30「クリスタル・トリガー」.

 ――深夜零時。


 今や最高潮を迎えるべくガンガンに音楽を流している新宿のとあるクラブのトイレには陰鬱な殺気が漂っていた。


「ヤス。支配人にゃナシをつけてある。誰も入れさせんな」


 四鷹会若頭補佐の黒瀬は若い舎弟にそう命ずると個室トイレの便座に座り込んでいる男へ向き直った。


 男は用を足しているわけではない。それが証拠に便座の蓋は下りておりガックリと首を折ってうなだれている男の顔面は子供がいたずらで捏ねた粘土細工のように変形していた。


 黒瀬は無言のまま青いバケツに汲んだ水を男へと放った。無慈悲に放たれた大量の水を浴びた男はくぐもった声を上げながら覚醒した。が、立ち上がりかけると同時に、黒瀬の巨大な腕で喉首を掴まれタンクへと押しつけられる。


「おい、ウチのシマで妙なヤクを流していた売人はテメーだって割れてんだ。手間ァかけさせんじゃねえや」


「ぐっ……待ってくれ! 黒瀬さん……おれは……おれは、別に……ッ!」


 クスリの売人は目を白黒させながら手足をばたつかせたが、人並み外れた黒瀬の膂力から逃れられるはずもなく、次第に顔色は赤黒く変色していく。


「しらばっくれんじゃねぇ。『クリスタル・トリガー』だ。このハコでおまえが捌いてるとタレコミがあったんだ」


 黒瀬は肋骨の痛みに顔を顰めながら鬱屈を晴らすように売人を締め上げた。つい先日、確かに目の前で起きた舎弟である桑原の変貌――。


 常識では考えられないバケモノと化した桑原とやり合った黒瀬はすべての根源となったヤクである『クリスタル・トリガー』の出所を探し出すため血眼になって猟犬のように情報を追い、ついにこのクラブがもっとも臭いと嗅ぎ当てたのだ。


「おまえのようなチンケな三下がおろせるシロモンじゃねだろ。どこの組だ。ウチのシマを堂々と荒らすような阿呆はよ」


「わ、わかりました……話すから……話すから……一旦下ろしてくれよう」


 黒瀬が手を離すと売人は狭いトイレの個室から転がり落ちるように外に出ると、汚れたタイルに尻を着けたまま激しく咳き込んだ。


「お、おれは、ただよう。クラブに来るおかしなガイジン女によ。クスリと金を渡されて、それを流してだけなんだ……」


「女だァ?」


 黒瀬は売人がその女から受け取っていた報酬を聞くと顔を激しく歪めた。ケチなクスリの横流しにしては桁が違い過ぎる。下手をすれば四鷹会が一年で稼ぎ出す資金に相当する額だった。


「テメェこの期に及んでフいてるわけじゃねだろうな。マジで東京湾に浮かべんぞ」


「ホント、本当なんだって。けど、あれだけの札束目の前に積まれちゃあ、誰だって――?」


「――!」


 会話の途中で売人はカッと両眼を見開いた。


「おい、おまえ――」


 咄嗟に異変を感じた黒瀬が後方に跳び退って距離を取るとトイレの入り口を見張らせていた舎弟たちがバラバラと駆け寄って来る。本能的に危険を感じ黒瀬は怒声を上げて制止した。


