44「デビルフィッシュ」

 ここまでで新宿ダンジョンに突入してからかれこれ十二時間は経過している。


 全員に疲労が見えはじめ、上総がそろそろ野営でもと考え出したとき、目の前の風景がガラリと変わった。


「おお。ちょっとだけ変化したな」


 そもそもこの場所は新宿駅を基に構成されているが、中身はまったくもって別物である。


(確かここは動く歩道があるから中央通り地下通路だった場所だな)


 が、安易に考えてはいけない。今の新宿駅はダンジョンマスターの力によって改変された敵地だ。下手に乗ってしまえば奈落の底、などという罠も考えられなくもない。


「わかってるだろうが、疲れたからといって動く歩道に乗っちゃあダメ――」


「あの、勇者さま。すでにクレナイさまが乗られておりますが」


「ちょおおっ!」


 動く歩道に乗って遠ざかってゆく紅の背が見えた。上総はすぐさま中央道路を駆けだして隣に並んだ。


「ば、ばかね。冗談よ冗談。ちょっとふざけてみただけよ」


「嘘つけっ。おまえの顔に習慣で乗っちゃいましたって書いてあるわ!」


 珍しく焦った様子の紅がぷくぅと頬をふくらませてむくれた。


「あのなぁ、こういった動力源のあるようなもののほうが罠をだな」


「上総、あれっ! 説教はあとよ!」


「まーた、そんなこといって話を逸らそうとしやがって、ってマジか?」


 なぜか煌々と電気が未だ通う中央通りのライトに照らされながら上総の眼前に赤黒いタコの群れが突如として出現した。


「また、妙ちくりんなもんが飛び出してきやがったな」


 黒瀬は咥えていたタバコを手のひらでもみ消すと携帯灰皿に押し込み、日本刀を引き抜いた。


「タコはタコでもお馴染みの凶悪なやつね」


 上総は動く歩道から紅が背後に飛び降りたのを確認してから聖剣の切っ先を向けた。


 マサカリダコ――。


 ロムレス全土の水辺に棲息する水系モンスターである。大きな二本の前腕に斧のような爪を持ち、自分よりもはるかに巨大な獲物を狩る。


 別名「赤い悪魔」の異名を取る極めて凶悪なマサカリダコは、威嚇するような吠え声を上げジリジリと間合いを詰めてきた。


「うわっ。すごっ! いつ見ても真っ赤っかです!」

「クリス、騒いではなりませんよ」

「どうでもいいけど、超余裕よね。あんたたち」


 上総はふたりに突っ込む紅も充分余裕だと感じた。


 マサカリダコの大きさは一二〇センチ程度。常に群れで行動するのが基本である。


 三十体を超える赤黒いタコは、秩序だった動きで包囲網を狭めてきた。


「迷っていても仕方ねぇだろ。片っ端からやるしかねぇ!」


「あ、ちょっ、リュウさん?」


 黒瀬は咥えていたタバコを吐き出すと雄たけびを上げてまっしぐらに突っ込んでゆく。


「クリス、おまえはバックアタックに備えとけ!」

「了解ですっ」


 上総は黒瀬の背を追いかけるようにして、駆け出した。黒瀬は日本刀を大上段に構えると巨体に似合わぬ瞬発力で跳び上がった。


 一瞬、上総は黒瀬の身体がひと回りもふた回りも大きくなったように感じられた。


 黒瀬の全身から放射された気は本能的なものに訴えかける凶暴性に満ちていた。


「おらあっ」


 マサカリダコの爪は手斧のように鋭く厚いが黒瀬の一撃はそんなものを吹き飛ばす途方もない威力を伴っていた。


 ずん


 と、黒瀬の巨体が地に着いたとき、突出していたマサカリダコの一体は脳天唐竹割りにされて左右に分かれ吹っ飛んだ。黒瀬は手を休めずに、無茶苦茶な動かし方で日本刀を左右にぶん回した。まるで野球のバットをフルスイングするような思い切りのよさである。少なくとも刃物の使い方ではないが、黒瀬はそれなりに修羅場をくぐっているようで、瞬きする間に四体のタコを屠って見せた。


