33「女心となんとやら」

「あの、お茶ください」


 食後のひととき。


 上総はおそるおそる湯呑を上げて給仕を行うクリスに対し要望を伝えた。上総、リリアーヌ、クリスが三人そろって久方の夕食である。たっぷりとした肉料理に舌鼓を打った後はやはり香気の漂う茶で舌を洗いたいというのが人情だろう。


「あの、クリス。カズサさまがお茶を所望されておりますよ。早く用意なさいな」


 隣にちょこんと座っていたリリアーヌがいぶかるような視線をクリスに向けた。一方、クリスはなにごともない様子で台所に向かうとほどなくして盆にお代わりであろう新たな湯呑を乗せて静々と戻って来た。


「あ、ありがとう」


 どこか引き攣った顔で礼をいうがクリスはひたすら無言である。上総は額にぷつぷつと細かな汗を浮き立たせながら茶を口元に運んだ。いつもどおりの達人級の美味さだ。


 が、折角の茶の味もギスギスした空気の中では判然としない。


 理由はわかりきっているだけにどう対応していいかわからない。上総の女性に対する経験値の低さが否応なしに浮き彫りにされた。


「もう、なにをそのように不貞腐れているのですか。カズサさまに失礼ではありませんか。それにカズサさまもカズサさまで。ふたりとも昨晩からなにやら様子がおかしいですよ。クリスもなにかあるのならわたくしに包み隠すことなくお話しなさいな!」


「う、うううっ。だって、だって勇者さまが酷いんですよーっ。よりにもよって私の朋輩をお店の前で口説くんですものーっ」


「は?」


 リリアーヌは胸の中に飛び込んで来たクリスを受け止めながら乾いた声を上げた。


 ――ヤバい。これはよくない傾向だ。


「ちょっと待った。クリス、君は誤解している。昨日も説明したように俺にもなにがなんだかわからないが、あれは不可抗力だ」


「殿方はそうやっていつも私たち女を踏みつけの上にぽーいするんですぅ。こればっかりは、こればっかりはいくら広大無辺な慈母のごとき寛恕の心を持つクリスでも限界です。なんでよりにもよって同じメイドを味見なさろうとするのですかーっ」


「……そういえばカズサさま。昨夜はクリスが奉公する店まで赴かれたそうですか。もしやと思いますが、まさかそのような場所で不思慮に花を摘まれようと思ったのでありますか?」


(な、なんだこのプレッシャーは!? 違くて。これはいつものやさしい慈悲あふれるリリアーヌじゃない)


 リリアーヌの背後に突如としてゴーゴーと凄まじい勢いで吹き荒れる業火と不動明王が現れたような錯覚を覚えた。凄まじい覇気である。幻視された猛火は実態を持つように思われ上総は自然と腕を上げて身を守ろうとする。その怒りのほど。激烈だった。


 思わず腰を浮かしかけてテーブルに膝をぶつけた。涙目になる。恐怖が上総の全身を支配した。


 リリアーヌがずいとテーブルを挟んで前に出る。自己主張が強すぎるたわわなふたつのスライムがぷるるんと震えてドレスから飛び出しそうになるがそれどころではなかった。


「説明していただけますよね」

「……はい」


 上総はいとも簡単に屈服した。






「いいですかカズサさま。誤解を招くような行動を取る。すなわちそのメイドにつけ込まれたのはそういった隙をカズサさまが見せたからなのですよ」


「はい……はい……」


 リリアーヌは処女に貞操の神聖さを説くようにくどくどと説教を延々と続けていた。さしもの上総もこれには閉口し苦り切っている。はじめは「やったね!」とばかりに顔を輝かせていたクリスもリリアーヌのあまりのくどさにげんなりして今や死に体になっていた。よほど暇なのか先ほどから表情が精巧な人形のようになっている。


「って聞いているのですかカズサさま!」

「あ、はいっ。聞いてます。きちんと聞いておりますよ」


(やれやれ。これがなければリリアーヌも完璧なんだけどなぁ)


 素直で美しく完璧なスタイルを持ち抜群の気品と清楚さを持ち合わせているリリアーヌの欠点のひとつに極度の説教癖があった。


 これが長い。

 ひたすら長いのだ。


 一度導火線に火がつくとリリアーヌはそれこそ古今東西のロムレスの故事を引き合いにして延々と話を続ける。なまじ修道院で学んだ数年の過去がそうさせるのか、果てしなく続くくどい話はどのような人間も辟易させた。


