29「プリンセスは夜のおしごと」

 クリスの作った料理をひと通り胃の中に収めると上総は人心地がついた。


 淹れてもらった濃い目の茶をすすりながらふぅと長く息を吐き出す。


 舌が焼けるような熱い茶で口中の脂が洗い流され気持ちがさっぱりした。


 一日の疲労がほどけていくようだ。


 上総はなにげにこのように一日の終わりに訪れる無為の時間がたまらなく好きだった。


 無論、あらゆる警戒を解いているわけではない。精神の一部は常に周囲の変化に気を配っている。一朝なにか起きれば即座に対応できるようにはしてあるが、自分の部屋に戻れば心にゆるみをもたせるのも長く精神を保たせるコツのようなものだ。


 ――ああ、なんかいいな。こういう時間。


 時刻は午前零時を半ばまで回っていた。


 台所でちゃかちゃかと食器を洗う音が鼻歌にまじって聞こえてくる。


 テレビでよく流れている大量生産アイドルグループの歌だ。上総は音楽などとんと興味はないがクリスはちょっとしたフレーズもすぐさま覚えてうろ覚えながらよく口ずさむ。若い娘の声が流れるだけで無味乾燥な狭い部屋が明るくなる。なにをどうするというわけでもないが、やはり女性がいるだけで生活は華やぐものだと上総はひとり感じ入っていた。


「るんるんらららー、るんらららー」


(クリスのやつちょっと音痴だな)


 ちょっと音程が狂っているのもご愛敬である。


「さて、と」


 手の中の湯のみをゆるゆると揺すりながら背を預けていた壁からスッと身体を離す。


 わずかに首のネクタイをゆるめると立ち上がった。


 座布団の動く音が聞こえたのか台所に立つクリスの気配がわずかに揺れた。


「ちょっとリリアーヌを迎えに行って来るよ」


 リリアーヌはアパートから遠くない店で働いていた。

 迎えはよほどのことがない限り上総が必ず行っている。

 上総たちは運命共同体である。


 なにをしてもらうのではなく、自分が相手になにができるか。


 この場合、上総のすることは決まっていた。


「ええ? 今、お帰りになられたばかりなのに。そんなこと勇者さまにはさせられませんよ。これ終わったら私が行きますのでもう少しお待ちくださいな」


「夕飯まで作ってもらってさすがにそこまでさせられないよ。店は近場だしちゃちゃっと行って来るからさ」


「うーん。そうですか。それなら私は姫さまがお召しあがりになれそうな軽いものを作っておきますね」


「あ、ああ」


「もしかしたら姫さまもかなり飲んでらっしゃるかもしれませんしね」


「そんな、まさか」


 上総の脳裏に酔っぱらってあられもない姿で男たちと絡むリリアーヌの姿が浮かんだ。


「……なにかイケナイ光景を想像しました?」

「してないよっ」


 上総がむきになって反論する。


 グリーンのフライ返しを持ったクリスが踊りながらポーズを決めるとからかうようにいった。


「勇者さまはすっごくわかりやすいんですから、誤魔化したってだめだめですよ」


「馬鹿な。大人をからかうもんじゃないよ」


「紳士であるならばもちょっと余裕を持って返して欲しいですう」


「ほっとけ」


 上総はクリスに玄関口から見送られリリアーヌが働いている『スナック白夜』へと向かった。


 機嫌がよろしくないといい当てられたのも、それは少なからずリリアーヌが夜の店で働いているという事実にあった。『スナック白夜』は取り立てて変哲もないどこにでもあるスナックであるが、酔客を相手にする以上上総が想像するような軽いボディタッチは日常茶飯事である。


(ちぇ。クリスにいわれなくても俺はどーせ嫉妬深い性格だよ、クソ)


