異にする人々が居並んでいる。果たすべき役割は違うものの、目標は皆同じである。

 その目標を持つのは、この場に集まった十数名だけではない。名簿上は一四〇名となっている。ここで目にする人々は中心人物であり、代表であった。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。いつかはこのような日が来ると信じておりました」

 満を持して口を開いたのはトオリである。彼は勧業試験場の場長としてこの場にいる。ジョウメイはその部下としてここまでやってきた。

「白翁動乱を経て、政体が変わって十三年が過ぎております。賛否はありましょうが、変化はもはや逆行できないところまで進みました。良きにつけ悪しきにつけ、王族が築いた一二〇〇年を過去のものとするのが我々の選択でした。その結果多くの新しいものに触れ、それが新しい国の発展につながったと言えるでしょう」

「だが、皆がそれを受け入れたわけではない」

 トオリの朗々とした声が途切れる一瞬に、厳かな声が落ちてきた。声に惹かれてジョウメイはその相手を見遣る。いくつかの工場を持ち、実業家として成功を収めたエイジュという男である。計算高そうな眼光鋭い壮年の男だが、実績を知るジョウメイにとっては頼りがいの象徴のように見えた。

「その通りです。かつて私は、このソウビで工房街を建設する際反対派に襲われて傷を負いました。その後セキナンカで仕事をしておりましたが、造成中のミクロコスモスが放火されるという憂き目も経験しました。白翁動乱は多くの死者を出した戦でしたし、新しい魔法も人々に受け入れられているとは言いがたいのが現状です」

 脳裏に灰燼に帰した土地が思い浮かぶ。元々住んでいる人々を追い出してまで造ろうとした人工の森である。異国でできていることが、この国には根付かないのかと絶望的な気分になったのを思い出す。

「それをどうにかするために集まったのが我々でしょう」

 エイジュよりもかなり若い声が応じた。三十歳になったばかりながら異例の速さで大蔵省の次官に就任したハンラウという役人である。

「十三年は決して短い時間ではない。だからこそ対立を超えて次へ踏み出さなければならないということですね」

 ハンラウの隣に座る大柄な男が口を開く。ギタクという男の声は、顔に違わず強烈な印象を持って響く。

「翠ノ年招魂社、実に意義のあることだと思います」

 トオリが言うと、

「その周りの杜に精霊を棲まわせるというのも良い。ミクロコスモスはまだ誤解や対立を生みやすいものかもしれませんが、鎮守の杜という形を取れば自然に受け入れられるでしょう」

 エイジュが後を引き継いで肯定する。勧業試験場が出した案が、実績のある人物に認められただけで大きな力を得た気がした。

「招魂社もミクロコスモスも、数年がかりの計画になるでしょうが」

 最後まで協力することはできるかとトオリが全体を見渡して問いかける。

 すぐ隣のジョウメイには目が向けられなかったが、ここに来た以上答えは決まっている。それぞれが翠ノ年招魂社創建委員会参加への意思を表明する中で、ジョウメイも胸の内で意思を告げた。

 帰り道でトオリが改めて意思を尋ねてくる。言われるまでもないことであったが、

「勧業試験場は工房の技術や法律指導を第一の目的にしている。ミクロコスモスに携わるからと言って、他の仕事を免除するというわけにはいかない。今まで以上に忙しくなるが、それで良いな」

「ミクロコスモスを造り直そうと言って俺を誘ったのはトオリ先生でしょう」

 勧業試験場での関係を忘れて返事をしたが、それに合わせたようにトオリも相好を崩す。セキナンカで感じたような緩やかな関係を思い出した。

「やっとソウビに来た意味を果たせるんだから、問われるまでもありませんよ」

 上司と部下の関係になる前のように笑うと、

「そう言ってもらえれば頼もしい」

 トオリもまた爽やかな笑顔を返した。

 ソウビの勧業試験場は他とは違って港から離れた郊外にある。勧業試験場は他に三つあり、どれも港のすぐ近くに置かれている。進んだ技術をいち早く採り入れるためというのが理由で、技術力の向上を主眼に日々活動している。

