48「激闘新宿駅西口」
自分の中の肉という肉が熱を持ち、身体が燃え上がりそうだ。
今までまるで嗅ぎ取れなかった汗の臭いが、もわと鼻先を漂った。
怒りと恐怖と緊張と――そして驚喜が入り混じったものだ。
発しているのは己か桑原か。
いいや、どちらでも構わない。
ハッハッと息が漏れる荒々しい音が耳障りだ。黒瀬はややあってその呼吸音が自分のものだと気づくと苦笑した。なぜか組事務所で暇潰しに見た往年の黒澤映画を思い出した。モノクロの世界で睨み合う剣客たちの、見ているだけで息が苦しくなるシーンが脳裏で激しく明滅した。
ジッと睨み合ったまま、ふたりはゆっくりと円を描くようにして回り出す。
先に仕掛けたのは桑原だった。
咆哮を上げながら両腕を突き出し抱え込むように迫ってくる。
蹴り上げた床石が破裂したかのように後方へ飛び散っていた。
黒瀬はがりっと奥歯を噛み込むと、後ろ足で床を蹴って飛び出した。
「あ、ばか――!」
紅の絶叫が部屋一杯に広がってゆく。
知らない。
自分はこのやり方しか知らないのだ。
「おおおっ」
自分を鼓舞するように高く、高く雄たけびを上げて黒瀬はまっしぐらに突っ込んだ。
真っ向から行く。
最初からそう決めていたのだ。
両腕に慢心の力を込めて、鳥が羽ばたくように外側へと跳ね上げる。
押え込もうとしていた桑原の両腕を同時に弾いた。
黒瀬は前かがみになったまま、策もなにもなく桑原の鼻面へと頭突きを放った。
ごぐっ
と骨が砕けるような音が鳴って桑原が濁った声で唸った。
黒瀬はそのまま右腕を振りかぶると桑原の鳩尾目がけて突きを放った。
が、それを予測していたのか、桑原は分厚いグローブのような手のひらで黒瀬の拳を受け止めると力任せにぐいと引っ張った。
勢いを利用された格好になった黒瀬は前傾姿勢に態勢を崩す。
桑原の拳が情け容赦なく黒瀬の顔面を襲った。
雷光が自分の顔面を駆け抜けたような気がした。
意識を失ってもおかしくない一撃だ。
現に、力を引き出していなかった黒瀬ならば顔がくしゃりと紙風船のように潰れていてもおかしくはないほどの力が籠もっていた。
――が、これくらいでやられるかよ。
黒瀬は類まれなる野生の勘と幾多の喧嘩で培った経験で、拳のインパクトの瞬間、素早く顔面を斜めに逸らしていたのだ。
真正面の衝突はギリギリさけた。
すぐさま桑原の右腕を左手で掴むとニッと笑う。拳で覆われ桑原には自分の顔など見えてはいないだろう。それでも黒瀬は笑みをこらえられなかった。
怒号とともに両脚を床に叩きつけ、たっぷりと力を乗せたアッパーカットを放った。
インパクトの瞬間、桑原の顎に亀裂が入るのを幻視した。
黒瀬の拳は知っていた。
打ち抜いた右腕の先。
桑原の巨体がそのまま吹っ飛んで頭から倒れる姿が網膜の端に映った。
だらだらと血が流れて目の前が見にくい。
ふらふらとする上体を無理やり真っ直ぐにして両脚を踏ん張った。
「ふ、んっ」
黒瀬は折れた鼻骨を捻じ曲げて元の位置に戻すと、引っくり返った桑原へとゆっくり歩み寄った。
桑原はすぐさま起き上がった。
しかし、今の一撃が相当脳天に来たのか、ふらふらと上体が泳いでいる。
素足で床を掴んで蹴った。黒瀬は自分の身体に魚雷のイメージを重ね合わせて再び頭から桑原へと突進を駆けた。
ずん、と頭突きが桑原の股間あたりに決まった。
切ないような桑原の声。
耳に響いた。
チャンスである。
黒瀬は真っ赤に血濡れた視界の向こうで右膝を突いた桑原に向かって殴りかかった。
