46「漢の矜持」

「動じぬのだな、娘よ」

「……え?」


 紅は一瞬目の前のドラゴンタートルが喋ったとは気づかず間抜けな声を出した。


 注意深く見れば真っ赤なドラゴンタートルの瞳には理知的な光が宿っている。


「ええ、ああ。別に、こんなの、どってことないわよ」

「紅、動揺してんのバレバレだぜーっ」


「うるさいから、アンタは筒に入ってなさい。で、なんの話だっけ。そうそう、言葉が通じるのなら話は早いわね。大怪我する前に引いたらそっちが引いたらどうかしら。少なくともあたしは手加減のできる女じゃないわよ」


「驚いたな。まさか矮小なニンゲンごときにそのような応じ方をされるとは。儂も五〇〇年近く生きてきたが、このようなことははじめてだ」


 ドラゴンタートルはぶふーぅ、と口元から蒸気のようなものを吐き出し呆れたようにいった。


「恨まぬのか? あの男たちはおまえを足止めのために捨てたのだぞ?」


「そう見えてるんならお門違いね。アンタがドラゴンだか亀だか知らないけど、あたしは上総に頼まれてこの場を引き受けたの。サクッと片づけてとっとと合流しないとね。こう見えてもあたしは結構いろいろ忙しいの!」


「そうか。ならばあとは拳で語るのみ。儂も全力で屠らせてもらうぞ」


「どうぞお好きに。こっちはこっちでやらせてもらうから」


 紅は素早く懐から折り紙で作った手裏剣を取り出すと、有無をいわせず放った。


 紙の手裏剣はシュルシュルと飛距離を伸ばすごとに巨大化してみるみるうちに座布団ほどの大きさになった。


 ドラゴンタートルは素早く状況判断をしたのかカッと巨大な口を開けると炎を吐き出した。


「――ッ!」


 目が眩むほどの光量で室内が満たされ紙手裏剣は一瞬で焼き尽くされた。


「どうした。儂が亀だと思うて、よもや火を扱うとは思わなかったのか?」


「いいえ。あなたの判断に感嘆していたのよ。下手に首を引っ込めてたら甲羅ごと真っ二つだから」


「抜かせ。――ならば次はこちらから行かせてもらうぞ」


 いうが早いかドラゴンタートルは首を振るって前進し出した。策もなにもない。これだけの体重があれば大型バスも軽々とひっくり返されるだろう。


 紅とドラゴンタートルの差は巨象とアリだ。


「て、か弱い女子高生に体当たりだなんて、しつけのなってない亀さんよね」


 紅はそういうと袂からぴ、と折り紙で折ったクジラを出すとひょいっと投げた。


 方術によって気の込められたクジラはあっという間に巨大化するとドラゴンタートルの突進を受け止めた。


「な――! ならば、これならどうだ」


 ドラゴンタートルは巨大な顎を駆使してクジラに噛みつくが倍以上もあるシロナガスクジラを模した式神を一撃で食い殺せるはずもない。


 どたんばたんと巨獣同士が地響きを上げて争う。


 これが狙いだったのか。紅は器用にクジラの背を伝って跳躍すると懐から取り出した扇で紙吹雪を舞い散らせた。


 いかなる秘術か。無限に現れた紙吹雪はドラゴンタートルの身体に満遍なく張りつくと、みるみるうちに覆ってゆく。濡れた手に吸いつく黄粉のようにドラゴンタートルの身体はあっという間に真白く染め上げられた。