 リリアーヌのうしろに正座のまま控えているクリスは完全に飽きたのか時折口をパクパク動かしながら上総をからかい完全に遊んでいる。


(あのなぁ。リリアーヌが振り向いたら半殺しにされんじゃないのか)


「――と、カズサさまも理解してくれたようですしこれ以上のお話は蛇足になってしまうでしょう。よいですか。これからは見も知らぬ女性とはお仕事以外ではあまり親しくならないよう気をつけてくださいませ。そうでなくてもカズサさまほどの殿方は市井の女性からすれば垂涎の的なのですから」


「オーケイ。しっかり理解したよ。これからはどのようなときも隙を作らないよう努力してゆくよ」


「本当ですか?」


 リリアーヌがへの字口でジッと上目遣いをする。とにかくかわいいので上総は胸がきゅんとした。


「ホントホント。俺が約束破ったことある?」


「ありますよ。ロムレスに残るっておっしゃったのに勝手に帰ってしまわれました」


(しまった。墓穴掘ったわ)


 当時のことを思い出したのかリリアーヌは、小さく呻いて今度は唇を強く噛み締め泣き出しそうになる。とかくロムレスの女は感情過多だ。そういったことを日本にいると忘れがちになる。


 上総はどうにかリリアーヌを落ち着かせると一旦時間を置くために部屋の外に出た。中ではクリスがいつものように情緒不安定なプリンセスを慰めているのだろう。


 やはり家の中に女性がふたりもいると大変だ。だが少なくともひとりぼっちのときと違って胸にジワジワと広がってゆく空虚な気持ちはなくなっていた。上総はそれがうれしい。アパートの前の公園に出てベンチに座れる。こういうときタバコでも吸えればいいのにな、と空を眺めた。東京の空は灰色がかって薄く曇っている。青空はないが上総の心はいつになく安定していた。






「それで、あの件の調査、少しは進展したの?」


 場所はいつもの陰陽機関御用達の店『カフェ・ボルケーノ』だ。


 紅にしては区切るようなテンポの悪い問いに上総は一瞬呆けた顔のまま固まった。


「えと、どうしたのよ、その鳩が機銃掃射喰らったような顔は」


「え、あああーっ。そうね! 調査ね、調査。あはは、うん、そうだよ。暇を見てコツコツやってるんだけど、敵さんも中々しっぽを見せないもんで」


(やばい。一二〇パー完全に忘れてたわ……)


「ん。悪いわね。こっちが無理いって振ってしまった仕事なのに、急かすようなこといってしまって。そうよね。そう簡単に目鼻がつくなら誰も苦労しないもんね」


 紅は細く整った眉をひそめるとアイボリーのカップに口をつけ上総から不自然に視線を切った。


(ったく、隠しごとが下手なやつだな)


 冷静を装っているようであるが、これだけ時間をともにすれば少しは紅の気持ちは読める。 


 現に今でも紅はテーブルの下で両脚をせわしなくぶらぶらと動かしている。基本、礼儀正しい彼女がまるで小さな子供のように脚を動かすときは大抵相手にいいい出しにくいことや心にストレスが溜まっているときに限られた。


 ――つーか、そろそろ動き出さないとマズいよなぁ。


 先週のリリアーヌが泣き出した一件から上総はあきらかに仕事の能率が落ちていた。具体的にいうと、紅から受けている退魔業も延ばせるものはできるだけ先延ばしにしてできるだけ家にいる時間を設けリリアーヌとクリスとコミュニケーションを取るようにしていた。


 別に特別なにかをするというわけではない。金の心配はなくなったが、それでも時間の余裕はないので、三人家に籠もってともにいる時間を増やしただけである。それも特別なことをするわけではない。レンタルショップで借りてきたDVDを日本語の勉強も兼ねて見たり、そのあとは話の内容を批評し合ったり、近所を三人で散歩してみたりと誰でも行うような些細なことだ。