剛毛が密生した桑原の顔の中で瞳が妖しく輝いた。
未だ死んではいない目だ。
警戒する間もなく黒瀬は胴に両腕を差し込まれると、そのまま後方へと投げられた。
受け身を取る間もなく肩から床へと落下する。
固く重たげな音が響いて白い石片が細かく空に舞った。
一瞬息が詰まって激しく咳き込んだ。あえぎながらゴロゴロと転がってなるたけ距離を取る。
同時に頭上から黒い影が落下してきた。さけられない。視点が定まらぬうちに背骨が折れるような強烈な衝撃が襲った。桑原が無防備な黒瀬の背中にニードロップを放ったのだ。
身体が真っ二つに折れたかと思った。が、黒瀬の身体は思った以上にしぶとかった。
黒瀬はあろうことかその場に両腕を突いて背中の桑原を弾き飛ばすと、血塗れの身体を宙に浮かして飛びかかっていた。
「もう、もうこれ以上は――」
リリアーヌがおろおろとした視線で紅を見た。クリスはリリアーヌと違い、平然とした表情でその場を微動だにせず、漢と漢の戦いを見つめている。
「そう、もうすぐね」
「ならば、早く止めないとっ」
紅は術式を描いて精霊を召喚しようとするリリアーヌの腕をそっと掴んだ。
だめ、とばかりに顔を横に振った。
「その必要はないわ」
リリアーヌがなぜ、とばかりに表情を歪めて見返してくる。
紅がチラと傍らのメイドの様子を窺う。クリスは格闘技に精通しているのか、リリアーヌとは違い落ち着き払っていた。
「姫さま。クレナイさまの仰られるとおりで。もうすぐ、あのキメラにかけられた奇跡は消えます」
「――ッ!」
リリアーヌが口元に手をやって両目を見開いた。
そうなのだ。紅たちの前でもつれ合っているふたつの肉塊。すなわち黒瀬と桑原の両者は一見均衡しているようであったが、その実は違う。天秤は黒瀬のほうへと大きく傾いていたのだ。
「リリアーヌ。あなたなら理解できるはずよ。落ち着いて両者の気配を探ってごらんなさい。桑原洋治のともしびはほとんど尽きかけている」
紅の言葉をすぐさま理解できたのか、リリアーヌは悲痛な表情を露にした。もちろん、彼女が慮っているのは見ず知らずの桑原洋治という男ではない。短くとも行動をともにしていた黒瀬龍の心であった。それは紅にも理解できた。両者には紅たちが窺い知れぬ過去があったのだろう。普通であるならば、極道とはいえただの一般人である黒瀬をここまで連れてなど来ない。けれども紅は黒瀬の胸に吹いている寂しげな風を感じ取ってしまっていた。その風はかつて自分が姉を失ったときに吹いていたものと、酷く似ていた。紅は息を詰めながら黒瀬と桑原が拳と蹴りとを交換するさまを、熱っぽい瞳でただジッと凝視した。
床を転がりながら戦ううちに、黒瀬は桑原の力が酷く弱まっていることに気づいた。
こうして互いに拳をぶつけ合うたびに、桑原の身体の一部が剥がれてゆく。
互いの口臭を嗅ぎ合う位置にいるため、桑原の力の剥落は如実過ぎるほどわかった。
特別扱いすることもなかった。
義務感や怒りはあった。
けれども自分はそれほど桑原の行動になにかを思っていたのだろうか。
四鷹会のケジメ――。
それだけの理由でこんな魑魅魍魎が跋扈する地の底に潜るなど、やはり自分は正気ではないだろう。
毛むくじゃらの桑原の顔面を鷲掴みにする。ガチガチと獣の鋭い牙が黒瀬の指を傷つけているが痛みはもう感じなかった。
体重差はかなりのものであるが黒瀬の気力が桑原を圧倒している。巨木のような桑原の腕をねじって関節を極めようとするたび、丼茶碗ほどもある巨大な拳で側頭部を叩かれた。耳たぶが熱い。激しく出血しているのだ。黒瀬は負けじと桑原の額に右肘を叩き込んだ。ガツッと固い音が鳴ってなにかが砕けた。