「テメェら! 来るんじゃねぇぞ。コイツはマジでやばい!」


 その声と同時に売人はすっくと立ちあがると自分の口元に両手を当てた。黒瀬は一瞬、売人が嘔吐するのかと思い小鼻を蠢かせたが、その考えは一瞬で裏切られた。


 売人の顔はまるで内側から巨大な棘が打ち出されたように奇妙に歪みはじめた。


 ぼごごっ


 とトイレの水洗が詰まるような音が流れたかと思うと、ほぼ同時に売人の頭部は内側から突き出た無数の突起に突き破られる格好で爆ぜた。


 パッと真っ赤な霧がトイレ内に広がり鉄臭い独特の臭気がむんと立ち込めた。


「クソが」


 黒瀬は袖口に付着した血と肉との塊を太い指先でこそげ落としながら、悪態をつく。


 頭部を失った売人は糸の切れた繰り人形のようにその場に膝から倒れ込んだ。


 一進一退か――。


 胸の奥底で疼く痛みに軽いイラつきを覚えながら売人のジャケットから転がり落ちた茶色の小瓶に気づいた。

 手に取って蓋を開け逆さまにする。とろりと流れ落ちた液体は薄く蒼く奇妙な色合いで輝いていた。






 上総は定時連絡のため紅と待ち合わせていた喫茶店に飛び込むようにして駆け込んだ。


 駅前から随分離れた住宅地に存在する『カフェ・ボルケーノ』は、その筋の人間のみが入店を許される特別な場所でもあった。


 時刻は十六時ほぼちょうどくらいである。軽く汗ばんだため上着を脱いで店内のボックス席を見渡すとちゅーちゅーミルクシェイクを吸っている制服姿の紅がジト目で上総を睨んでいた。


「セーフだろ」


「ちょっと遅すぎるんじゃないの上総。二分十八秒の遅刻よ」


「……んなこといわれたってさぁ。中央快速が遅延するのが悪いんだ」


「社会人ならそのくらい予測してあらかじめ余裕をもって行動するのがジョーシキでしょ」


「まぁまぁ兄さんとりあえず茶でも飲みねぇ。けど紅の気持ちもわかってやって欲しいんだよな、オレっちとしては。なにしろ授業が終わり次第文化祭の仕事を放り投げーの念入りに化粧をしーのでよう、実に健気な態度で一日千秋の思いで兄さんが来るのをスタンバってたんだからさ」


「外道丸。アンタよっぽどこの場でくたばって異世界に転生したいみたいね」


「ひゅう、ちちちだぜ。紅さんよう、いつもいつもこのオレが暴力に屈すると思ったら大間違いだ。だいたいさっきまで何度もメイクを確認してたのは事実だろう」


「そりゃ、ま、事実だけど。でもでも淑女としてこれくらいは最低限のマナーよ。別に相手がこのポンコツ上総じゃなくったって……あたしは別に」


 外道丸はテーブルの上にぴょーんと飛び乗るとしっぽを鉤型に曲げてニヤリと笑ったかのように思えるほど口元をひん曲げた。


「アンタね……!」


「まー、待った待った。これ以上揉めるのはやめよう。俺が悪かったからな、な!」


「おうおう、今日という日はとことんやってやんよ、シュッシュッ!」


 上総は止めに入るが今日の外道丸は一味違うのか仁王立ちの状態で短い前足を交互に突き出しジャブの真似をしている。上総は紅が立ち上がって掴みかかろうとするのを背後から両肩を押さえて制止する。


(それにしてもこの管狐が絶対君主の紅に逆らうとはどういう風の吹き回しなのだろうか。もしや死期が近いのか?)


「兄さん、今もしや、かなーりオレに対して失礼なことを考えてるのかな?」


「え、いや、ただ埋める場所とかどこにしたらいいかなぁ、と」


「それ酷過ぎますよねっ?」


「かーずーさー、はーなーせー! その白いのをコーヒーにジャブジャブつけるのが今のあたしの望みなんだからっ」


「そんな危ないやつを解放できるわけねーだろ」


 ちなみにこの喫茶店は陰陽機関御用達の会員制なので店員も妙な動物が人語を操っていたとしても驚きもしない。ロマンスグレーが似合う六十過ぎのマスターは品のいいティーセットを運んでくると静かに微笑んだ。


「で、どこまで話したかしら。あー、もう。アンタたちせいで予定がしっちゃかめっちゃかよ。ホントにもう」


「しっちゃかめっちゃかって。……おまえいくつなんだよ」


「十六」


「さよか。じゃなくてだな。あー、とりあえず定時報告させてくれよ」


「どうぞ」


 紅は運ばれてきたティーポットから自分と上総の分を注いだ。馥郁たる香りが卓上に広がった。カモミールティーだ。


 卓にはアフターヌーンティーセットであるスコーンと三種類のジャムが置かれていた。実に洒落ている。ジャムは、赤、白、黄色と色とりどり。おそらくはストロベリー、クロテッドクリーム、オレンジだろう。