 トオリが場長を務めるソウビは他の勧業試験場とは違い、錬金術の基礎である精霊採取の方法を追及する道を進んでいる。それぞれゴーレムや新しい素材の開発で実績を挙げているのに対し、ソウビに目立った実績はない。代わりに精霊採取の体勢確立のため自然環境保護に重きを置いている。ミクロコスモス造成はその集大成であった。

 山際に設けられた試験場に戻り、ジョウメイとトオリが行ったのは生息させる精霊の選定であった。国にはミクロコスモスをソウビの土地に造成するという計画を提出しているが、三十五種類の精霊を生息させるという条件が示された。世界最多の数字を達成する目処を建てなければ、招魂社の周りに広がる杜はただの鎮守の杜になってしまう。

「難題だな」

 九十種類の精霊を網羅した書物を前に、一通り読み終えたトオリは嘆息した。精霊によって数に差があり、希少種とそうでないものがあるものの、全種類をミクロコスモスにぶち込めという指示の方が単純でやりやすいかもしれない。

 仮にそんな指示があったとしても、実現は不可能だろう。精霊同士の相性もあるし、自然に結びつくことで有害な第一質量を作り出してしまう例もある。用地は郊外とはいえ民家の近い場所だ。万に一つも起きてはならない事故だろう。

「三五種類とは、現在の技術でミクロコスモスに棲息させられる限界の数だそうです」

「そうだろう。だからこそまだ世界のどこも到達していないんだ」

 それが実現できれば歴史に名を残せる。イヨックの言葉が思い出されたが、達成は遠い道のりであるようだった。

「どんな技術に主眼を置いてミクロコスモスを造成するか、方向性を決めないと動きようがありません」

 目的の一つは、ヒムカシにおける錬金術の理解である。鎮守の杜の形を取るのは、自然に足を運びやすい環境を整えるためである。

 しかし計画を認める政府はそれだけでは納得しない。三五種類の精霊を何のために使うのか、政府の考えが知りたくなった。

 白翁動乱で命を落とした人々を祀るための翠ノ年招魂社と、その周囲の鎮守の杜を造ることを司る創建委員会は、まだ官民有志の団体に過ぎない。創建局として政府内での活動を許されるまで一年を要した。