「遊んでる暇はないっていったでしょ!」


 落下しながら紅が九字を切る。


 たちまちのうちにドラゴンタートルに張りついた紙吹雪が発火し、業火が目の前に出現した。


 ゴーゴーと異様な唸りを上げて炎が燃え盛る。紅は片膝を突いて水面に着地すると、吹き上がった飛沫で顔を濡らしながら素早く抜き放った小刀を地に突き立てた。


「これで終わりよ」


 紅の小柄な身体が白く輝き出す。凄まじいほどに収斂された呪力が小刀の先端から解き放たれた。


 モーゼが海を割ったかのように、腰の高さまで溜まった水が弾け飛び床を這うようにして衝撃がざざざと飛んでゆく。


 呪力の波動はドラゴンタートルの身体にぶつかると、ほとんど間を置かずドラゴンタートルの身体を四散させた。


「ふう。こんなものよね」


 紅はバラバラになったドラゴンタートルの肉片をひょいひょいよけながらあたりに漂った凄まじい血臭に顔を顰めた。


「うーっ。あとでシャワー浴びないと」


 バシャバシャと水を蹴立てながら退魔巫女は平然とその場を去った。






「おお、開くぞ」


 上総はクリスから受け取った鍵を差し込むと大扉を開いた。


「もう、あまり無茶はしてはなりませぬといっているではないですか」


「えへ、姫さますみませーん」


 背後ではリリアーヌに軽くたしなめられるクリスの声が聞こえる。


(まるで反省していない。が、なにはともあれ、怪我がなくてよかったよ)


 ゴゴゴ、と地響きを立てて巨大な大扉が動いてゆく。


 同時に腰まで来ていた水がどっと大扉の内側に流れ込んで、一気に歩きやすくなった。


 これで少なくとも後方で戦っている紅が水死する可能性はなくなった。


(ふうっ。とにかく無事を祈るぜ。地上で再会したらおまえの大好きだったホストクラブでシャンパンタワーやってやるからな)


「なーに、勝手に無礼な妄想してるのよ」

「んげっ!」


「人の顔を見てんげ、とはなによ。失礼ね」

「ひゃ、ひゃなを、引っ張るなっての!」


 上総はギューッと鼻をつまんできた紅を払いのけると怒鳴った。


「クレナイさまっ。ご無事でございましたのねっ」

「それーっとクリスも姫さまに続きますっ」


「ちょ、いきなりのしかかってくるんじゃないわよ――って、んぶっ!」


 紅の無事をよろこんでリリアーヌとクリスがハグという名の体当たりをかます。上総の目の前に美少女三人がもつれ合って転がった。


(が、下は水に浸かってるんでびちょびちょだ。ご愁傷さまね)


「あーん、ぐちょぐちょに濡れちゃいましたぁ」


「姫さま、その申され方なにかセクシーでクリスのお胸がきゅんきゅんしてしまいます」


「くっ。踏んだり蹴ったりってのはこのことよ。上総も黙って見てないで止めなさいよ」


「わーるかったよ。それよりも、この先はグランバジルオーネがいるはずだ。気を引き締めていこう」


「ぐ。アンタに諭されるとは。今日はとことん厄日ね」


「なんでだよ。この流れじゃ普通だろうに。それに無事に戻って来てよかったって俺だって思ってるんだからな」


「ば――バッカじゃないの! 今はそんな浮ついたコトいってる場合じゃないっていうのよ! あほ!」


 紅はカッと顔を朱に染めると途端に上総たちを置いてズンズン前に進んでゆく。なんだぁ、と思って仲間を見回す。黒瀬はしょうがいないなというように口元をわずかに釣り上げ、クリスは期待に瞳を輝かせ、リリアーヌはどこか不満そうに頬をふくらませていた。






「思っていたよりずいぶんと早かったのね」


 大扉の向こう。


 グランドピアノに腰かけたグランバジルオーネは上総たちの姿を認めると、くるりと反転して長い指先を鍵盤の上で踊らせはじめた。


 しずしずと規則正しい音の調べが疲れた身体に染み入ってくる。グランバジルオーネは間違いなく邪悪な心を持っている。新宿にクリスタル・トリガーを撒き散らし、薬の副作用で幾人もの人間をキメラに変化させ手駒として操り、そして今度は新宿そのものを水の中に沈めようとしている。


