47「水のグランバジルオーネ」

 水である。

 冷たい水の中に立っていた。


「ここは」


 気づけば上総は新宿駅西口に立っていた。

 無論のこと、地上である。


 駅を臨む離れた場所にグランバジルオーネの姿があった。


 一旦は引いたはずの水が轟々と唸りを上げて濁流のようにうずを巻いている。


 グランバジルオーネはヒールの靴を脱ぎ捨てると素足で流れの上に浮かんでいた。


 上総が視線を転じるとグランバジルオーネはせり上がった水流の上に乗ったままはるか頭上の高みに位置を取った。


 彼女は得意の水魔術を使用して圧倒的に有利な場所に陣取ったのだ。


「さあ、勇者カズサ。ここで充分に死合ましょう」


 歌うような旋律で高所にいるグランバジルオーネが語りかけてきた。上総は胸まで浸かった水から浮いている車両の上に飛び移ると聖剣を構えた。


 特徴的なロータリーの上を青黒い奔流が轟々と疾っている。上総は激流の上で木の葉のように浮かんでは消える車両を視界の端に捉えながら、浅く息を吐いた。


「魔王五星将水のグランバジルオーネ。参ります」


 戦いがはじまった。


 グランバジルオーネは両手を胸の前で合わせて歌うように叫ぶと、中空に幾つもの巨大な水の塊を出現させた。


 空は灰色の雲が分厚く覆っており無数に生み出された水の塊は妙に清げで上総の心に強く印象づけられた。


 巨大な水球が唸りを上げて疾ってくる。


 上総は揺れるボンネットの上で身体を沈めて初弾をかわした。


「まだまだですよ」


 続けざま巨大な水の弾丸が上総を狙って落下してくる。たかが水といっても馬鹿にできない。目の前に迫る水弾は目測でも一立方メートルを超えている。つまりは一トンを優に超えているのだ。これに加速が乗っているので衝撃は凄まじいものになっていた。


「ちいっ」


 上総は木の葉のように水の上を揺れる車両へと次々に飛び移りながらグランバジルオーネの攻撃をかわしてゆく。


 轟音が鳴って水の塊が当たったピックアップトラックが砲弾を喰らったかのように弾け飛んだ。


 鋼鉄が紙屑のように裂けてバラバラと落下する。上総の頬に鋼鉄の破片が当たって熱い血が流れ出た。視線を切ることなくグランバジルオーネを見据える。向けた聖剣の切っ先が震えた。いや、震えていいのだ。切っ先は震えるもの。グランバジルオーネは剣に宿った殺意など意にも介さず莞爾と微笑んだ。


「カズサ。中々よい動きですね」

「ありがとうよ」


「けれど、その不安定な態勢でどこまでかわし続けられますか――?」


 上総は素早く宙でトンボを切った。フロントを水面に突き出したセダンの先端に片足で着地すると軽やかな動きで跳び上がる。


 バッタを思わせる跳躍力は二〇メートルを楽々と超えていた。上総は異常なほどに発達した脚のバネを活用して虚空に浮かぶグランバジルオーネに斬りかかった。


「ぢえあああっ」


 上総は裂帛の気合を込めると大上段に構えた聖剣を振り下ろす。


 まさか、自分の位置まで上総が到達するなどとは思っていなかったグランバジルオーネは一瞬対応が遅れた。


 振り下ろした聖剣よりもはるかに早くグランバジルオーネが動いた。


(が、右腕はとった!)