 主要な人員は変わらないが、実際の建築と造成のために技術を持った更に加わる。多くは現場で汗を流す人々だが、工房一つが参加している例もあった。

 その人々の名簿を眺めるうち、ジョウメイは一つの名前に目を留めた。

 その一瞬、懐かしい幻影が脳裏に思い出された。

「場長、工房の人員のことなんですが」

 呼びかける間もジョウメイは、その短い名前を読み返した。どのように読んでも間違いはない。

「どうした、立ちっぱなしで」

「ジケイ、というのは間違いないですか」

「そのはずだ。確かめてみるか」

 ジョウメイは頷いた。トオリは何か言いたそうにしたが、それ以上は訊かず、数日待つように言った。

 返事は二日後、トオリの部屋でジョウメイにもたらされた。その時ソウビの中にある工房を訪ねることを申し出た。

「それは構わないが、用向きは教えてくれ。ジケイというのは何者なんだ」

「俺の仲間だった人です。白翁動乱の時に死んだと思っていましたが」

「そうか。実は同じことを向こうも言ってきている。本人かどうか確かめたいそうだ」

 相手も会うことを望んでいる。その時どんなことを話そう。相手が知っているジケイではないかもしれない。そんな心配も頭をよぎったが、ときめきが大きく優っていた。

 次の休みに待ち合わせ場所とした馬車の停留所へ向かう。潮風の遠い郊外の停留所で、蝉時雨がうるさいほどだった。

ジョウメイと共に何人か降りたものの、すぐに散ってしまって一人取り残される。

寂寥感にとらわれたのは一瞬だった。日よけの下で長椅子に腰を下ろす男がいる。

 細身の洗練された出で立ちで、袖口の狭い服がよく似合う。一瞬知らない人間のように見えたが、横顔には確かに見覚えがある。

 どんな言葉をかけよう。どんな顔をしていよう。思いを巡らせている内に相手の方がこちらを向いた。

「ジョウメイか」

 記憶にある声よりも低くてざらついて聞こえたが、底にある落ち着きは変わりないようだった。

 何か返事をしなければいけない。せっかく呼びかけてくれたのだ。これが十五年ぶりの再会なのに、何も言えない。

 嬉しくて、生きていてくれたことが嬉しくて。

 視界がにじんでいく。瞳が潤んでいく。目頭が熱くなっていく。

「元気だったか」

 溢れそうな感情に翻弄されるジョウメイに対し、その声はあくまで静かに響く。夢でも幻でもなく、声の主は確かにいる。

「ああ……」

 辛うじて返事をして、他に言葉が出てこなかった。

 そこで感極まって涙が流れる。とっさに目頭を押さえる。声が漏れないようにするので精一杯だった。

「こんなところで泣くな、大人だろう」

 柔らかく諭され、ジョウメイは涙を拭いて前を向く。少し見えやすくなった視界の中に彼がいる。

「ジケイ、なのか」

 彼は頷いた。

「十五年か。お前、大きくなったな」

 かつて見上げなければならなかった相手を、今日はまっすぐ見据えることができた。彼に言われるまま隣に座り、自分の十五年を語る。一通り語った後ジケイが漏らした感想は、俺と似ているな、というものだった。

「俺も工房建設をやらされたんだ。ソウビとは違う場所だったけどな」

 そうして語られたジケイの過去は、セキナンカを離れて住み慣れない土地へ移住することから始まった。家族が欠けることはなかったものの、食糧難や病気で周りの人々は死んでいき、身内でも諍いが絶えなかったという。

「そんな目に遭ったのに、何で錬金術を」

「錬金術が入ってきたから競争が生まれて、それで皆が焦らされた。オドヤやジンタもそれに巻き込まれて死んだ。そのことは忘れない」

 ジョウメイは黙って頷いた。

「ただ、死にかけていた俺たちを救ったのも錬金術だった。寒さを防いでくれたり、食糧の収量を増やしてくれたり。ミギョウ系魔法みたいに、使うのに時間と手間がかかっていたら、俺は今頃ここにいない。あの頃に俺は、ミギョウ系魔法の時代が終わったことを知ったんだ」

 仲間の死に涙を流しながら錬金術を頑なに認めようとしなかった男が、今は穏やかに錬金術の可能性を認めている。ジョウメイは互いに十五年の時を過ごしていることを思った。それだけの時間が考えを変え、新しい時代の中に生きる自分なりの道を見つけさせたのだ。

「ミクロコスモス造成に協力するのか」

 一番知りたかったことを、ジケイはあっさり認めた。

「昔セキナンカでやろうとして失敗したことだろう。あの時は残念だったが、燃やしてはいけなかったものだ。今後のために必要なものだよ」

 視線の先が揃っている。かつて当然だったことが今は特別であった。

 対立や疑問を経てたどり着いたことだからこそ、揺るぎなく頼もしいものに思えた。

「俺はずっと、墓参りができていなかった。オドヤやジンタには寂しい思いをさせてきたんだろうし、トマラもちゃんと弔ってやれないままだ」

 何気ない言葉の中に、消息を掴めなかった最後の名前があった。深い傷を負ったところを見ていたから半ば諦めていたことだが、事実を確かめると胸が痛む。

「遺体を埋めてやることもできなかった」

 責められても構わないと言うような、神妙な顔でジケイは言葉を結ぶ。皆が生きるのに必死だった時、最期を看取っただけでも充分だとトマラなら言うような気がした。

「仕事終わったら少しは時間があるだろう。その時スズシにも会えるかな」

 その何気なさに、今度はジケイが驚いた。スズシが生きているとは思いもよらなかったらしい。

「色々あったようだけど、元気にしていたよ。今はセキナンカにいる。ちゃんと働いているから、心配は要らないよ」

「そうか。でも俺は、まだ会わない。スズシと親しかったわけじゃないし、いきなりは会えない。トマラのことでもひどいことを言った。お前からまず、俺が生きていたことを伝えてくれ」