 上総が革カバンから書類を出して読み上げていると紅が慣れた手つきで焼き菓子にジャムを塗りもしゃもしゃと食べ出した。ものすごい細身なのに見ていて気持ちいいほどの食いっぷりだ。外道丸はクロテッドクリームがお気に入りなのかこってり塗ってもらったスコーンに抱き着きながら必死で格闘している。


「随分健啖家なんだな」

「この商売身体が資本なのよ。食べなきゃもたないわ」


 紅はほそっこい小指についた真っ赤なジャムを意外に長い舌先でぺろりと舐めた。無作法であるがどこか妖艶で上総はどきりとした。紅は年齢にしては目が大きくどちらかといえば幼さが残る顔立ちだがたまにむしゃぶりつきたくなるような色気を滲ませることがある。


「あら、上総は食べないのかしら。ここのスコーンとってもイケるのよ」


「ん、んん。まぁ食べるけどさ。こんなに食ったら夕食が入るかな」


「なによ、男のくせにだらしないわね」

「俺はおまえと違っていたって胃が虚弱なんだよ」

「あら、そう」


 紅は現代っ子にしては手持無沙汰になってもほとんどスマホに目を落とさない。ぽっかりと空いた時間でも気にならないのか、両手を膝の上に置いて店内の調度をゆったりと眺めている。整った姿勢やいつ会ってもほぼ乱れのない髪形や服装を見れば、リリアーヌに通ずる抜群の育ちのよさを感じずにはいられない。


「と、そういえばあなたに話しておくことがあったわね」


「……とりあえずたまには早上がりというものをしてみたいんだが」


「今日は追加委託はないわ。そうびくびくしないの。で、話しておきたいのはこれのことなのよ」


 ごそごそと紅がカバンを漁ってテーブルの上に取り出したのは変哲もない透明な小瓶であったが、上総は内容物から発する魔力の残滓にいち早く気づき眉を顰めた。


「コイツは……?」


「今、新宿界隈で流行っているらしいドラッグよ。その筋では『クリスタル・トリガー』と呼ばれているらしいわ」


「その筋って。いつから陰陽機関は麻薬Gメンのお先棒を担ぐようになったんだ」


「ん」


 紅は口をへの字にすると小瓶をぐいと押しつけて来た。外道丸はふんふんと鼻を鳴らして小瓶を嗅ぐとなにやら神妙な顔つきになる。


 上総は栄養ドリンク剤くらいの小瓶をつまむと手のひらで弄びながら視線を落とした。瓶自体が透明なのでわかるが中身は綺麗な青だ。傾けるとさらりと内容物が移動しきらりときらめいた。蓋を開けるとわずかに魔力の残り香を感じ取ることができた。


「紅、こいつはやばいぞ。少なくともこの世界のものじゃない」


「でしょうね。上のほうでもこのドラッグからは危険な成分はまったく検出できなかった。つまり検査上は、ただの水なの」


「これがただの水だって……? ンなわけあるかよ」


 小瓶は上部へゆくに従って湾曲し口が狭くなっている。傾けて人差し指ですくい上げ目の位置まで持って来て目を細くしジッと見やる。


「ヤバいな。果てしなくヤバいシロモノだ」


 舐めてみる気にはなれなかった。上総は並の人間より薬物や魔力に対する耐性ははるかに強いが本能的にコレを口に入れるなと五感が告げていた。


「同意見。これがなんらかの呪術を施した危険物であることは機関のほうでも意見は一致なのだけれど、成分不明、由緒不明。おまけに相当力を入れて探っているけど出所はまったくわからない」