 技巧と精神的なものはまるで別種であるはずだが、彼女が紡ぐ音階は聞くものを魅了する蠱惑的な力が確かにあった。


(悔しいが、彼女の腕は一流だ)


 グランバジルオーネは古典派時代の曲を区切りのよいところまで弾き終えると、長く美しい髪を波打たせて立ち上がり、優雅に一礼した。


「ご清聴感謝します。勇者ご一行さま」


 す、と背を伸ばしてこちらを見るグランバジルオーネの瞳は湖底のような澄み切ったアイスブルーだ。秋葉原ダンジョンで戦ったエルアドラオーネにはどこか人間臭い悪意がところどころに透けて見えたが、目の前にいる彼女からはそれがない。いや、あったとしても完全に脱臭を終えているのだ。


 上総は聖剣を鞘から引き抜くと、白い床に自分の靴音をコツコツと響かせ歩み寄った。


 一〇メートルほどの位置で向き合った。

 グランバジルオーネと視線が絡み合う。


 妙だな――。


 やはり、彼女の瞳からは上総に対する邪気がまったく読み取れなかった。


「勇者カズサ。私はね、エルアドラオーネよりもはるかに濃いの。わかる? だから、こんな気持ちになるのよ」


「いっている意味がまったくわからない。ともかくも俺たちはここまで来た。決着を着けようじゃないか」


「はい。でも、その前に。あなたのうしろにいるお兄さんに会いたがっている子がいるのよ」


 グランバジルオーネが軽やかに指を鳴らすと、部屋の奥にあった扉がぎいと開き、桑原洋治がゆっくりと姿を現した。


「桑原――!」


 黒瀬が前に出ていきり立った。離れている上総にも黒瀬の口から洩れる吐息の熱さが感じ取れそうなほど激しているのがわかった。


「勇者カズサは私と。そちらのお兄さんはその子と。これが望み通りなのでしょう?」


「リュウさん。それでいいですか」


「オレは構わねぇ。そもそもがそこの姉ちゃんのツラを拝む程度にしか思っていなかったんだが、ご本尊がいるってならば話は別だ」


「て、ことだ。いいな?」


 仲間に視線を巡らす。紅は一瞬だけなにかいいたそうに口篭もったが上総と目が合うと唇を歪めて不承不承了承したように手のひらをひらひら振った。


 上総の隣にゆっくりとした歩調で黒瀬が近づいて来る。グランバジルオーネの隣には桑原が控えるように立った。


「カズサ。場所を変えましょう。ここでやり合うのは私たちに似つかわしくありません」


「だ、そうだ。あとは頼んだぜ、みんな」


 聖剣を肩に担ぐとグランバジルオーネに近づく。警戒は解かない。解かないが、十中八九この場で攻撃はされぬであろう奇妙な信頼感がお互いに醸成されていた。グランバジルオーネはふわりと宙に浮くと光に包まれながら天井へ飛んでゆく。


 同時に上総の身体を包むように青白い光が頭上から差して来た。転移の術である。鬼が出るか蛇が出るか――。


 胸の内でつぶやくと首を左右に振ってカキコキと軽やかな音を鳴らす。上総は光に包まれながら心配そうに手を組んでいるリリアーヌに向かって片目を閉じた。






 ひんやりとした空気に包まれながら黒瀬は火のような呼気を漏らしていた。


 目の前にはリリアーヌが神妙な面持ちで立っていた。


「いいぜ。構わないからやってくれ」

「では――」


 やや離れた場所では桑原が手持無沙汰な様子で立ち尽くしていた。パッと見は白いシャツにジーンズのはじめて出会ったときと変わらない地味な服装だった。


 が、黒瀬は知っている。クリスタル・トリガーによって変化した桑原の途方もない力そのものを。現に歌舞伎町でキメラ化した桑原とやり合ったときは完全にパワー負けしていた。