 剣の切っ先がグランバジルオーネの折り畳みはじめた右肘に触れた。


 瞬間、上総の背筋に激しい悪寒が走った。

 手応えがないのだ。


 まるで「水」そのものを斬っている奇妙な感触に身体の軸がわずかにぶれた。


 その隙を見計らってかグランバジルオーネは残った左腕を振るって激しい水流を叩きつけてきた。


 攻撃を放った瞬間があらゆる状況の中で一番無防備になる。現に上総はなんの防御姿勢も取れないまま、右方から激しくのたうつ奔流に巻き込まれながら凄まじい速度で落下し、水面に叩きつけられた。


 痛みと混乱で頭が真っ白になる。特に二〇メートルを超える高さから水面に叩きつけられたせいで全身の骨という骨が痺れ、コンマゼロ秒ほど上総の身体は行動停止状態になった。


 ――が、奇妙なことにグランバジルオーネの追撃はなかった。


 上総は潜った水中を必死で掻いて水面から飛び出すと、どうにか車両のボンネットに飛び移って大きく息を吐き出した。


「やれたと思ったかしら? 残念ねカズサ。私は仮にも水を司る五星将。聖剣といえどこの身体はそう易々と傷つけられはしないのよ」


 確かになにかを斬った感触はあった。視線を上方に向ける。ふわりふわりと虚空に浮かぶ水球に乗ったグランバジルオーネはあくまで余裕だ。彼女は先ほど上総が斬りつけて裂け目の入った右肘に舌を這わせてくすくすと笑っていた。


「ノーダメージかよ」


「あら、そんなことはないわ。あなたに怖ぁい剣を向けられて私は痛く傷ついたわ、王子さま」


 グランバジルオーネは噛んでいた自分の小指を唇から離していった。


「ふざけた役どころを振らないでくれ。おまえは俺の敵だろうが」


「憎み合う宿命に生まれたふたりが困難を乗り越えて結ばれる。とても悲劇的じゃないかしら」


「生憎と俺はハーレクインものは反吐が出るほど嫌いでね。世の中、おまえの思うとおりご都合主義で動いてないんだよ」


「あら残念ね。でも、恋愛というものは困難があればるほど燃えるものじゃない?」


 グランバジルオーネが軽く片手を上げると、水面が轟々と音を立ててうず巻き、大きな波が形成されてゆく。どう見ても高さは一〇メートルを超えている。彼女が術を駆使して津波を起こし、上総を飲み込もうとしているのは明白だった。


「スイーツ脳乙。俺は単純明快ハリウッド信者なんでね――!」


 上総が聖剣を水平に構えて叫ぶ。

 青黒い大海嘯がドッと押し寄せてすべてを押し包もうと猛進した。






 ひたり、と冷たい雫が黒瀬の背を打った。

 上着を脱ぎ捨てた黒瀬は肌脱ぎになっている。


 たいしたトレーニングをしたわけでもない。

 黒瀬の強靭な肉体は生まれつきのものであった。


 あらゆる生物は成長過程で肉体強度を最上限まで持ってゆく。


 獅子や虎や象が自らを鍛え上げるという話を聞いたことがあるであろうか。


 そんなものはない。


 弱肉強食を生きる世界にそんな悠長なことは許されない。


 あらゆる生物が生まれついた瞬間から過酷な生存競争に晒される。


 あるものは爪と牙を。

 あるものは毒を。

 あるものは備わった擬態能力で隠れ。


 あるものは逃走に特化した脚で己よりすぐれた武器を持つ敵から逃げる。


 そう、あえていうのであれば自然界では鋭い爪や強靭な牙さえ最強無比とはいい難い。


 逃げればよいのだ。


 逃げて逃げて逃げまくって最後まで生きていれば、すなわちそれが――勝利なのである。


 捕食者はどれだけすぐれた肉体を持っていても獲物が獲れなければ死ぬ。


 否応なく飢えと死が待ち構えている。


 つまり、人間だけが身体を鍛えることを許された、安楽で恵まれた境遇にあるといっても過言ではない。


 自然においては身体を鍛えることなどの甘えなどは許されず、今ある武器だけで勝ち抜かなければならない。今、この手の中にある手札だけで、それがカス札であっ

 てもあらゆる知恵を振り絞り不可能を可能に変えて戦わなければ生き残れない。


(オレは姫さんに力を引き出してもらわなければ、とうに死んでいた)


