第14話「馬鹿で真面目でお人好し」

「ふーっ。マジやばかったな」


 そうだ。長らく十年ほど味わっていなかったが、リリアーヌが呼び出す召喚精霊の破壊力は魔王ですら認める折り紙つきのものだった。


 上総はシャツについたホコリを払い落としながら顔を上げた。テント周辺を見回すと先ほどまで猛威を振るっていた黒蝙蝠の群れは、そんなもの最初からいなかったかのようにこの地上から姿を消していた。


「やりましたわカズサさま、褒めてくださいませ、完全勝利でございますっ」


「はは、リリアーヌのレベルだと初期マップで無双したようなもんだが、よくやったな」


「いぇーい、姫さまいぇーい。勇者さまいぇーい」


 クリスはくるくるとそこらじゅうを踊りながら勝利のよろこびを身体で表現していた。


「カズサさま、へいっへいっ、ですわ!」

「あ、あはは。そう、そうね」


 上総はまったくもって指先ひとつ動かしていないが「オッサンになってノリが悪くなりましたね。

 やっぱポイです」といわれたくないばっかりに、リリアーヌやクリスとハイタッチをかます。ひとり紅だけが先ほどの光景に度肝を抜かれた状態でその場に硬直していた。


「て、今のはなんなのっ? わけわかんない魔人みたいなのが出てきたけどっ」


「え、ハウレスですけど。なにか問題がありましたでしょうか」


「なにか問題がありまして? じゃ、なーいっ。どっからあの豹頭悪魔を出したのよっ」


「どこからと申されましても。困りましたわね。あ、よければ本人に聞いていただけますか?」


「姫さま。クレナイさまは、そういうことを仰っていられるのではないかと思われます」


「なあ、もうキリがないからこの話やめにしないか。ねえ、ねえってば」


 上総は恐慌をきたした紅に、今度は意を尽くして自分が異世界に転移して魔王を討ったことや、その際にリリアーヌたちが旅に同行しこういった戦闘経験を十二分に積んだことを説明した。


 しかし長らく時間を割いた割に、紅はハニワ顔になるだけで容易に異世界とこの日本の一部が繋がりつつあることを認めようとはしなかった。


 気持ちはわからなくもないが、そこまで頑なに拒否しないでもいいじゃんと思う反面、自分が異世界に飛ばされた際、馴染むまでに数か月かかったことが脳裏をよぎった。


 上総はなんとなく釈然としない紅と一緒に前半の見張りを行った。


 が、むっつりと深く考え込む彼女と気まずい時間を過ごしもやもやとしたものが胸に残った。






 強い線香の臭いと鯨幕の白黒の波が網膜の奥にへばりついて離れない。姉の友人だろうか、制服を着た男女が激しく啜り泣く中で紅はなにも考えることができず、ふたりの妹と並んで畳の上に正座していた。


 白河家は地元では有数の名士である。父は江戸時代から伝わる甲府水晶の加工を営む会社を持っており地域の商工会議所でも隠然たる勢力を持った重鎮でもあった。


 だが、その裏の顔として代々受け継がれていたある神社の神主でもあり、俗にいう退魔業を執り行う甲信で指折りの長でもあった。


 年下の妹たちの末座に位置することからわかるように、紅は彼女たちと父を同じくするが本妻腹の娘ではなかった。父が裏家業として営む退魔業を続けるため、霊力の高い女に産ませた妾の子であった。


 実父である白河大膳も格式を重んじはしたが、特に情が薄いということはなく、表向きは事故として処理された姉ほたるの通夜を本家で執り行ってくれていた。自分と姉は本家で育ち、今もなお泣いている妹たちとは異母姉妹にあたることは限られた人間しか知らない。折につけそういった格差を本家筋の妹たちに感じていたこともあり、紅が心から姉妹と思えていたのは四つ上である姉のほたるだけであった。


 事実上、紅たちを生んだ母は、彼女たちが幼いころ鬼籍に入っている。


 ――これで本当にひとりぼっちになってしまった。


 悲しみよりもこれからどうしていきてゆけばいいのだろうか、という思いが強い。


 少なくとも姉が死んだことで、あれほど忌み嫌っていた退魔業は自分が引き継がなくてはならなくなる。


 自信がない、怖い、嫌だ、やめたい、助けて欲しい――。


 だが、それを口に出す勇気はない。


 いえば、ただでさえ感じていた白河家の格式というものが無言の圧力で自分を押し潰してしまうだろう。


 異母妹たちはまだほんの子供だ。そういった古臭い感情で自分を忌避したりはしないだろうが、紅がもっとも恐れたのは家に出入りする使用人や多数の親戚連中、そして戸籍に登録されている名目上の母親だった。