 件の振り込み詐欺でもっともショックを受けたのはリリアーヌ本人である。


 現在上総たちは全員それぞれが仕事を持って個々にであるが勤労に励んでいた。


 上総は紅から請け負う退魔業。クリスは秋葉原でオープンしたばかりの外国人専門メイド喫茶。そしてリリアーヌは夜の蝶であるホステスだった。


 ――カズサさま。わたくし、ここのお店で働くことにいたしましたわ。


 無論、ロムレスにも酒場はあったが上総は情報収集以外の用事でそういった店に足を運んだことはなかったし、パーティーメンバーだったリリアーヌがそういったいわゆる「いかがわしい」場所へ行くことはお付きの者が止めていたので皆無だった。


 はじめはリリアーヌが『スナック白夜』で行う仕事を理解していないのかと思っていた。


「ばかにしないでください。わたくしとて、夜のお店の意味くらいわかっていますわ」


 だが、かように返答されれば上総にできるのは唇を尖らせることだけだ。


(まさか異世界の王女さまに場末の飲み屋で働かせるとははじめて会ったときにゃまったく想像してなかったなぁ)


 貯金のほとんどをオレオレ詐欺グループに渡してしまったミスをリリアーヌは強く感じ、上総が住むアパートの歩いて十五分の場所に自ら見つけて来た。


 王女であったリリアーヌの責任感は誰よりも強い。その上に思い込んでこうと決めたら梃でも動かぬ性格なのだ。それは前途ある王宮の生活を捨てて日本にやって来たことを思えば明白だった。


 当然のことながら上総は反対した。ロムレス王国の王女を場末のスナックでホステスとして働かせるなど、どう考えても断じて許される行為ではない。


 上総はそもそもが水商売に軽い偏見を持っていた。それが今回におけるリリアーヌの希望の否定を助長したことは間違いない。


 ――けれど、これはわたくしが誰にも手を借りず見つけたおしごとなのです。お願いしますカズサさま。カズサさまの危惧したようなことは絶対にいたしません。スナックといえどロムレス王家の名に恥じない働きを必ずや行い、その対価を持ち帰って見せますわ。


 上総が思うにリリアーヌは路地裏のビラを自分で見つけて面接を行い、異邦の地で自ら仕事を見つけたことに誇りを持っているようだった。となれば頭ごなしに上総が「だめ」と否定することもできない。


 実際問題、店に行って様子を見てきた限りでは地域密着型であるただのスナックだからそれほどエロスの危険性はないと思われるのだが、酒の入った男が欲望を抑えきれるはずがない。


「ああ、毎日不安だ。俺のリリアーヌが……」


 上総の妄想の中では酔ったスケベオヤジに無理やりデュエットを強要され腰やら身体やらを触られている光景だった。狭量といわばいえ。


 ――だめ、ですか? わたくしは、自分の力で、自分のミスを……贖いたいのです。


 潤んだ大きな瞳で美貌のプリンセスに懇願されればNOといえるはずがない。少なくとも上総はリリアーヌを頭ごなしに否定できるほど煩悩を支配できていなかった。


 都内は深夜だというのにあちこちの灯火で充分に明るい。道は車両が未だにゆきかい歩道にはチラホラであるが歩行者もいる。コンビニは等間隔で林立しており途切れることを知らない。


 日本は世界でも治安のよさは有数で知られている。リリアーヌひとりで帰宅しても特に問題はないだろう。危険とはいえ街中がモンスターの跳梁跋扈するダンジョン内よりも危険というはずがないからだ。


「でもま、こういうのは気分の問題だよな、うんうん」


 いくら近場とはいえあのように美しい少女をひとりで帰宅させられるはずがない。王女にはエスコートする騎士が必要なのだ。


「実力は並の男が束になってかかってもかなわんがな」


 そういえばリリアーヌには王国の騎士の間で人気は抜群だった。彼女のためにならば命など惜しくないという男を上総は幾人も知っている。リリアーヌが絶世の美女ならそれを恋い慕う騎士たちもハリウッド映画に出てきそうな美男ぞろいだ。