「そんなもんかよおおっ」


 己を鼓舞するような吠え声である。が、黒瀬の滅茶苦茶な喧嘩殺法の前ではマサカリダコも仲間を次々に斬り殺され、あからさまにたじろいだ。


(こりゃあ俺も負けちゃいらんねぇな)


 三体ほどのマサカリダコが飛びかかってくる。このモンスターは、一番大きな二本の触腕が普通のものとは違って綺麗に湾曲した爪になっており斧のような鋭い切れ味を持っている。


 ――が、いかんせん動きは鈍い。


 そこは軟体動物の悲しさか、ほかのモンスターと比べてはるかに鈍重であった。


 上総は手斧の動きをよく見て聖剣を素早く二度三度振るった。


 マサカリダコはすっぱりと頭部を綺麗に薙がれて次々に転がってゆく。


「こいつらのスピードはたいしたことない。冷静に対処してくれ」


 上総の指示にやや下がった場所でマサカリダコと対峙していた紅が叫んだ。


「ンなもん見ればわかるわよっ」


 紅はむにゃむにゃまじないを唱えると手にした呪符を素早く投げつけた。


 呪符はマサカリダコのあちこちに張りつくとオレンジの炎を上げて燃え出した。


「いいぞいいぞ! やっちゃやっちゃえ、紅っ」

「アンタは危ないから引っ込んでろっての!」

「ぎゅぶっ」


 紅は調子に乗って騒いでいた外道丸を引っ掴むと後方に放った。


「キャッチですわ」


 背後に控えていたリリアーヌが胸元で受け止める。外道丸はリリアーヌの豊かな双丘に頭を突っ込んだままジタバタともがいた。


「ふれーっ、ふれーっ。勇者さまっ、とーっ!」


 離れた場所ではクリスがどこから取り出したのかチアのボンボンを手に応援しながら、時折近寄ってくるマサカリダコに蹴りを入れるという器用なことを行っていた。


 蹴り上げられたマサカリダコはぽーんとすっ飛んで壁にぶつかると四散する。


「……あー、応援してくれるのはありがたいんだけど、気をつけてね」


「モチのロンですっ。たあっ」


 すらりと長い脚を伸ばしてクリスは楽しそにマサカリダコを排除してゆく。基本的に上総と黒瀬が波濤のように襲いかかってくるタコの群れのほとんどを引き受け、後陣である紅たちが打ち漏らした敵を倒すという流れだ。