「これはかなり強力な術式が編み込まれている。俺は魔術は専門じゃないけど、滅多に手ェ出していいかどうかくらいは判別着くぞ。結論。コイツは相当に危険だ」


「そんなにアラームを鳴らさなくったってわかってるっての。なにせ、この新種のドラッグは短期間であっという間にアンダーグラウンドには広がっている。どう考えてもあたしたち側の人間が噛んでいるとしか思えない」


「それで今度はこっちにお鉢が回って来たっていうのか」


「時期が時期ね。この『クリスタル・トリガー』が出回り出したのは、あたしたちが秋葉原のダンジョンを攻略し終えてすぐよ」


「で、コイツをやるとどうなるってんだ。お上が右往左往するってんならタダの麻薬じゃねーんだろ」


「分類すると強烈なアッパー系らしいわ。もう新宿ではコレが引き金になってとんでもない数の暴力事件があちこちで起こってる。今のところ緘口令が敷かれているらしいけどメディアが食いつくいてこのことが世間がお祭り騒ぎになるのも時間の問題よ」


「しっかしコレの解析に俺の力をあてにしてるなら無理だぞ。正直、このドラッグは地球のもんじゃないってあちらさんも勘づいてるんだろ」


「あーのーね。陰陽機関があたしたち下請けにそんなテクニカルなこと頼むはずないでしょうが。アンタとあたしに求められてるのはあくまで猟犬の役。新宿であちこち嗅ぎ回って『クリスタル・トリガー』をバラ撒いてる連中の黒幕を見つけ出すことよ。もうほかの組は取りかかってるみたいだし、ウカウカしてると前回の功績なんてあっという間に記憶の片隅に追いやられちゃうんだからね」


「まぁ、仕事とあらば否とはいわんが。そっちが優先なら今抱えてる退魔業は一旦ストップってことなんだな?」


「それはそれで適正に処理してください」


「は――? ちょ、ちょっと待ってくれよ。今の状況でさえ結構アップアップなのに、加えてそんなよりにもよって地図の隅から隅まですり潰す作業にかけてる時間なんかないよ。なら、作業を分担するべきだ」


「分担なんてできないわよ。あたし、昼間は学校に行ってるわけだし」


「あのなぁ。なんでよりにもよってこの状況で」


 いつも強気なはずの紅がわずかにうつむいてどこか気まずそうに視線をさまよわせている。


 そういえば文化祭の実行委員に選ばれたとかどうとかいっていたような――。


 思い返してみれば上総に気づかれないようにやたらと腕時計を確認していたような気がする。


 短い期間であるが上総は紅というやたらに面倒な少女と濃い時間を過ごして来た。


 よって彼女がそう簡単に、たとえば「学校行事を優先したい」などということを口に出すなどあり得ないことを肌身で学習していた。


「なぁ、学校楽しいか?」


「はぁ? な、ななな、なんでいきなりそんな年頃の娘とどう会話していいかわからない父親みたいな質問するのよ」


 紅は突如として立ち上がると両拳を頭上に突き出し大声を出した。


 が、途端に周囲を見渡して頬を紅潮させる。

 それから黙って見ていた外道丸を胸元に抱き寄せた。


「意味わかんないわよ。質問の意図が見えないんだけど」


「いやぁ、だってさ。以前、おまえは学校つまんないみたいなこといってたんじゃんか。それでさ、うん。そうだな、わかった。とにかくやれるだけやってみるって」


「ん、んんん。ま、あたしもこう見えていろいろと忙し

 かったりするんだけど、その、手が空いたらすぐにでもそっちを手伝うから――お願いしていいかしら」


 いつもと違ってどこか弱々しい紅の態度がやけにかわいく映り、上総は妙な笑いがこみ上げるのを抑えられなかった。


「ああ、任せとけよ」


 どんと胸板を叩くと紅がやけにしおらしい態度でもじもじし出した。


 彼女はそれから聞こえるか聞こえない程度の声で感謝の言葉を述べる。


 いつもその態度ならばなんでも聞いてやるのになと上総は複雑な心境に陥った。


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