 一つ間を置いてほしいということだろう。得心して頷く。

「終わったら皆の墓参りをしよう。オドヤにも謝るから」

 ジョウメイは心を揺さぶられるような思いがした。セキナンカにいる間も巡り来る仲間の命日を一人で迎えたが、スズシやジケイのことは考えなかった。諦めたら本当に二人が死んでしまう気がしたからだ。そのおかげかどうか、二人は生きて戻ってきた。

「約束するよ。ずっと一人でやってて、寂しかったんだから」

「そうか。俺は謝ることばかりみたいだな」

 ジケイは空へ視線を投げた。日が暮れ始めた空は、薄く橙に染まっていた。


 造成のための用地に選ばれたのは港から遠く離れた郊外で、潮風が届かない分樹木には良い環境に思われた。人の手がほとんど入っていない原野であり、樹木を植える前に地ならしが必要であった。

 田畑を耕すのと同じ要領で、多くの人夫を募って鋤によって土を砕いていく。計画書には森林だけでなく小川や池の姿もある。水の精霊が棲息しやすいようにするためという、エボロス出身の異人の意見によるものだった。

 人夫たちの作業の合間を縫い、ジョウメイは用地を異人の案内で歩いた。ミクロコスモス造成のために協力を請われた工房主でもあるマイヤールである。既に老齢の域に入っている彼は小柄で、夏の日差しに耐えられるか心配だったが、歩道として整備される予定地を歩く足取りはかくしゃくとしていた。

「三五種類の精霊を棲息させるという構想でしたが、それが叶うかどうかは今後の管理次第でしょう。用地や環境整備の段階では充分可能と見ます」

 散歩をしながらする世間話のように、マイヤールの声は何気なかった。口調がもっと親しげなものなら祖父と話をしている気分になれたかもしれない。

「勧業試験場の仕事ということですね」

「そう。ソウビの試験場は、工房や他の試験場が技術の向上に努めるのとは一線を画す方針で働かれている。人々の啓蒙を目標とするのは意義のあることだし、ミクロコスモスの目的の一つにも適っている。そういう組織なら充分管理していけるでしょう。その責任者はジョウメイ、あなただと聞きましたが」

「その通りです」

「頑張ってもらいたいものです。技術を追及することと探究心が肝要とはよく言われますが、その陰で大元の自然を労る気持ちが蔑ろにされることも多い。それではいけない。自然は常に正しいということを忘れてはなりません」

 自然は常に正しいとは、マイヤールが提出した意見書につけられた題でもあった。母国ではアルケミー系魔法発達の陰で自然環境の破壊が問題となっていたが、その解決方法は常におざなりであったという。

 その結果、徐々にアルケミー系魔法の根本である、精霊が棲息する自然環境が力を弱め、魔法そのものに悪影響を及ぼす事態となる。そうした状況を憂えた魔法の使い手たちが復興に力を注ぎ、ミクロコスモス発展の足がかりとなった。マイヤールが参加していた計画の合い言葉が、題に使われている。彼がどんな思いで協力してくれているかよく伝わってきた。