 最近クリスは写真を撮ることにハマりはじめた。といっても本格的なカメラを購入したわけではなく、スマホに元々ついている撮影機能を使ってパシャリと気の向くまま撮るだけだ。けれども、スマホの動画機能で映画を撮る監督もいるくらいに最近のものは画素からいっても馬鹿にできない。クリスはスマホで撮影した画像を店で写真に起こしてアルバムや部家のあちこちに貼るのが好きであった。風景写真や、野良猫、散歩中の犬などを好んで撮り、それ以上に上総やリリアーヌ、そしてクリス本人を含めたものを撮ることにこだわっていた。


「ねえ、なにボーッとしてるの。大丈夫?」


 と、長くもの思いに耽っていたのだろうか。対面にいた紅に心配され上総は慌てて顔を上げぶるるっと身体を小刻みに揺らした。


「なーにやってんの。びっくりした犬か。でも、ホントに平気なの?」


「え、あ、あはは。平気だ。俺は平気だぞ。全然問題ない」


「業務を山積みにしたあたしがいうのもなんだけど、キチンと睡眠時間は確保しなさいよ。えと、仕事が多過ぎなら、少し減らしましょうか? なんか、悪いし」


「いや、いや、平気だって。にしてもなんか今日は調子悪いのか」


「は? 別にあたしはフツーよ。いつもと同じじゃない。どこか変、かしら」


 ――妙に物わかりがよすぎるところが気になるんだが。


 上総が黙ったまま百面相をしていると紅は呆れたような顔つきで化粧室に立った。テーブルではスコーンと格闘していた管狐の外道丸がふーっとこれ見よがしに息を長く吐き出して後ろ足を使って器用に立つ。


「兄さん。紅はなんかガッコで上手くいってねーみたいなんでさ」


「え、なにそれ。もしやイジメかっ」


「ないない。紅はイジメをするよーなやつを半殺しにすることはあっても、イジメられるなんてないでしょー」


「半殺しとか普通にいうなよ。てか、そうだな。紅がクラスメイトをしばき倒す図は想像できるが反対はないな。じゃあ、その悩みってのはもしかして、恋愛関係とか……?」


「兄さん。紅は聖ヴェロニカ学園ってとこに通ってんの。女子高だよ」


「え、なにそのエロゲ臭い名前の学校は……なんか胸がドキドキするんだけど」


「オレもよく知らんけどカトリック系じゃね? けどロクに出席しない紅が在籍できてるってことは機関の息がかかってるからだかんなー。ああ、えと、話が脱線しちまったか。でさ、でさ、前に紅が文化祭の実行委員やってるって話しただろう。つまりは悩みってのはそっち方面なのよ」


「ふーん。でもあいつ愚痴をぜんぜんこぼさないからなあ。相談に乗ることはできても、俺自体がロクに学校も行ってないし、中学のときとはまた違うんだろう? アドバイスとかできそうにないしな。外道丸、ゴメンなあ」


「だーっ。謝んなくていいってばさ。第一、紅は仕事の進捗状況で悩んでるんじゃなくて、問題は人間関係らしいんよ。あいつってば、一応兄さんにばっか仕事を割り振ったの悪いと思ってわかりにくーいやり方で退魔業のほうも処理してるんよ」


 外道丸の言葉は上総の胸に強く響いた。このところリリアーヌたちにばかり気を割いていて紅のことはほとんど忘れていたからだ。紅の不器用な心遣いを思えば、なんのかんのと理由をつけて仕事を後回しにしている自分が酷く不実に思えてならない。


 急に、馥郁たる香気を放っていた口中のコーヒーの苦みがくっきり浮き彫りになった気がして上総は顔をしかめた。


「そのせいでホントはてんてこまいなんだ。オレっちとしてはガッコも仕事も頑張ってる紅にやめろっていえねぇよ」


「なんだ。外道丸なら止めると思ったんだが」

「だって、紅、すっごく楽しそうなんだもんよ」

「……そっか」


 思えば紅も名門退魔士の重圧に耐えながら十六という年齢にそぐわない気苦労で日々身をすり減らしている。


 上総も運命のいたずらで青春を魔王討伐に費やしあたりまえの青春を味わうことなくこの年齢になってしまった。


 ――青春には思い出の一ページが必要だ。


「わかったよ外道丸。なら、俺はせいぜい愚痴の聞き役に徹するよ」


「苦労かけるな兄さん」

「そいつはいわない約束だぜ」


 ニッと笑った外道丸が前脚を突き出して来る。上総はひょいと拳を合わせて、なにか洋画のワンシーンみたいだと奇妙な満足感を覚えていた。


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