 姉は紅から見ても美しく頭もよく学業優秀で臨めばどのような大学ですら学べたはずなのに、高校を出た途端、見習いという形で家業の会社の事務員に雇われる傍ら「汚れ仕事」を請け負わされるようになった。


 読経と線香の臭気の中、その男は弔問客として姿を現した。


 その男のことは姉から幾度なく聞かされ辟易していた。


 ほたるはその男の組に研修としてついており、一定期間のち、白河家の株によって一本立ちする予定であった。


 死人同然の顔つきをしていた紅の顔に生気が戻った。紅は事前にほたるが亡くなった原因が、目の前のダークスーツ、通称「岩手彦」を名乗る男にあると父から聞かされていた。


 姉が岩手彦の名を出すときに見せる表情で、その淡い思慕は簡単に読み取ることができた。


 紅は手を合わせ終わった岩手彦が外に出るのを捕まえて、前庭に無理やり連れ出し、事件の真相を問いただしたが、男は固く引き結んだ唇を微動だにせず石のように押し黙って突っ立っているだけだった。紅の語気は、次第に強さを高め、知りもしない男を一方的に罵る形になっていた。


 なぜなら、紅は知っていた。姉がここ数か月、苦しみを隠しながら孕んだ兆候を見せていたのだ。あのとき、自分が勇気を出して問いただせなかった悔しさと姉を失った悲しみを岩手彦へとなじる形でぶつけ――ついには決定的な言葉を口にしたときは、さすがに血の気が引いた。姉妹ならば好みも似ていることもある。紅は幾度となく繰り返し聞かされる岩手彦に幼い恋情をいつの間にまぼろしのように作り上げていたのだ。


 この男ならば、わかってくれる。これから自分が挑んでいかなければならない退魔業の重責や悲しみを。紅は心のどこかで岩手彦が自分と一緒に姉の死を悲しみ、同時に心の支えとして抱きしめてくれないものかと願っていたのだ。


 だが、現実はあまりに非常だった。


「それでは、どちらにせよ続けられなかっただろうな」


 ――その日から紅は退魔の鬼となった。


 怒りと悔しさが紅のともすれば折れそうになる心を支え続けた。


 いつの日か岩手彦を屈服させ、あの冷めきった瞳が壊れるのを見届けてやると。


 秘伝の方術を錬磨し、管狐があると聞けば艱難辛苦をものともせず、秘境に踏み込んで命懸けで、種を手に入れた。






 見返すのとも、怒りとも違う。妄執だけが彼女を突き動かしていた。甲府を出てひとり暮らしをはじめたのも、たいして戦闘に役立たない管狐を躍起になって育成したのも、ほかに生きてしたいようなことがなかったからだ。


「紅さ。ここ数日だけど変わったよな」


 この小動物はなにをいっているのだろうか、と思った。外道丸がいうには、あの雪村上総に出会ってからというもの、ものすごく自分の口数が多くなったというのだ。


 確かに転入した高校は休みがちであるし、そもそも特定の人物と親しく会話をすることもなかった。


 学院も東京で仕事をするのに都合がよかっただけのことで、今は通う意義もほとんど見失っていた。


 ――と。


 そこまで諸々のことを夢想して紅は目が覚めた。


 ぱちっと目蓋を開ける。隣では上総がアイマスクをしながらすうすうと寝息を立てていた。


 ここはダンジョンといっても煌々と灯りのつく通路の一角だ。


 そっと聞き耳を立てると、天幕の外では聞き慣れない言語でひそひそ話をするリリアーヌとクリスの声がかすかに聞こえてきた。


 異世界うんぬんの話は正直、まったく信憑性がないが、自分は否定するだけの材料も持ち合わせていない。熟睡したわけではないが、四時間も集中して眠れたので身体はかなり軽くなっていた。


