37「バトル・オブ・アキハバラ」

 ゴーゴーと音を立てて燃え上がる炎に上総は思わず顔を覆った。夕暮れの秋葉原の街は一瞬で人々の怒号と悲鳴のうずに飲み込まれた。


 すぐ近くの歩道にいた数人が巻き込まれ火だるまになって絶叫を上げる。


「くっ――!」


 上総は上着を脱ぐと倒れ込んだ男に着いた炎を消しにかかった。


「おい兄さん、どくんだっ!」


 近くの飲食店から消火器を調達した黒瀬が男に向かってノズルを向け薬剤を放射する。


 上総は素早く店の入り口に視線を戻した。燃え上がる炎の中で両手を開いて薄笑いを浮かべるストーカー青年を目にして下唇を噛む。


「な、なんだよう、アレは?」


 救急車を呼ぶこともせず一心不乱にスマホで現場を撮影していた野次馬のひとりがその異形に気づき怯えたようにいった。


 ぎちぎちと身体を軋ませながらストーカー青年の身体がみるみるうちに膨れ上がってゆく。


 伸ばした両腕はみるみるうちに丸太のように太く長く伸びると、青年の脇腹の間に木と木を飛び回るムササビが持っているような飛膜が現れた。


 頭部は子供がお遊びで粘土をいじくりまわしたようにゴツゴツと変形し、無数の突起がウニのように出現した。


 上総の背後に立っていた若いOLが悲鳴を上げながらスマホをすべらせアスファルトに落下させる。視界の端で跳ねた液晶へと蜘蛛の巣の亀裂が入ったことを確認しながら構えを取った。


「こいつは、桑原のときと同じだ」

「桑原?」


 ヤクザの黒瀬が喉仏を動かして生唾を飲み込んでいる。上総にとっては見慣れた異形であるが、黒瀬にとってはどうやら初見ではないらしい。


 どちらにしろ『グリモワールキングダム』にはクリスをはじめとしたメイドたちが多数いるのだ。上総はネクタイをゆるめると無言で呪符を取り出していた紅にいった。


「紅、フォロー頼む」

「ん。キッチリやりなさい」

「おい、ちょっと待った――!」


 呼び留めようとする黒瀬を無視する格好で上総は走り出した。異形の怪物と化したストーカー青年は身体を半身に開くと丸太のような腕を勢いよく振るった。


 ごう


 とムササビのような飛膜で煽られた炎が上総に向かってまっしぐらに飛んだ。


 上総は素早く右に動いてかわす。


 背後では放たれた炎のうずに呑まれた野次馬たちが絶叫を上げている。


 上総はだんっと地を蹴って飛び蹴りを繰り出した。


 怪物は肥大化した両腕をクロスさせて上総の蹴りを防いだ。


 が、勢いは殺し切れず後方に吹っ飛んだ。入り口の柱に身体をぶつけると癇に障る奇声を発してビルの上空へと跳び上がった。


「このムササビ野郎め」


 いかなる秘術を用いているのかムササビ怪人は両腕の飛膜を使ってビルからビルへと器用に飛び移り瞬く間に小さくなってゆく。だが逃げ出したわけではない。気配は消えない。上空で脅威たる上総を狙っているのは見え見えだった。


 上総が構え直すと同時にそれは来た。


 頭上から急降下爆撃を行うようにムササビ怪人は凄まじい勢いで突っ込んで来る。


 右――。


 上総は超人的な反射神経でムササビ怪人のタックルをかわすと激しく舌打ちをした。


 手首から肘までの前腕部が綺麗に切り裂かれている。


 地面すれすれまで落下し再び急上昇したムササビ怪人がすれ違いざま食い破ったのだ。


 腕から血を滴らせながら上空を見やると影は素早く左右のビルに飛び移りながら上へ上へと登ってゆく。


 どうやって素早く飛翔するあの怪人を攻撃しようかと迷っていると後方で控えていた紅が激しく叫びながら振りかぶる姿が目に映った。


「なにやってんのよ。だらしがないわねっ」


 紅は身体をやや仰け反り気味にしながらムササビ怪人が登っていった上空へとサイドスローでなにかを放った。


 手裏剣――?