 一通り歩いた後に、用地の外に設けられた休憩所で腰を落ち着ける。男たちが働く喧噪から離れ、穏やかな時間が翠蔭の下で流れている。

「小川や池にはこのような水を注ぐそうです」

 ジョウメイは竹筒に入れた水をマイヤールに渡した。彼の目から見て何か不都合があれば教えてもらおうと思ったが、マイヤールはやおら竹筒を傾けて飲み込んだ。

「良い水です。腹を下す心配もないでしょう」

 彼があまりに無警戒だったので動きを忘れてしまう。どうかしましたか、と問われて素直に思いを口にすると、彼の方が不思議そうな顔をした。

「味見をして問題なければ精霊もちゃんと棲息できるということです。それを確かめるのにこれが一番わかりやすく手っ取り早い方法ということです」

「それにしても、生水ですよ」

「精霊も生きています。同じ生命として、危険があるやもしれぬ水など与えられません」

 きっぱり言ったマイヤールに、返すべき言葉はなかった。同時にミクロコスモス造成の助言者として招いたトオリの眼力は確かであったと思った。

 休む間話題に上ったのはトオリをはじめとする今回の計画に携わる人々のことであった。その中でジケイの話が出た。ジケイが仕えているのは他でもないマイヤールであった。

「よくやっていますよ。私の工房で働くのは八人で、その中で唯一のヒムカシの人ですが、うまく溶け込んでいます」

「皆母国よりあなたについてきたんですか」

「私が連れてきた者と、ヒムカシに来てから私の工房を選んでくれた者とがいます。始めヒムカシの者を雇うつもりはありませんでしたが、本人が熱心に頼み込んできたもので」

 マイヤールは苦笑を見せた。ジケイがどれほどの熱意で以て彼を翻意させたのか、うかがい知れた。

「ジケイとは同郷だと聞きましたが」

 マイヤールに訊かれ、翠ノ年以前のジケイを語る。錬金術を敵視していたことはやはり意外だったらしく、

「とてもそうは見えませんでした」

 記憶を探るようにためらいがちな声を返した。

「俺にとっても同じです。どこかで生きているとは信じていました。でもまさか同じ道を歩んでいるとは思わなかった。白翁動乱の頃から違う考えを育てていたと思っていましたから」

「あまり翠ノ年以前のことは話したがらないので、私たちは知りませんでしたが」

「ジケイもうまく新しい時代を生きていこうとしているんです。俺にはそのことが嬉しいです」

 違う生き方を選んだからこそ別れてしまった者を知っている。道が違えば、家族といえども離れ離れになってしまう時代であった。それに比べれば希薄であったジケイとのつながりが、錬金術によって復活した。かつての知り合いが少なくなっていく時代にあって、時を超えて知己と巡り会えた。これほど心強いことはない。

「エボロスとヒムカシの間には多くの違いがある。その違いがわからなかったり戸惑ったりしたら、ジケイの出番です。彼が間に立って、工房周辺の人々との衝突を避けることができたこともあります。工房の職員としてはもちろん、それ以外の場所でもなくてはならない人です」

「反動的にならなくて良かった」

 ふとこぼれ落ちたのは、有り得たもう一つの未来であった。ジケイの場合追い詰められた時に救われたことが錬金術への敵愾心を和らげ、その道へ進ませる力になったようだが、逆方向へ作用していたことも有り得ただろう。

「さっきまでの話を踏まえると、ぞっとしない話ですね」

 マイヤールの言葉に頷いた。

「しかし、私たちの前にいるジケイは、錬金術の徒となったジケイです。有り得たもう一つの未来を語るなど無意味なことでしょう。人間は常に可能性を一つしか選べない。ジケイが錬金術の徒となることを選んだのなら、その事実を以て彼と接するだけです」

 マイヤールの言葉で、仲間の死を巡って対立した過去が大きく遠ざかるような気がした。今のジケイは再び手を取り合って同じ道を進む同志なのだ。

 ふとマイヤールを呼ぶ声が聞こえた。声の方を見遣るとジケイが歩み寄ってくる。

「トオリ様がお呼びです」

 心当たりがあるように、マイヤールは落ち着いた所作で立ち上がった。

「造成のことについては、またいずれ机の上でお話ししましょう」

 マイヤールは歩道のために均された土の上を歩いていった。その背中を見送るジケイは、何を話していたのか訊いてきた。

「この原野が、計画通りにいったらどうなるのか話したんだ。それから水のこととか」

「何だそれ」

 マイヤールが生水をためらいなく飲み、危険がないかどうか身を以て確かめたことを話すと、

「あの人らしいな。理想を追う人だから、下はひやひやしているよ」

「いつものことなのか」

 ジケイの苦笑に温かなものを感じて訊くと、もう慣れたことだ、と彼は答えた。

「ミクロコスモスに入れる水を飲むのはいつもやっていることだ。本国ではそれで何度か水あたりを起こしたこともあるらしい」

「それでも姿勢を変えないのか」

「優しく、信念のある人だよ」

 生水を飲む理由は目に見えず、意思の疎通も適わない相手への気遣いであった。がむしゃらに利を追い求める人ではないからこそ、生真面目なジケイがうまく働けるのだろうと思った。