 朝からこの秋葉原駅へと潜るため、それなりに関係各所に話を通しておかなければならなかった苦痛を目の前の男は理解しているのだろうか。


 そっと盗み見ると上総の顎にはまばらな髭が生えている。とにかく、この男の素性は一部が随分と怪しかった。


 十五歳から十八歳までの期間が完全に空白なのだ。故郷の長野の同級生や彼を知る者の情報を集めてみたところ、三年ぶりに再会したときはかなり様相が変わっており「まるで外国人のようだった」という印象を述べた人間が多かった。


 現地の調査人は機関の人間なので一日でかなり念入りに洗ったが、外でお喋りをする、リリアーヌとクリスのふたりが雪村上総とどういった関係であるのか、さっぱりわからなかった。


 紅は彼女たちが操る言葉を録音して調べてもらったが、この地上で使われているどのよう言語とも対応していなかった。


 精神疾患患者は造語を構成して操るというが、専門の言語学者も彼女たちの言葉は規則正しい文法と言葉によって話されており、作為的な部分や瑕疵や乱れがまったくなかったらしい。


「て、そろそろ起きなさいよ。たぶん、四時間よ」

「い、いててっ」


 紅は安心しきって寝入る上総の鼻をぎゅうとつまんだ。上総は慌ててアイマスクを剥ぐと、ぼやっとした顔つきでぐるぐるあたりを見回す。


 とても、どこか別組織の間諜というようにも見えなかった。


「あのねー。こんなところでグースカいびきかいて寝られるなんて。アホなの? あんたに危機意識ってもんはないの?」


「んんん。大丈夫だよー。ふたりが見張っててくれるからさ」


 上総がくるいくるくるしたくせっ毛をかき回しながら親指で外を示した。


 どう考えても雪村上総と外で見張り行っている二名の白人女性は釣り合いが取れていないのだ。


 が、ふたりが目の前の男に心酔し惚れ切っているのは一目瞭然だった。


 どっちにしろ今の自分には男女の深い仲が理解できるはずもない。


 紅が望むのは、目の前の男がいかにして有用かつ忠実に自分の命令に従ってくれるのか。


 それだけだ。


 あのリリアーヌとかいう娘が召喚した妖物はそちら産の「式神」であると、すでに自分の中では割り切ることができた。


 常に冷静さを失ってはいけない。この、ひと回りも年上だが、妙に素直で抜けている男の力を利用するのだ。そっと寝入っている上総の上に覆いかぶさると覿面にたじろいでくれた。


(くふ。これならやりやすい)


「な、なんだよ……急に」


「ねえ、今ここであたしが大声を上げたらあの子たちどんな顔をするかしら」


「ちょ、やめてくれよ。冗談だろう」


 からかったつもりだが、妙に慌てる上総の動作がかわいらしくて、紅は必要以上に顔を近づけ、首筋あたりに自分の鼻先を埋めた。


「なにやってんだよう」


「ね、まだあたしにしたこと忘れたとか、いわないでしょうね」


「それは、まあ……」


「あのとき、できることがあるならなんだって協力するっていってくれたわよね」


「だから、こうやって、一緒にダンジョンに潜っているじゃないか」


「あのねあのね。あたし、あの日、ホントはすーっごく危険な日だったんだ」


 上総は大声を上げようとして今の状況を思い出し、自分で自分の口をふさいだ。動揺し切っている人間をつぶさに見守るというのは、実に楽しいものだ。己が安全圏にいるならばさらにだ。


「じゃ、もしかして」


「赤ちゃんって素敵な授かりものなのに、なんで物騒な名前で呼ばれるのかしらね。危険日て。ラッキーデイとか天使日とかに変えたほうがいいと思うの。ふふ。大丈夫よ、そんなに慌てなくても」


 つつ、と上総の頬を指でなぞる。てっきり混乱に拍車がかかると思っていた紅は、途端に上総が表情を引き締め別人のような面持ちになったのでどきりと胸が高鳴った。


「もし、子ができてたら俺はちゃんと責任を取るよ。不安にさせたらすまない」


 真摯すぎる表情と声音に心臓を鷲掴みにされたような気になった。


 顔を背ける。なんてことだ。調子がくるってしまう。もっと虐めようと思ったのに。


「ば、ばーか。なんであたしがあんたなんかの子を――きゃっ」


 グイと上総が上半身を起こし、紅は自然と対面したまま抱かれた格好になった。


 いつもとは違う微塵もゆるぐことのない視線を受けきれず紅は顔を紅潮させうつむいた。


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