「くっそ。こりゃあいつまでやってもキリないな」


 はじめは三〇体程度の数であったマサカリダコは戦闘を続けるうちに次ぎから次へと湧いて出て、今では津波のごとく前方に広がっている。


「コイツは一〇〇や二〇〇どころじゃねぇな」


 力任せに戦っていただけに黒瀬の疲労の色が濃い。彼は手を抜くということができないのか、上総が見たところあきらかに力のペース配分に失敗していた。


「リュウさん。一旦、退いてくれ。リリアーヌ、ここはもう一発で決めるしかない。すまないが、頼む」


「カズサさま。頼む、などという言葉は必要ありません。やれ、とお命じください。わたくしは、あなたさまのご命令であらばどんなことでも果たしてみせますわ」


 リリアーヌは静かに呪文を詠唱すると精霊アガレスを召喚した。


 白髪の魔人は巨大なワニに跨って旋風とともに出現した。


 アガレスは拳に乗せていたオオタカを放つと無数に出現したマサカリダコたちの間を縦横無尽に駆け巡らせた。


 マサカリダコたちはオオタカの強靭なくちばしに傷つけられ右往左往する。


 ほぼ同時にアガレスは跨ったワニを床に噛みつかせて鋭い咆哮を放った。


 びりびりと通路全体が震えたかと思うと、立ち続けていられないほどの強烈な揺れが起こった。


 たちまちに通路は崩壊してマサカリダコの群れは地割れのクラックや突起に身体を切り裂かれたちまちのうちにズタズタになった。


 リリアーヌが召喚した七十二柱であるアガレスの地震魔術が炸裂したのだ。


「今だ! 一気に押し通るぞ!」


 揺れが収まると同時に上総は聖剣を掲げ、半死半生になったマサカリダコを蹴り飛ばしながら通路を駆け抜けてゆく。






 その少年を拾ったのはほんの気まぐれだった。


 夜の新宿――。


 特に魑魅魍魎が巣食う夜の街では素性の知れない輩がそこかしこに跋扈しており、その筋である黒瀬ですら不用意に人気のない路地裏に入ることは憚られた。


 桑原洋治にはそんな薄暗い場所で出会った。


 質の悪いチンピラに絡まれていたのだろうか。それも言葉がまったく通じないところからいって明らかに日本人ではない。


 路地裏、と称するのも躊躇してしまう、ビルとビルとの隙間のような場所で、桑原が殴る蹴るの暴行を受けているのを見たのはほんの偶然だった。


「おい、そのくれぇでやめねぇかよ」


 黒瀬はデカい。一九〇近い背に一〇〇キロを超えるガタイだ。その上、あきらかにその筋であると思われる服装の大男を見れば大抵の人間は道を開ける。


 たまたま、舎弟にタクシーを拾わせているところであった。少年をいたぶっていた東南アジア系の男たちは黒瀬がひとりであると見るなり、数を頼んで激高し意味の分からぬ言葉を吐き散らかした。


 ――どうせヤクザといってもこちらが危険な外国人であるということを見せつければしっぽを巻いて逃げ出すだろう。


 浅黒い貧相な顔つきの男が下卑た笑みを口元に浮かべたまま不用意に距離を詰めてきた。


 黒瀬にとっては相手が日本人だろうが外国人だろうが、そんなことはどうでもよかった。


 問題だったのは、たったひとりの少年に対して刃物をちらつかせて五人がかりで囲むというそのやり方だった。


「気に入らねぇな」


 ある程度は日本語を理解しているのか、男は隣の仲間に向かってニヤニヤしながら黒瀬に対し視線を切った。

 次の瞬間、黒瀬の鉄拳が男の頬にめり込んだのは当然であった。


「今、オレが話してるだろうが」


 男は軽々と吹っ飛ぶと壁にぶつかって動かなくなった。


 黒瀬はそのとき自分の拳に白いものが幾つか刺さっていたことを覚えている。力任せに振るった拳がもろにめり込んで男の歯を頬から突き破らせたのだった。


 わけのわからない言葉で男たちは吠えた。夜とはいえここは日本である。そして繁華街からややはずれているとはいえ人通りもかなりある。当然とばかりにナイフを抜いてかかってくる腰の据わらなさは、突如として暴発する危険性というよりも怯えばかりが目立っていた。


 黒瀬はナイフを振りかぶって駆けてきた男の膝を無造作にカカトで蹴り抜いた。


 ぐうづっ


 と聞きなれない声で悲鳴を上げて男が身体を前に折る。あとは男の後頭部を掴んで自分の膝に導いてやればよい。

 黒瀬は男の顔面をくしゃくしゃに潰すと、残った三人に向かった。


 少年を一方的にいたぶっていた男たちは、手にした財布を持ったまま茫然としていた。


 ――財布は大方少年のものだろう。


 黒瀬は無造作に歩み寄るとそこらで拾った角材を握っていた男の手首を掴んだ。


 背こそ一八〇はあるが、女のように頼りない腕の細さだ。軽く捩じり上げて力を入れると、ぽきっと折れた。


「おいおい。もっと小魚を食えよ」


 軽いアドバイスをかけると泣き叫びながら跪いた男の後ろ頭を情け容赦なく靴底で踏みにじった。男の顔面は地面に衝突するとまたたく間にぬるい血で池を作った。


 最後のひとりは根性を決めたのか、目をつむったまま突っ込んできた。ここはきちんと対処するのがもてなしの心であろう。黒瀬は振りかぶったストレートを放つと男の顔面をぐずぐずの泥人形のごとく変えてやった。