砕けたのは桑原の意志だった。
「あっあっあっ……」
殴りつけた獣の瞳から真っ赤な血の涙がぼろぼろと零れ落ちている。
視点が定まっておらず、口元からはだらだらとよだれが垂れていた。
ヤク中が禁断症状を起こしたときに、こういった顔をするのを腐るほど見てきた。
自分が壊されるのほうが先だと思っていたが、どこか拍子抜けだった。
自ら進んで死ぬつもりもないが、競って生きていたいとも思わない。
これは、そういうやり取りだったはず。
「おか、しい、だろ」
不思議な術で力を引き出した黒瀬自身もドーピングをしているのである。
なぜか、うしろめたい気持ちがさざ波のように胸の内に広がっていった。
ああ、いつだったか。先達である組員のいいつけが果たせず、酷くしごかれた桑原を自分でもやり過ぎるというほどに殴ったことがあった。
ここまでやれば、ほかの組員も盃をかわしていない追い回しであった桑原を時間をかけてなぶることはできなだろうという判断だった。
その意が通じていたのだろうか。拳を喰らって壁際に吹っ飛び、額を割った青年の顔はどこか晴れ晴れとしていた。
桑原、桑原よう――。
黒瀬はついに身体を入れ替えてキメラ化した桑原を下にすると、喉のあたりに腕を入れて裸締めに移行した。
右腕が喉にかかる。
左腕を交差させ、あとは絞り上げるだけ。
骨が軋る。
音が鳴る。
ふーっふーっという獣の息遣いだけが小さくなってゆく。
今はそれが悲しい。
黒瀬はふつふつと身体中に沸き立ついい知れない感情を一気に吐き出すかのように、あらん限りの声で吠えた。
真っ黒で巨大な波濤が押し包むように迫ってくる。
上総は聖剣を水平に構え直し、握った柄に全身全霊の気を込めて振るった。
「らあああっ」
聖剣ロムスティンの切っ先までが自分の身体の一部であると確信できた。
ごう
と大気を割って聖剣の波動が迫り来る大津波を真っ二つに横から両断した。
これにはとっておきの大海嘯を繰り出したグランバジルオーネも冷静さを保てなくなったのか、水球の上でぐらりとバランスを崩した。
上総は大津波の衝撃に巻き上げられた車両のタイヤに次々と飛び移ると、ほとんど神業的な体重移動でグランバジルオーネまで迫る。
ガチン、と歯が打ち鳴らされて上総の形相が鬼のように変貌した。
振りかぶった右腕。
聖剣がグランバジルオーネに向かって情け無用とばかりに打ち下ろされる。
「私には通用しないと――!」
身体を水に変化できる五星将グランバジルオーネはスペックからいえば無敵。
彼女どのような敵からの物理攻撃も受けつけないはず。
そのはずだった。
彼女は一瞬だけ眉根を寄せると、それからほとんど顔を引き攣らせて刃から身体を仰け反らせる。
だが、遅い。
「ちあああっ」
雷鳴のように轟く上総の気合一閃。
繰り出された聖剣はグランバジルオーネの左肩を綺麗に、それはもうすっぱりと断ち割った。
ざあ、と流れ落ちる水に飲み込まれながら上総は落下してゆく。ごぼぼ、と酸素を吐き出しながら水面に浮かび上がると、すぐそばに左肩を抑えて驚愕した顔つきのグランバジルオーネがなにかバケモノを見るような目つきでこちらを注視していた。
「どうした。俺は、これこのとおり、無防備だぞ」
「なにを――したの?」
グランバジルオーネの青いドレスはまるで暴漢に襲われたがごとく、切れていた。
「斬ったのさ」
