2章 新宿ダンジョン
27「社畜勇者の再発進」
新宿――。
一日で三六四万人もの乗降客を集散させる新宿駅をその心臓部に持つ世界有数の都市だ。あらゆる人間たちの欲望が凝り固まったこの街は武蔵野台地東端の西寄りに位置している。
その中でも歌舞伎町と呼ばれる一丁目と二丁目は旧行政区分の淀橋区と四谷区の一部にあたり、ありとあらゆるアウトローたちが跳梁跋扈する魔都で知られていた。
無数の葉脈のように広がる繁華街の一角に居を構えるスナック『タランティーノ』の付近は稼ぎどきの時間であるにもかかわらず、酷く閑散としていた。
ジジジと音を立て切れかけた電球が明滅する古臭い電飾看板の前でひとりの男が闇に溶け込むようにして佇立していた。
男の背は日本人にしては高かった。一九〇近い。近くで見れば目を見張るほど立派な体格をしていた。艶のある海外ブランドのダークスーツを着込んでいる。豪奢なカフスが目立つ袖口からは異様に太い手首が覗いていた。その手首には金色の装飾品がジャラジャラと絡みついており、指先に多数嵌められたリングが男をその筋の人間であると主張していた。
髪はスポーツ選手並みに短く刈り上げられている。これは格闘になったときを想定して容易に掴まれないことを前提としていた。日本人離れした彫の深い顔立ちはポリネシア系を思わせる。決して美男ではないが独特の迫力があった。
一度見れば忘れることができない独特の魅力を持つ男の名は黒瀬龍といった。
年齢は三十五。
新宿四鷹会若頭補佐を務める武闘派ヤクザだ。
嫌煙ブームなど知らぬというように口にしたタバコから濛々と紫煙を立ち昇らせている。相当なヘビースモーカーであるがいわゆるゴツく凄みのあるその佇まいには酷く似合っていた。
黒瀬はすでに二時間近くその場に立っていた。
手にした空のパッケージをくしゃりと握り潰すと無造作に放り投げる。
同時に路地裏の陰からまだ二十そこそこの青白い顔をした青年がゆっくりと姿を現した。
「よう桑原。おまえのせいで、また禁煙失敗しちまったじゃねェか」
低い渋みのあるテノールで黒瀬がなんということもないように語りかける。青年はびくりと震えると錆びついたブリキ人形のような動きで顔を上げた。
「兄貴……」
ジーンズに柄シャツといういかにもなチンピラ風の格好をした桑原は四鷹会の三下で主に黒瀬の使い走りをしていた男だ。黒瀬が咥えていたタバコをプッと吐き出すと怯えるような瞳であとずさった。
「組へ連絡もせずにどこへ行ってやがったんだ、おい」
黒瀬の声に怒りはない。淡々と事実だけを告げていた。対して桑原の表情は幽鬼のように青白い。それは自儘な離業を咎められることの恐怖ではなく、別のものに対して怯えを表していた。それが証拠に桑原は兄貴分の黒瀬よりも今しがた歩いて来た路地裏の闇を幾度も振り返ることが証明している。
「なぁ桑原。ウチでの流儀、知らなかったじゃすまされんぜ。クスリはご法度だ。特にオヤジはわけぇ頃シャブ中の屑に煮え湯を飲まされてからそいつを蛇蝎のごとく嫌っていなさる。オレもおまえのせいでこの歳になって大目玉だ。時代じゃねぇが、指の二、三本は覚悟しろよ。おい、聞いてんのか」
「ちが……兄貴、おれ、クスリなんてやるつもりなかったんだ」
「テメェ、いまさらいいわけかよ。男がみっともねぇぜ」
ジャリ、と小石を踏んで黒瀬の右足が出ると桑原は上ずった声で囀り出した。
「ききき、聞いてください。クラブで……知り合った変な女が……おれは断ったんだ……ウチの組じゃそういったもんは許されねぇって……でも……そうしたらあの女の姿が……まるでバケモノみたいにでっかくなって……おれは抵抗したんだ……でも無理やり……飲まされて……気づいたら、こここ、ここ、こんな……ス……ガ……タ……に!」
「おい、桑原」
黒瀬が呼びかけると桑原は途端にその場に両膝を突いて奇妙な吠え声を上げた。
次の瞬間、黒瀬が念のために伏せておいた組の若い衆が三人ほどバラバラと陰から飛び出した。
男たちは猛牛もかくやという勢いで桑原を押え込みにかかる。
「テメェ、キマってやがんのか!」
「兄貴に恥かかせやがって!」
「ざけんじゃねえぞ、コラッ!」
確保のため連れて来た男たちは黒瀬の子飼いである。
組の盃を貰う前はそれぞれ族の頭を張っていたものたちばかりだ。
少なくともひとりで常に五人はイわせることができると息巻いており、黒瀬自身も彼らの戦闘力はそれなりに買っていた。
が、現実は予想をことごとく裏切った。
桑原は両膝を突いた状態で三人の凄腕に押さえつけられたが、それをものともせず次の瞬間あっさりと全員を撥ね退けた。