 ――果たして自分は彼女と釣り合っているのか。


 常に上総は思う。夜が悪いのか。この夜という空気がよくないのか。


「けど、もう終わったことを考えても仕方がないか……ああ、俺ってば不毛だ」


 自分たちはここで生きてゆく。リリアーヌとクリスが覚悟を決めて世界を跳んで日本に来たのは上総と一生を共にする覚悟があったからだ。実に面映ゆいがそうでもなければ彼女たちが栄耀栄華を極めた王国を捨てて自分のところへやって来るはずがないことがすべてこれでもかとばかりに証明していた。


「とかなんとかいってる間に着いちゃった。ちわー」

「あら、上総ちゃんじゃないの。いらっしゃい」


 ちりんちりんと安っぽい鈴の音を鳴らして扉を開けると『スナック白夜』のママであるサユリがカウンターに頬杖を突いてぼんやりと店の隅にあるテレビを眺めていた。


「リリアーヌいる?」

「リリちゃんなら今帰り支度をすませたところよ」


 年齢不詳――といいつつも少なくとも六十は超えているだろう厚塗りのでっぷりとしたママは濃いアイシャドウを塗った目蓋でウインクすると店の奥に顎をしゃくった。


「おおーっ。かーずさちゃんじゃないのおっ。一杯飲んでく?」


「いやいや、今日もリリアーヌを迎えに来ただけだから」


「くぅー。かずちゃんは今日もクールだねぇ! オッチャン濡れるわっ!」


「いやいやいや、ないから」

「ま、ささ。じゃあ駆けつけ三杯」

「だからまた今度ね」


 顔馴染みの肉屋のオヤジを軽くいなして上総は所在なさげに店内を見回した。元々たいして広い店でもない。六人ほどかけられるカウンターを覗けばソファとテーブルが三つほどあるだけだ。


 看板間際とあってか、店にはママを除けば肉屋のオヤジと電化製品屋の主人、それにベースボールキャップをかぶった酒屋の若旦那とホステスであるチエリとアスナの五人だけだった。


(しかし酒屋の若旦那はいつも静かに飲んでいるな)


 チエリがマドラーで若旦那のキャップを突いているが身じろぎもしない。というかホステスの教育がなってないんじゃないかと上総は密かに思った。口には出さないが。


「あら、つれないわね。そんなこといって上総くんは飲んでいった試しがないじゃない」


 髪をアップにしたアスナが誘うような視線で水割りを作りはじめた。上総は流れるような手つきに今日こそは無理にでも飲んでいってもらうぞ、という強い意志を感じた。


(てか、この子ってば今年高校卒業したばっかって聞いたんだけどな)


「そうそう。今夜は逃がさないからねー」

「だーかーら飲まないって。すぐ帰るんだから」


 気づけばサッと軽やかな動きで上総の背後を取ったチエリが意地悪そうな目つきで缶ビールの蓋を開けグラスに注ぎ出した。しゅわしゅわとした泡に思わず喉がゴクリとなった。


 そのときである――。


「カズサさま、いらしてくれたのですね」


 リリアーヌが現れた途端場の空気が変貌した。


 真紅のドレスの前は大きく開いており豊かな胸がこぼれ落ちそうだった。


 長く艶のある黒髪が淡い明りに照らされ妖艶に踊っている。腰の位置が驚くほど高い。日本人とは骨格からして違う体型だ。その場に立つだけで目立つ存在であるが、安っぽいドレスを着てもまるでそうと見えないのが王家の血というものであろう。