 人並み外れた上総の動体視力が捉えたその物体は折り紙で折った紙手裏剣だった。


 最初、それは目の錯覚だと思った。


 だが、折り紙の手裏剣は夜の闇を切り裂いて飛翔するうちに、手のひらサイズだったものから座布団大に変化したのだ。


 赤と青との二枚の折り紙で作られた手裏剣は頭上で飛び交うムササビ怪人が目がけて異様な唸りを響かせ迫ってゆく。


 紅の術でグレードアップした巨大手裏剣は、ビルの窓枠にへばりついていたムササビ怪人を掠めることもなく明後日の方向の窓を突き破って轟音を響かせた。


「ああ、もおおっ。惜しいっ」


「なにやってんだよ。ぜんぜん惜しくないよ、このノーコンっ!」


「うるさいわねっ。アンタを助けてやろーと頑張ってるのにその言い草はないでしょっ」


「どこがだよ。って、いってる間にまた来たーっ!」


「え、嘘嘘。あ、このーっ。待ちなさいよ。この白河か藤浪かといわれた抜群の制球力を見せてやるんだからっ」


「コイツ、まったく当てる気がねぇつもりだーっ!」


 樹上から樹上へと華麗に飛び移る野生動物のようにムササビ怪人は紅の方術手裏剣をひらりひらりと嘲笑うかのようにかわしてゆく。


「嬢ちゃん、コイツをぶつければいいんだな?」

「え、ええ、そうだけど」


 紅の投擲に業を煮やしたのか黒瀬が紙手裏剣を奪うと振りかぶって投げた。


 大柄な黒瀬は惚れ惚れするようなフォームで太い腕を鞭のようにしならせ紙手裏剣を虚空へ放った。


 誰が投げても折り紙にかけられた方術効果は発揮されるのか。


 紙手裏剣は瞬く間に巨大化すると素早く左右のビルに飛び移って狙いを絞らせないでいたムササビ怪人に直撃して絶叫を上げさせた。


「すっげー! 黒瀬さん、一発じゃないですか!」

「へ、これでも元は甲子園球児よ」


 上総の感嘆の声に黒瀬照れくさそうに鼻の頭をこすって笑う。紙手裏剣はムササビ怪人の胴体部に喰らいつくと肉を引き千切りながら激しく回転し血潮の雨を降らせた。


「やったか……?」

「いえ、まだよっ」


 黒瀬の安堵の声を否定するように紅が両手に呪符を構えた。ムササビ怪人は身体を袈裟懸けに刻んでいた手裏剣を無理やり押しやると、今度はやや離れた位置にいた黒瀬に向かって急降下爆撃を浴びせた。


 それを黙って見ている上総と紅ではない。紅は手にした呪符を舞い降りるムササビ怪人に叩きつける。


 が、ムササビ怪人は炎と化して身に纏わりつく呪符をものともせずに突っ込んで来る。


 上総がフォローしようと身を乗り出すが早いか、ビルの五階に位置する窓ガラスが轟音を立てて吹き飛んだ。


「いやあああっ!」


 飛び出した影。

 クリスだった。


 メイド服を纏った少女は高さをものともせずに横合いから急速に落下するムササビ怪人に向かって飛び蹴りを放った。


 靴の爪先がムササビ怪人の頭部に触れる。いかなる気が込められていたのか、ムササビ怪人の身体は横へ吹っ飛ぶとビルの壁面にぶつかってぱぁんと軽やかな音を立てた。


 熟したトマトを全力でぶつけたような最期である。


 上総はムササビ怪人の染みをから目を逸らすとよく血を吸ってパンパンになった蚊が壁に叩きつけられたさまを想起しゲッとばかりに舌を出した。






 後刻――。


 上総たちは陰陽機関御用達である『カフェ・ボルケーノ』に移動すると、黒瀬に対して一連の事件にまつわる成り行きを説明していた。


「するとなにか。あのバケモノは今新宿で流行ってるクリスタル・トリガーのせいだっていうのか」


 黒瀬は金のリングが嵌まったゴツい指でグラスを揺らすとわずかに顔を歪めた。


「ええ、間違いないわね。機関の調べによれば、あの怪物の身体からは人間のDNAが検出されたわ」


 紅が冷たさすら感じる瞳で黒瀬の言葉に応える。


「あのクリスタル・トリガーを使用することによって、人間はさっきあたしたちが戦った怪物へと変異を遂げる。あたしたち向きの話ではあるわ」


「にわかには信じ難ェが――目の前に喋るイタチを持ってこられちゃあ、降参するしかねぇようだな」


「だーかーら、オレはイタチじゃなくって由緒正しい管狐だっての!」


 管狐の外道丸はすでに情報解禁ということでテーブルの前でぴょんぴょん跳ねながら黒瀬に対して遺憾の意を表明していた。


「ふん。アンタがイタチだろうがなんだろうが、とにかく新宿に顔が広い黒瀬さんの力を借りられるのであればこっちも願ったり叶ったりってもんなの」


「オレの人権は?」


 紅がオレンジジュースをちゅーっとストローで吸い上げながらすげなく外道丸の意思表示を無視する。


「しかし、陰陽機関にバケモノ退治か。コイツはますますオレらの領分を超えてやがる。陰陽師だのモンスターだのはワケがわからん」


「その黒瀬さん。俺と紅もお遊び半分で首を突っ込んでるワケじゃないんです。よければ、黒瀬さんがなぜ、アレを追っていたのか話してもらえませんか?」


「リュウでいい。その代わりといっちゃあなんだが、オレもおまえらを呼び捨てにさせてもらうからよ。第一、そこのメイドの姉ちゃんにゃ命を救ってもらったからな。こっちも腹割って話さにゃ筋が通らねぇぜ」


「はにゃー? クリスは別にたいしたことはしていませんよう。どーも表が騒がしいと思ったら勇者さまたちが悪者退治をしていたので、ほんのちょびーっとお手伝いさせてもらっただけですし」