「お前は士になったんだったな。工房で働いたのなら師になると思ったんだが、そうしなかったのか」

 ジケイの問いには少し堅さがあった。

「士になったらミクロコスモスの造成に関われると誘われたんだ。どういう働きをするのか知っていたし、工房で働くことと同じぐらい意義があると思うからな」

「そうだな。俺のような人間を変えるかもしれない。俺はこの道を選んだことが間違いとは思わない」

「それは俺も同じだよ」

 同志であることを認め合うことができた。かつては当然のことだったから敢えてやらなかったことを、離れ離れになってから渇望してきた。離別はあっても、傍に残ってくれる人がいるのが何より嬉しかった。


 翌日マイヤールは言葉通り、勧業試験場に出向いて机上でミクロコスモスの全体像について話をしてくれた。図面を広げ、どこにどんな精霊を棲息させ、そこにはどんな地形が相応しいのか、根拠をもとに説明していく。

 訪ないを告げられたのは、それが佳境に差しかかった頃であった。

 後にするよう言ったが、その相手がコウザエを名乗っていると聞いては放っておけない。不審に思いながら外で待たせている相手に会いに行く。門の傍には、多少縮んで見えたが確かに父がいた。

「ここがお前の城か」

 敷地内に踏み入れ、勧業試験場の建物を見遣りながら訊いた父にジョウメイは苦笑した。

「違うよ。俺はここで働いているだけだ」

「何だ、つまらんな。しかしあの錬金術が、これほど立派な建物を構えるようになるとはなあ」

 まるで山のようだ、と父は言った。父にとっては今も昔も仕事場と言えば山であり、そこから稼ぎを得ているのは変わりない。

「どうしてここに。シオウから遠いだろう」

 シオウからソウビまで、高い山もあれば広い川もある。最近は道も整備されたから行き来もしやすくなっているが、それでも数日がかりであることに変わりはない。

「最近は異人も増えただろう。それで肉を食べることに抵抗が少なくなってきているようでな。シオウ辺りで穫れるキヨンなどが人気らしい。それで商談に来たんだ」

 父が人を相手に商談をするというのも想像がつかないが、変化のただ中を生きる父なら、仕事のやり方も変わるだろう。

「お父が商談ね」

 それでもあまり想像がつくものではない。自分が知る父は、槍を携えて野山を駆けまわる男であった。相手はもっぱら獣であり、他人との交渉ごとは他人任せという印象だった。

「出来るのかとでも言いたそうだな」

 父の顔にも苦笑が浮かんで、一瞬懐かしくも新鮮な気持ちになる。それはオノニ村で暮らしていた時のように和やかな空気で、長い時間をかけて家族は家族へ戻っていったのだと思った。

「皆は元気なのか。お母は。リンナはもう結婚するって言うし、ゲンはやっぱり猟師になるんだな」

 文の遣り取りで知ったことを、次々に訊いていく。子どもたちがそれぞれの道を見つけて手を離れたことで、母は少し気の抜けた日々を過ごしているらしい。しかし無気力になったのではなく、張り詰めたものを持ち込むことがなくなったということだ。そのおかげで家の雰囲気が明るくなったと、いつかの文には書いてあった。

「皆元気にやっている。それぞれうまくやれているから、心配は要らん」

「ラウはどうしてる」

「立派に俺の片腕として働いてきた。そろそろあいつに仕事を譲って、俺は隠居しても良いかもしれん。ラウにゲンを育てさせるのも良いな」

 そう語る父の表情は希望を感じさせるものであった。カモス狩りから肉や肝を得るための狩りへと移り、目的が大きく変わってしまったのが白翁動乱以後の狩りである。それさえも受け入れられずに仕事を捨て、結局どこにも落ち着けず細民街と呼ばれるかつてのホラクのような場所へ流れ着く者もいる。