 黒瀬は目の前で大きな顎を極限まで開き牙を剥いている獣化した桑原を見つつ、そう思った。


 ドーピングだといわれようが、こうして黒瀬に術をかけることを阻止しなかった時点で、桑原は生物として三流であるとしかいいようがない。


 黒瀬は生まれついての極道である。物心ついてこの方、喧嘩という喧嘩に負けたことはなかった。体格もさることながら、腕力や反射神経、追い詰められてからの粘り具合、痛みに対する耐久力などどれをとっても自分より上回っている人間などついぞ見なかった。


 ――あくまで人間の世界において、であるが。


 桑原は自分に比べれば、背丈も腕っぷしも、度胸もずっと少ない。だが、黒瀬はそれを下に見ているわけではない。種が違う、といえばいいのだろうか。そもそもが極道といっても昭和の時代でもないので腕っぷしが冴えるときなど数えるほどしか、いいやむしろことに及んでの器用さや金集めに対する頭のほうが重用される世の中である。


「なあ、桑原。なんだかおかしいぜ。いくら極道ったってよ。こうして立ち合ってゴロ巻くってのも時代遅れで笑えてくるな」


 黒瀬は顎に着いた血を手の甲でこすり取るとニッと笑った。気分はひたすら高揚している。身体中はキメラ化した桑原とやり合ったおかげであちこちが痛みまくっているのだが、不思議と悪い気分ではなかった。


 すでに桑原の顔は元の色白で気弱げな部分は消え失せており、ただの獣になり果てていた。


「――けど、いいじゃないですか。自分は、黒瀬さんとこうしてステゴロでやりあえて、満足です」


 返事などないと決めつけていたが、獣になった桑原の声は依然と変わらずどこかやさしげでさわやかな風すら纏っていた。


「だな。オレらはまったくの時代遅れだ」

「ですね」


 こうして立ち合う前は、どこか桑原が元の姿に戻りたいと懇願して来るのをどこか心の中で恐れていた。


 だが現実の桑原にはそのような柔弱なものは微塵も残っていない。クリスタル・トリガーによって変異した自分の身体のことはすでに決着が着いているらしく、甘えも情けなさも影すら見えない。


「待ってろよ」


 黒瀬はそう断るとかがみ込んで履いていたブーツの紐を解きにかかった。今回のダンジョン探索のため、動きやすい山歩き用のものを購入していたのだ。まだ固くしなりのないブーツを脱ぐと分厚い靴下を脱いで素足になった。


「よし」


 このほうがずっと両足を上手く扱える。成人して以来、こうして素足で地面を踏みしめたことはあっただろうか。黒瀬は背中に龍の彫り物を背負っているので、海や公共の温泉などは憚られた。ひたひたと爪先に触れる冷たい水が心地よい。


「悪いな」


 黒瀬は足の指を蠢かせると再び向き直って構えた。キメラ化した桑原は三メートルを超えている。体重も三、四〇〇キロはあるだろう。今まで殴り合いにおいてパワー負けしたことはほとんどない。けれど今回は別だ。リリアーヌの秘術で本来以上の力を引き出しているとはいえ、この怪物を前にすれば黒瀬は軽量級だ。


 ――だが、正面から打ち合うしかない。


 そもそもが黒瀬は暴力のプロであっても格闘技の達人というわけではない。


 上総の戦い方を見て、それは嫌というほどよくわかった。よくも悪くとも自分は常識の範疇の人間なのだと。上総の戦い方は、それこそ百戦練磨だ。特に刃物の使い方に熟知している手並みはゾッとするほどだった。どうやって刃を入れれば、どのように肉が切れるのかをよく知っている。あれは日常的に殺しを平然と行ってきた人間の扱いようだった。


 そういう点では黒瀬は上総と段違いに劣る。抗争で人を傷つけたことはある。それどころか対立した組員を殺して懲役を喰らった経験も、上総の前では茶番に思える。


(けど、ここでやらなきゃならねぇ)


 理由はどうあれ、自分も、そして目の前の桑原も理解不能なこの世の埒外から持たされたもので、否応なしに変化させられた。だが、それは能力が向上したということであり、経験においては黒瀬のほうが、やや理があるだろう。


 ならば自分にできることは。

 桑原と全力を以て打ち合うことだけだった。


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