 すでにグレープフルーツジュースを飲み切ってストローの殻に水滴を落としながらうにょうにょするのを眺めて楽しんでいたクリスが小首をかしげながら返答する。


「そういうわけにはいかねぇ。ま、ハッキリいっちまえば恥ずかしい話だが、オレは身内のケジメをつけるため、あの店を探していたんだ」


「えっと、じゃあリュウさんて呼ばせてもらうけど……あの怪物に心当たりとかあるんですか?」


「そういうわけじゃねぇんだが。まず最初に、オレが探していたのは桑原って男でな」


「黒瀬さん。あなたが探していたのは新宿四鷹会の準構成員である桑原洋治。年齢は二十二歳。組内でご法度であったクスリに手を出したことで、あなたが直々に追っていた。そうで間違いないわね」


 紅の言葉を聞いた途端、黒瀬の目つきがスッと細くなった。上総はホットコーヒーをスプーンで混ぜながら厚みを増した黒瀬の言葉をジッと待った。


「嬢ちゃん。人が悪いぜ。いつからそれを知っていたんだ……?」


「正確には今ね」


 紅はピンクケースに入ったスマホを片手でフリフリさせながら物憂げにいった。


 どうやら上総が危惧していたようなスマホアプリで遊んでいたわけではなかったらしい。


「機関のデータベースにあなたたち四鷹会の動きを調べてもらったの。ま、かなり派手にやってたみたいだから、裏はすぐに取れたわ。ああ、悪く取らないでちょうだい。

 別にあなたの存在を馬鹿にしているわけでも下に見ているわけでもない。あたしたちが追っているのはクリスタル・トリガー。あなたが追っていた桑原という男も、そしてさっきのムササビもどきも、それが事件の根底にある。そうよね?」


「ずいぶんと頭が切れるんだな」

「そうでもなくってよ――って!」


「あー、悪いなリュウさん。紅のやつは対人経験不足で、どーも礼儀とかに疎くってよ」


「そそそ、オレっちからもよくいって聞かせるんで、今日のところは勘弁してくれよう」


「はーなーせーっ! なにすんのよっ!」


「うるっせ! だいたいおまえは口の利き方を知らねーんだよっ」


「紅っ。これから協力関係を結ぶ相手にそりゃないぜ」


 上総と外道丸に頭を押さえつけられながら紅が「うぐぐ」と呻く。先ほどまで黒瀬の全身の筋肉を覆っていた異様な強張りが取れて、空気がフッとゆるんだ。


「オレも余裕がなかったな。確かに嬢ちゃんのいってくれた情報で間違いない。オレはクリスタル・トリガーでキマっちまってた桑原だったものを以前に目にしているんだ――」


「もーう、手ぇどけろ! って、あの怪物を以前にも見ているですって?」


「はじめは単純に今、新宿で流行ってるヤクに手を出した桑原にケジメを取らせるだけのつもりだったんだが。だが、ことはそう簡単じゃねぇってことがさっきのことでもようっくわかった。オレは歌舞伎町の路地裏とヤクをさばいてるって噂のクラブで、もう二度ほどありえないものを目にしている。一度目は、バケモノになっちまった桑原と、便所で泥みたいに溶けちまったクリスタル・トリガーの売人」


「そして三度目はクリスの――ああ、この子のストーカーをしていたメイド喫茶の常連の男ですね」


「上総。ストーカーくんは近ごろやたらと新宿をうろついていたって同じ大学のゼミ生から裏が取れたわ。やはりクリスタル・トリガーのことを自慢げに話していたそうよ」


 スマホの通話を終えた紅がふぅと気だるげに息を吐き出す。


「やっぱ一連の怪物変化や人体融解事件にはクリスタル・トリガーが絡んでるんだな」


「ねぇねぇ勇者さま。私の本名とかぶっていてなんだかヤな気持ちですぅ」


「我慢しろよ」

「本名?」


 なぜか黒瀬が話題に食いつく。反応が得られたことがうれしかったのか、クリスはにぱーっといい顔で笑うとずいと前に出て自分の存在をアピールした。


「あ、リュウさま、リュウさま。私、クリスタル・ザラっていうんです。ザラ家の麒麟児ってこう見えても故郷では知らぬものはいないほどだったのです」


「……そいつは、まぁ、夏場に消費されそうなもんだな」


「いや、ビールの話はしていないんだけどさ。リュウさんも相手にしなくていいから」


「で、黒瀬さん。あなた、あの場所でメイド喫茶探していたわよね。つまり、あのストーカーくんがクスリの常習者って情報でも得てたワケなの?」


「いや、違う。あの店には桑原の妹がバイトしてるって聞いてな。桑原は両親を早いうちになくしていてな。身内を順繰りに当たっていただけだ」


「その身内ってのはなんて子なんですか」


「確か、桑原の両親はあいつがガキだったころに離婚してて、桑原は父親が、妹は母親が引き取ったそうだ。名前は、なんつったか、そうだ。りん。兎島りんとかいったな」


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