 彼らを状況や時代の犠牲者と見る向きもある。それを作り出したのが錬金術だと責められたら言い返せない。それでも父のように、葛藤の末自らの生き方を見つけ直した者がいる世の中である。陰へ落ち込んだ者の悲哀より、報われた者の努力が光を放つ方が健全であろうし、そうであってほしかった。

「そうだ、ジケイを覚えているか」

 ふと思い出して訊くと、父は顔を曇らせた。狩人であった頃から知っていた少年が行方知れずになった時は、彼も悲嘆に暮れていたのだ。

「あいつはどうなったんだ。さすがにもう諦めているんだが」

「最近会ったよ。今はソウビにいる」

 父はすぐに返事をしなかった。言葉を噛み砕くのに時間がかかったようで、

「本当か」

 やがて、それだけを言った。

「それも錬金術師になって、今は一緒に仕事をしてるんだ」

「あいつが錬金術師になったのか。信じられないな。あれほど頑なに錬金術を拒んでいたのに」

「時間が経って、考えが変わったみたいだ」

「皆変わっていくのだな」

 自分自身にも重ね合わせているのか、コウザエは感慨深げであった。

「安心できるなら、もう隠居すれば良い」

 ジョウメイは気遣いから言った。目に見えぬ疲れが父をむしばむ前に、肩の荷を降ろしてほしかった。

「考えておくが、それはまだ先だ」

 疲れをにじませながら、しかし声音は不敵だった。まだ若い者に自分が切り開いた猟場を任せるつもりはないらしい。

「そうか。でもあまり無理はしないでくれ。お母にも心配はかけるなよ」

 家を空けている長男として、それだけは言っておきたかった。仕事の目的を変えた錬金術に、長男が関わっているということで葛藤もあっただろうし、周りからも何かを言われただろう。それらを乗り越えた時が、父の隠居の瞬間であるのかもしれなかった。

 会話が途切れた瞬間を狙ったように、父は立ち去ろうとした。それを呼び止めたジョウメイは、一度は話さなければならないと思ったことを口にする。

「お父、近いうちに会ってほしい人がいる」

 その言葉の意味を、父は即座に悟ったらしい。シオウまで一緒に来られるのか、と訊いてきた。

「きっと俺の仕事が落ち着いてからになると思う」

「いつでも良い。ちゃんと顔を見せろ」

「それは良いよ。ただ」

 ジョウメイは言いよどんだ。彼女の出自とその意味を思うと気軽には言えない。

「何だ、事情があるのか」

「今はもう関係ないと信じたいけど、ホラク出身の〈エヒト〉だったんだ。フムクリ処理をしてきた」

 やはり父は顔色を変えた。廃棄物処理を、〈エヒト〉がやるような仕事だと言って拒んだような人である。それは狩人として普通の反応であっただろう。そのような感想を持たずに仕事を続けた自分の方が普通でなく、周りに誰もいなくなってしまったのも仕方のないことだ。

「その人と所帯を持つつもりか」

「ずっと前からそのつもりだった。その人に親兄弟はもういないから、新しいつながりはほとんどできないけど」

「変われば変わるものだな」

 その言葉の真意が読めずに、ジョウメイは戸惑いがちの返事をするにとどめた。

「十五年前の、白翁動乱の前なら俺は反対していた。その頃のお前は子どもだったから、何が何でも引き離そうとしただろう。トマラという前例があったからな。大事な子どもを、ホラクに落とさせるわけにはいかないと思ったはずだ」

「今はどう思うんだ」

 トマラの死も、スズシが暮らしたホラクも、全ては過去のものだ。痕跡はほとんど残されていない。

「〈エヒト〉と聞いて、手放しで喜ぶことはできなかった。〈エヒト〉が穢れを身に宿していることはずっと聞かされてきたことだからな。もうその身分はないとはいえ、〈エヒト〉とその仕事を知っている以上、警戒したり蔑んだりする者は多いはずだ」