男たちは猫がネズミを払いのけるようにして見事なまでに虚空を舞った。桑原はどちらかといえば痩せ型で非力なタイプである。火事場のなんとやらが発揮されたと考えても不自然すぎるほどの超人的なパワーだった。
黒瀬は軽くいなされて壁に激闘し転がった舎弟たちをかばうように立つと、目の前で起こっている光景に絶句した。
変異――。
そうとしかいいようのない肉体変化が桑原に起こっていた。
「あ、あああ、あ、あにき、にき、にき……くりすたる……とりがー……だめだ……あのくすりを……とめて……」
「クリスタル・トリガー?」
――そういえば聞いたことがある。
桑原が失踪する一週間前から新宿でやけに噂の流れていたクスリの話を黒瀬は思い出し額に浮き出た汗を手のひらで拭った。
桑原の全身が突如としてひと回りもふた回りも膨張し、まるで弾ける風船同然の大きさに変異したのだ。
なまっちろかった男の身体はすでに三メートルに達している。衣服はすべて破れて飛び散り、四肢からは鋭い無数の突起がぬらぬらとした青い光を放っていた。
――あの鋭い突起で貫かれたのだろう。
黒瀬の舎弟たちはゴブゴブと喉から血泡を吐き出しながら白目を剝いていた。
マズい、と黒瀬の胸中に焦りが生まれる。人間は怪我の程度よりも強烈な痛みによって心臓が止まることが多々あるのだ。
若いころから修羅場をくぐっていた黒瀬は目の前の現実感の伴わない光景よりも、まず最初に舎弟たちの心配をした。
「いいぜ、桑原。テメェが人間やめちまったってんなら、片は兄貴分のオレがつけてやんぜ」
黒瀬は異形の怪物を目にしながらまったく怯むことなくファイティングポーズを取った。
桑原だったそれは変わり果てた自分の身体を嘆くような音を喉かほとばしらせ弾丸のように黒瀬へと突進をはじめた。
「ここってホントに都内なのかよ」
「兄さん、気をつけてくれ。なんかヤバい気配がプンプンだぜ」
「気配というか、ただ埃っぽいだけじゃね?」
上総は肩に外道丸を乗せたまま人気のない廃屋と化した住居をゆっくりと見回した。場所は東京都二十三区外とはいえ日本の誇る首都であることには違いない。
(そういえばちっともまるっきりこれっぱかしも人の気配を感じないな。なぜだ?)
そもそもが駅を降りたときからその人気のなさや過疎っぷりは上総のやる気をこれでもかというほど減じさせていた。
とはいえ、今は仕事だ。
すべて割り切っていくしかないのだ。
上総は強く自分にいい聞かせて埃っぽい空気に顔をしかめた。
「やっぱ兄さんマスクしたほうがいいんじゃ」
「てやんでぇ。江戸っ子が妖怪退治にマスクなんぞできるか」
「別に兄さん江戸っ子じゃないよな」
「ちょっといってみたかったんだ……」
(だが、外道丸のいうとおりだ。ここは肺に悪すぎる)
なんの変哲もない居住区は長らく人が住んでいないことを示すように埃とカビの臭気に満ちあふれていた。呼吸をするだけで夕飯を戻しそうな独特の籠った空気だ。それらが陰鬱の影を帯びて室内を彩っている。退廃的としかいいようのない乱雑な部屋のあちこちはゴミ屋敷の名が相応しいものであった。
おまけに部屋という部屋には外から板が打ちつけてあった。意地でも外界からカケラほどの明かりも入れさせないぜ、という強烈な気を放っている。基本的に上総の持っているハンドライト以外に光源はない。
上総は現在紅により委託された退魔士の仕事を請け負っていた。ライトの魔術を使えばこのような不自由に耐える必要性もないのだろうが、あまり昼間のように煌々と明るくすると対象がつむじを曲げて出てこなくなる可能性もある。なにかと不便な上に世界は不都合だ。
「しっかしマジできったねーな。兄さん、尖ったもんとか踏まないように気をつけれくれよな。安い革靴じゃ危ないかんな。それに臭いし汚いし。ここ、腐海だよ腐海。オレ、こんなごみ溜めの中にダイブすんのはヤダ」
管狐と呼ばれる使い魔の一種である外道丸はぴょんぴょんと飛び跳ねながらしっぽをくいっと曲げてひたすら注意を促していた。外道丸は繊細な感性の持ち主だった。
「俺だってやだよ。またスーツをクリーニングに出さなきゃなんないし」
あたりには食いかけたものが腐乱したまま容器に収まりコバエがうるさいくらいに飛び回っている。部屋の中だというのに数えきれないほどの靴が放置され異様な光景の一部を担っていた。用途不明の箱が山のように折り重なっている。部屋の四隅には汚れた衣服が地層のように積み重なって比較的綺麗好きな上総は目を覆いたい気分で一杯だった。
「兄さん、今のお気持ちをひとことどうぞ」
「仕事じゃなきゃナパーム弾撃ち込んでまとめて焼き払ってやりたいよ」
憤懣やるかたなく上総がコンビニ袋を蹴り上げてゴミの森で獣道を作っていると、頭上でなにか大きなものが這いずる音が聞こえた。肩の外道丸が素早く上総の上着の中に入り込んで悲鳴を上げた。