「大丈夫かよ、小僧」

「あ……」


 それが桑原洋治との出会いだった。


 聞けば少年は高校を中退したあと、やることもなく街をブラブラする毎日だったらしい。


 結果として助けられたことによって桑原はやたらに黒瀬を慕うようになった。恐喝にあうような男が極道に向いているわけがない。実際問題、黒瀬がなにごとかをいいつけても、パシリひとつ満足に行えない不器用さであったが、黒瀬はなんとなく桑原を手元に置くようになっていた。


 自分でもわからない。が、無口ながらどれほどほかの若中にしごかれてもまるで逃げ出したりしない根性だけは買っていた。


 印象深かったのは、黒瀬が「もっと肉をつけろ」といわれれば腹を壊すほど肉を食い、「身体を鍛えろ」といわれれば用事の合間を縫って筋トレに励んでいる桑原の姿だった。


 だいたいがヤクザ者などは楽をして堅気の人間よりも金を稼ぎ、威を誇示し肩で風を切って世間を歩きたいがために、非合法な仕事に手を染めるのだ。


 桑原のように、勤勉に身体を鍛え、酒も飲まず賭けごともせずストイックに自分を鍛える男など聞いたことがない。そもそも線が細い今風の桑原はなりだけを極道に変えたとて箔などつくはずもなかった。むしろ黒瀬が心配しようものなら「いや、でも僕にはこれくらいしかできませんから」と青白い顔で答えるだけであった。


 だから組の掟であるクスリに手を染めたと聞いたときは誰よりも耳を疑ったのだ。


 黙々と事務所の裏で筋トレに励む桑原はどこか滑稽感すら漂っていた。


 黒瀬は生まれつき体格には恵まれており、中学に上がったころにはすでに無敗を誇っていた。


 元プロボクサーや元レスラーをまとめて五人ほどのしたこともある。ヤクザにとって暴力とは鍛えて身につけることではなく、元々生まれ持っていなければならないものだ。


「すみませんねリュウさん。お待たせしちゃいまして」


 黒瀬はパチパチと燃える火から視線を動かすと水筒に水を汲んで来た上総を見た。


「いや、構わねえよ。オレはこれをやってたからな」


 一行はマサカリダコの群れを突破したあと、野営を行っていた。といっても地下通路の脇に広がる店の一角を無断で拝借しているだけのことだ。奥へ奥へと進むと、ついには天上の照明が機能していない通路にたどり着いた。食堂が軒を連ねる一角で椅子やテーブルをどかして入り口にバリケードを作ってある。ここで八時間ほどの大休止を取ることにし、張り番は男女それぞれが代わりばんこに行うことになっていた。


「へへ、どうも見張りってくれば俺はコーヒーを飲まなきゃいられないもんで」


 上総が簡易的バーナーを設置し薬缶で湯を作っている。どうも、あちこちにあるトイレでは水がふんだんに出ており、補給には困らない。普段ならばトイレでなど、と思うのだろうが駅の外に出れないとなれば水は文字通り人間の死命を制するのでどうこうなどいえはしないのだ。


「なに、考えていたんですか?」

「いや、桑原のことさ」

「そうですか」


 上総はそれだけいうと黙った。黒瀬は余計な口を一切叩かないこの青年を気に入り、半ば尊敬しはじめていた。


 ついて来るといきり立っていた舎弟たちを置いて無理やりについてきてものの、ダンジョンの中は黒瀬が今まで持っていた常識のすべてを破壊していた。


 雪村上総という男は強い。口に出す必要もないほど厳然たる事実である。剣がなくとも、黒瀬が得意のステゴロですらまったくかなわないだろう。かの男が魑魅魍魎が跋扈するこの場所でどこか泰然としていられるもの、超人的な実力に裏付けられているからである。黒瀬にとっては上総はときどき背を丸めて座っている巨大な虎に見えた。そして、この虎ですら翻弄する人外めいた怪物、すなわちダンジョンマスターが迷宮の底で待っているのだ。


「――もうすぐ、底ですよ」


 上総がマグカップに湯をそそぎこんでコーヒーを作りながらそういった。


「そうか」


 上総がいうのであればそれが真実だろう。そしてそれは自分が桑原ともう一度邂逅することにほかならなかった。


 黒瀬はスキットルの中身を舐めるようにゆっくり飲むと、折った椅子の爆ぜる火花に目を細めた。


 


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