「いよーぅ、これから仲よくアフターだねェ! うらやましいなコンチクショウ――!」


 肉屋のオヤジが騒ぎ出すと同時に店内が沸き立った。

 ベースボールキャップをかぶった酒屋の若旦那にいたってはリリアーヌに両手を合わせて拝みながら「菩薩さま……」とつぶやいているのが聞こえた。


「と、とにかく俺たち帰るから。じゃあまた明日ってことでヨロシク!」


「気をつけてお帰りな」


 タバコの紫煙をくゆらすママに見送られながらリリアーヌの手を引き脱兎のごとく上総は店を出た。






「なんかどっと疲れた」


 上総は近場の公園に入ると自販機にジャリ銭を叩き込んでふぅとため息を吐いた。


 深夜一時を過ぎているのでさすがに人気はなかった。


 ガコッという音とともにブラックが取り口に転がり落ちる。かがんで手を伸ばしたところで首筋にむにょりと重たげな感触を覚え胸の動悸が早まった。


「ふふっ。カズサさまは相変わらずコーヒーがお好きなのですねー」


「あのな、ってもしかして酔ってるのか」

「ううん? おしゃけなどわたくし飲んでいませんよう」


「接客業だから一滴も飲むなとはいわないが、その、なんだな。最初にいったようにリリアーヌはまだ嫁入り前の娘なもんで節度を持ってだな」


「本当です。もう、わたくし信用がないのですね。悲しいです」


「いやいやいや、そういうわけじゃないけど。確かのあのスナックは地元民しかほぼ使わないし客層は極めて良好なんだが、ホラ? 酒が入るとアレだろ。俺はリリアーヌを信じてるけど、基本男はケダモノなのだから」


「うー、カズサさま。わたくしを心配してくださっているのですね。うれしい」


 リリアーヌがよろこびに満ちた声を上げてさらに背中へとかぶさって来る。必然的に上総の首筋のあたりにはメガトン級のたわわなものがぎゅうと押しつけられ平静な気分ではいられなくなる。


「わー、重いって」


「ま、失礼でしてよ。わたくし、これでも体調管理には気を遣って余計な肉がつかないよう日々精進を行っているのですよ」


「ああ、ホットヨガね。クリスといつも朝やってるアレか」


「カズサさまもなさればよいのに」

「俺は間に合ってるよ」


 リリアーヌとクリスはかなりこの世界に順応したのか、どこかで買い求めたDVDを流しながらのヨガにハマっていた。もっともヨガをやって運動をするのは美容にも健康にもよいのだが、そのたびにきわどいレオタードに着替えるので狭い部屋では目のやり場に困るのだ。


「でもわたくしたちを熱心に見られていますから、てっきりカズサさまも参加されたいのだとばかり……」


「ぎくぎくっ。そ、そんなことはないぞ。リリアーヌの考え過ぎだ」


 ぴったりした格好で身体を屈曲させるので健康な成人男性である上総の視線がついつい向くのは仕方がないことである。もっともクリスあたりはそれをわかっていながら挑発するような本来の型にない動きをするので上総の視線を充分に理解しているので性質が悪い。


「でも、でも、カズサさま。ヨガなるもの結構に身体を動かすのでわたくしは気に入っておりますの」


「あー、はい」

「もう、ちゃんとお聞きになってくださいっ」

「ご、ごめんって」


 耳元にリリアーヌの吐息がかかる。それからしばらく自販機の前にかがみながらとりとめのない話をかなりした。上総は濃厚な女の香りをたっぷりかがされながら、おかしな気持ちにならないよう――たとえばそこいらあたりの草むらに彼女を連れ込む――に苦心した。


「……寝ちゃったか」

「すやすやすー」


 上総はリリアーヌを背負うとすくっと立ち上がった。長時間話していたので飲もうと思っていた缶コーヒーはぬるくなっていた。左手で缶コーヒーを開けると一息に飲み干した。


「やっぱ苦いな。冷めると」


 ぽいとゴミ箱に空き缶を投げ入れ早足になる。心地よいリリアーヌの寝息を聞きながら上総は限りない幸福感を覚え、できればこの時間がずっと続くようにと願いはじめていた。



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