「いるっ。兄さん、この上になんかいるっ」
「うん、わかってる。とにかくそいつを片づけないと――」
探索専門の使い魔として育てられた外道丸には基本的に戦闘能力が備わっていない。上総はジャケットの上から落ち着かせるようにポンポンとやさしく外道丸を撫でた。
「天井の角の右隅」
「おし」
その代わりといってはなんだが外道丸には呪術的な迷い道の正誤を判定する力や危難を察知して先んじて告げる抜群の能力が備わっていた。
上総はポケットから刃渡り十五センチほどのナイフを取り出すと息を詰めて頭上を見やった。
「兄さん、そーんな装備で大丈夫なのかよ。あれは? いつもの聖剣はどうしたのよ」
「電車であれほどの長物は運べないだろ。許可取る時間もなかったしな」
単純に準備不足ということもあるが基本的に世界は法に則って運営されている。なんでもありの異世界とは勝手が違うのだ。
緊迫感のないやり取りをしていると異常な現象が現実を侵食して来た。
ごおり、ごおり
と天井から巨大な岩を転がすような奇怪な音が鳴り響く。
無論のこと普通の住宅である平屋にそれだけ大きなものが入るスペースは考えにくい。
つまりはこの世ならざるもの。
すなわち怪異がこの家に生じている証拠であった。
ほとんど前触れなくそれは上総の目の前に出現した。
天井の一部が黒くうず巻くとうぞうぞと奇怪な塊が黒雲のように湧き出て怪異の形を成した。
「兄さん、コイツは『天井下がり』だぜ!」
外道丸がぴょこりと顔を突き出し現れた妖怪の名を叫んだ。
突如として天井から落下して現れた妖怪は裸身であった。
どこまでも醜く、毛むくじゃらな妖怪は長い髪を振り乱しながら顔面に奇妙な笑みを張りつかせていた。
対する上総はどこまでも平静だった。目の前に落ちて来た巨大な肉の塊に眉ひとつ動かさないまま手元のナイフを突き出した。
途端に天井下がりの表情が硬く強張った。上総の手にしたナイフは別段変わったところのない安物であるがその刃には心気を合一させて煉り合せた強力な魔力が表面を覆っている。強力なバフを受けた勇者の武器はそれだけで巨岩のような魔物を切り裂く大業物に変化するのだ。
「まあ、一時間も待っててアレだが。とっとと退場してもらおうか。時間もないしな」
天井下がりの五体から縄のように黒い体毛がしゅるしゅると伸びて来る。
妖は己が縄を持って上総を扼そうと迫ったのだ。
上総は迷うことなくナイフを右に左に動かしてたちまち天井下がりの体毛を断った。
吹き飛んだ黒い毛はあちこちにすっ飛んで青白い炎を上げて消えてゆく。
勇者上総の本領発揮だ。
「やっりい!」
外道丸が調子づいて前脚を上げガッツポーズを取る。
同時に上総はトドメを刺さんとばかりに前へ踏み込んだ。
当然の結果として天井下がりは回避の行動を取ろうとするが上総はそれを許さなかった。
常人から隔絶した追い脚で踏み込むと手にした小振りのナイフをサッと水平に払った。
ずっ
と、鈍い肉を断つ音が鳴って天井下がりの顔面が裂けた。
ぎしゃるるるる
この世のものとは思えない呻き声を放ちつつ天井下がりが吠える。
大きな顔を切り裂かれた天上下がりは断末魔の絶叫を上げながら白い靄となって瞬く間に四散した。
ほぼ同時に上総は後方へと大きく跳んだ。落下地点を選んでいる暇はない。歴戦の勇士として天井下がりが発する最後の白い霧によくないものが含まれていると感じ取ったからだ。
それが当たった証拠に白い霧が広がった地点に散乱していたゴミはめらめらと燃えながら耐え難い臭気と煙をあたりに拡散していた。
「うげえっ。兄さん、燃えてる、燃えてるうう!」
「火事になっちまう。外道丸、外の見分役にいって消火器を持ってこさせろ」
「う、うんっ」
阿吽の呼吸で外道丸は上総の肩から飛び降りると、器用にゴミの山をさけ外へ出ていった。
ほどなくして外道丸は陰陽機関の人間を引き連れ戻った。上総は手早く消火器を受け取ると燃えだしたゴミに消火泡を吹きつけた。
「妖怪退治に成功してもボヤなんざ出した日には民事で訴えられちゃうからな」
見分役の山岸という男が用心深くハンドライトであたりを照らしながら猜疑心を纏った瞳をぎょろぎょろ動かしていた。
「まさか。少なくともA級案件をたったひとりで……」
「山岸さん。その天井裏を調べてみてください。きっとなにかあるから」
上総の威に打たれたかのように山岸はビクッと身体を震わせるとスマホを取り出して部署にい連絡を行う。
――しばらく経って到着した退魔機関の人間たちが天井裏を調べたところ、そこには幾人もの人骨が山となって積み重なっていた。
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