「なんか、ドーピングみてぇで心苦しいがな」


「黙って集中してください。力を引き出さなければリュウさまはかの者に勝つことなどできませぬ」


「ぐ――!」


 リリアーヌが桑原の厚い胸板に手を当てる。途端に全身が燃えるようにカッカッと熱くなった。黒瀬は奥歯を噛み締めながら酩酊しているような感覚を無理やりこらえた。


 黒瀬は上総とグランバジルオーネが消えたあと、すぐさま桑原とやり合おうとジャケットを脱いだが、すぐに制止された。紅たちがいうには、常人の状態では圧倒的に不利なのである。


 よって、今はリリアーヌの力で黒瀬の内に眠る潜在能力を限定的に引き出している。紅が桑原にこの提案をすると、無言で呑んだ。


「終わりでございます」


 リリアーヌがすっと黒瀬の身体から離れた。花のようなさわやかな香りがふわりと黒瀬の鼻孔に漂った。


 が、それをどうとも思う余裕などない。全身の細胞がぷつぷつと音を立てて弾けているような気分だ。


「リュウさま。わたくしの術であなたさまの力を限界まで引き出してありますが、そう長くはもちません。それだけはご承知ください」


「構わねぇ。そいつは向こうさんだっていえることだろ」


 ――もっともアイツは人間だってやめちまってるみてぇだがな。


「じゃ、待たせたな。そろそろおっぱじめるとしようか。桑原よ」


「ええ。おれもあなたとやり合えるのを楽しみにしていましたよ」


 黒瀬は日本刀を持ったまま桑原と向き合った。

 距離は一〇メートルほど。


 今の黒瀬には超人的な力が常時発動している状態であるが、対する桑原もクリスタル・トリガーで人外になり果てている。


 背後のリリアーヌたちからはしわぶきひとつ聞こえてこない。どこかからわずかな水が流れ込んでくるのかわずかチョロチョロとした水が床を申し訳程度に濡らしてゆく。


 静寂だった。

 掛け値なしの静寂だ。


「――さあ、はじめようか」


 その声を合図に桑原の身体が変化をはじめていた。


 みるみるうちに小柄な桑原の身体が爆発するように肥大化した。一九〇はある黒瀬が小男に見えるほどの変身だった。たちまちに三メートル近い巨人に変貌すると、桑原は毛むくじゃらの顔一杯に口を開いた。


 獣と称するのがぴったりな姿だった。シャツを破り切って膨れ上がった上半身には真っ黒な獣の体毛が密生している。ゴリラやオランウータンの筋肉が虚弱に思えるほどのアンバランスな肉のつき方だった。


 ぼっ


 と重たげな音が鳴って桑原の姿が消えた。


 次の瞬間、黒瀬はもろに体当たりを喰らって後方に吹っ飛んだ。


 咄嗟に刀を振るった。


 が、桑原の拳の一撃で刀身はバラバラに砕け散っていた。


(やりやがったな――!)


 黒瀬は両肩を掴んで来る桑原の手首をぎゅうと掴むと、自らそのまま床に倒れ込んで巴投げを打った。


 ふわっと桑原の巨体が宙に浮いた。その隙を見逃さず、黒瀬は床を蹴って飛び上がると拳を固く握り込んで桑原の鳩尾を天も貫けとばかりに突いた。


 肉を殴ったという感触ではない。巨大なタイヤを殴ったような手応えだった。


 黒瀬が驚きを感じる前に桑原がにゅっと長い腕を伸ばして来た。


 掴まえられたらやられる。


 素早く身を捻ってかわそうとするが、桑原の鋭い爪が黒瀬の右頬を浅く削った。


 びびっと皮が破れて真っ赤な血が飛び散る。


 黒瀬は大きく後方に跳ぶと両腕のガードを上げて同じく態勢を整えた桑原を見た。


 獣になった桑原の瞳を直視する。

 黒瀬の中を、どこか懐かしい風が吹き抜けた。


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