「お父にもその気持ちはあるのか」

 父は一瞬の間を置いて、ある、と答えた。

「だがな、俺は築き上げてきたものを捨てられずに狩人として生きていくことを選んだ。お前は新しいものを最初から築いて、立派に仕事を得られるまでになった。お前はこれからも同じ姿勢で生きていく自信があるか」

「あるよ。もちろんだ」

「だったら何も言うことはない。俺は古い時代から離れられなかった。お前は新しい時代に踏み込んだ。そんなお前なら〈エヒト〉などという身分を忘れてその人と暮らしていける。その先は俺が口を出すことではない」

 不意に父との間に小さな溝が生まれたような気がした。障害にもならない、飛び越えようと思えば飛び越えられる幅だが、確かに存在する隔たりだ。

 古い価値を守る父は老いていて、それがラウやゲンに引き継がれるとしても、新しい価値を大事にする者が増えていく時勢には抗えず、何十年かすれば一切が新しい価値に塗り変わっていくだろう。そのような将来が見えてもなお、ジョウメイには立ち去ろうとする父の背中が大きく見えた。

「シオウまで遠いだろう。どうやって来たんだ」

「馬車と船を乗り継いできた。帰りもそれで行く」

「一晩ぐらい泊まっていったらどうだ。ソウビには色々あるぞ」

「それほどの金もないし、あまり長くは離れられん。今度はお前がシオウに来い。リンナが結婚したら、家族が揃うことは今以上に難しくなるからな」

 こうして家族は小さく散らばっていくのかと、少し寂しい気持ちになる。かつて自分の思いを追及して自ら離れておきながら勝手だと思ったが、気持ちが抑えがたいのは未だに親兄弟から心が離れていない証拠だろう。

 見送りを拒む父を説き伏せて通用門までついていく。彼は守衛と比べて頭一つ分は小さく肩幅も狭かったが、野山を駆けまわって鍛えられた足腰の強さでは引けを取らないだろう。古い価値を守る男なりの気強さが足取りに表れていて、一二〇〇年前から続く伝統を体現しているようでもあった。

 ミクロコスモスより先に翠ノ年招魂社が完成し、『苑』としての体裁も整いつつあった。『精霊の杜』と呼ばれることに決まったミクロコスモスは、同時に鎮守の杜でもある。招魂社がなくては浄財を集める理由を作れなかったため、出資者たちに面目を立てることはできたことになる。

 そうなれば、あとは勧業試験場の仕事であった。精霊の杜が鎮守の杜ではなく本来の意味を持つための仕事である。

 ジョウメイは現場がある程度の形を持ってくると後ろに引っ込み、完成後の絵図を考えるようになった。ミクロコスモスの全体像を最初に描いたのはトオリだが、ジョウメイの役割はその後の維持管理体制を考えることである。

 マイヤールを交えて図面の上で体制を考える時、基本方針を何度も練り直した。図面の中では森林地帯を基本にして、池や湿地帯、小川、一般向けの遊歩道、休憩所、精霊たちの棲息環境を考慮した樹木が記されている。更に日差しや風通しの設計も考慮されている。

「元々は平坦な原野ですから、そのままでは水の自然水流ができません」

 現場から上がってきた報告をマイヤールと共に解決に導いていく。自然の水流ができないと小川が作れないばかりか、池の水もよどんでしまう。その結果水の精霊の棲息域も減少してしまう。

「勾配をつけて、水が循環するようにしましょう。それを可能にする技術と機械が既にあるはずです」

 それは既にセキナンカでも導入されている揚排水機を示す言葉であった。ふと、昔ならどういう手段を採ったかと思ったが、十数年前の技術に囚われても仕方ないと思い直す。揚排水機の設置場所を決める一方、水草の生育のための日照を確保すること、落葉落枝の堆積防止ため水面にかかる枝は剪定する体制を決める。堆積を避けなければやはり水質の汚染につながるということだった。

「ミクロコスモスは作ることより維持することが難しい。なくなってしまったミクロコスモスも多い。この国で初という看板は、絶対に下ろしてはいけないものです」

 マイヤールはそう言い、そのたびに励まされる。ジョウメイの仕事が動き出すのは、更に一年が経った春のことであった。

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