「バカな。私の特性は水との合一。あなたの武器がいかに聖剣であろうとも、傷ひとつつけられない。ありえない」
上総はぷっ、と口に含んだ水を吐き出すと、目の前でゆらゆらと揺れているSUV車の上に飛び移った。
「あーちめて……」
「答えなさい。今、なにを、どうやって――」
「物にはな。目ってもんがあるんだよ」
「目、とは――?」
「鉄には鉄、石には石。風には風。火には火。そして水には水の目があらぁ」
「なにを――いっているの?」
彼女は表情を凍らせて大きな瞳を瞬かせていた。もはや彼女には奇妙なほどの余裕はない。それどころか、このように打ちひしがれて佇んでいるところだけを見れば、ただの可憐で儚げな貴婦人といった具合だった。
「要するにな、馴れってことを俺はいいたかったの、さ」
素早く浮かんでいる右手のピックアップトラックに乗り移った。グランバジルオーネが怯えにも似た表情で右腕を上げ水を巻き上げる。上総は半身を開いて聖剣を下段に構えると唸り上げて襲い来る水流を迎え撃った。
刃の切っ先が触れたと同時に水流が軽やかに弾け飛んだ。グランバジルオーネは長いまつ毛をふるふる震わせながら後方に跳んだ。たたっと水面を蹴って距離を取る。魔術を駆使して水の上を渡るさまはアメンボのようだ。
彼女の白く細い爪先が水の上をすべるたびに、小さくかわいらしい小指の爪が上総の目にはやけに鮮明に映った。
「また――!」
「いっただろう。なんにでも目があるって。それに不思議がることはない。俺はね、真っ当な剣術なんて誇れるほどに学ばなかったが、発想の瞬発力には自信があるのさ」
「意味が、わかりません」
グランバジルオーネは右腕を天に高々と差し上げると上総の聞き取れない速さで術式を構築してゆく。
(高速詠唱――)
「喰らいなさいっ。アクアトルネード!」
よく通る声でグランバジルオーネは水系の魔術を発動した。
「お、お、お、マジかよ」
彼女が命じたことによりあたりの水が激しく躍動しはじめる。周辺を湖のように変えていた水が、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、彼女が指差した虚空の一点に集まっていく。
上総は巻き上げられる水に、都会特有の腐臭と汚濁と人工物の澱がないまぜになったものを嗅ぎ取り、軽く嘔吐いた。
水には清げな部分はすでに一滴も残っていない。黒々としたうず巻きはたちまちのうちに上総の周囲に出現して、激しく荒れ狂った。
「おいおいおいおい。冗談だろ」
「さあ、そこから逃げ出すことができるかしら。勇者カズサ」
上総は汚濁に揉まれて鈍く光るトラックの天井部分、わずかなロードレストに片足で立つと、自分が竜巻の中心にいることを確認する。周囲のビルからもぎ取られた鉄くずやコンクリ片、ガラスといったものから、巨大な車両が竜巻の傍若無人な力によって巻き上げられている。
このまま座して見ていても事態は好転しない。それどころか、周囲の竜巻の壁はじりじりと上総を飲み込むために狭まってくる。このままでは暴風の壁によって、ほどなく天へと巻き上げられ上総の生死はそのときこそ覚束ないだろう。
無論、周囲を厚く覆う竜巻にはグランバジルオーネの魔力がこってりとコーティングしてある。突破は困難かと思えた。
「が、やるっきゃないよな」
上総は狭い足場で不敵に笑うと手にした聖剣を水平に構え荒れ狂う暴風を睨み据えた。
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