第10話「無職の時間だゾ」

「ふうっ。やっといなくなったわね」


 紅は赤らんだ頬のまま素早くライトグレーのワンピースに着替えた。


「なぁ、なぁ。なんで兄ちゃんにそこまでこだわるんだ? はっきりいってここまでハメる必要性があったのかよお」


 にょろりと管狐の外道丸がベッドの下から這い出して不満そうにいった。


「うるっさいわね。少なくともあたしは仕込みのために数時間下着姿であいつと同衾したのよ。こっちもそれなりの代償を支払ってことなんだから」


 紅はいいわけするようそういうと、わずかに火照った自分の頬を手のひらではたはたと扇いだ。


 上総が紅を無理やり抱いたように偽装したのは、これからの仕事においてこちらがアドバンテージを持てるように仕組んだ苦肉の策だった。


 雪村上総という男は、わずかな時間を過ごした間柄ではあるが信頼に値する男と見込んでの行動だった。


「外道丸のいうとおり、彼の善意につけ込むのはあたしだってあんまり気分がいいわけじゃないけど。あれほど術者をすぐに探し出せるわけでもないし」


「でも、兄さんが逆に紅のことを自分の女だと扱うような男だったら? 下手すりゃいいように使いまわされたかもしんないぜ?」


「はあ? あいつがそんなことするわけないでしょ」


「怒るなよ。てか、マジであいつに惚れたん?」


 スッと紅の目が温度を排したたぐいのものに変化した。


「あたしが? ありえない。あいつはあくまでこれからする仕事の道具。外道丸。あなたは雪村上総に恩義を感じているようだけど、この際、それはもう忘れなさい。力があってお人好しで抜けてる男なんてこの業界じゃ喰われる側でしかないのよ。あたしは、姉さんと違って喰われる側に回るのはまっぴらよ。そうはならない。絶対に」


「で、これからどうすんだよ」


「今日一日使ってあいつの素性を徹底的に洗うわよ」


「秋葉原のほうはどうするんだ。放っておくのか?」


「岩手彦が気になるけど、一日や二日じゃアレはどうにもできないわ。待つのよ。今回は時間を置いたほうが、上のほうもあたしたちの有難味ってものが身に染みるはず」






「あああ。これから一体どうすればいいんだよ」


 夕刻。


 上総は新宿中央公園の芝生でひとり佇んでいた。


 あれからすぐに職場へ出勤したがときすでに遅し。


 めらめらと燃える炎がうずを巻き、上総の務める東京クリヤ・ウイタエ(株)は勢いよく燃えていた。


 現場に常駐していた警察官に事情聴取を受けたところ、なんでも会社幹部であった権田が発狂し、今まで脅迫まがいに浄水器を売りつけていた事犯を自ら所轄に連絡し、それを知った肝の小さな取締役が自ら多年に渡る粉飾決算や脱税などを自供し、結果世を儚んだ権田が密かに通じていた女子社員と無理心中を図ったとのことだった。


 当然ながら上総は失業した。


「というか、会社がこの世から消え失せちゃいましたとさ、とほほ」


 すでにこの一件は全国区でニュースになったが、秋葉原駅完全封鎖の大きさに食われてあまり目立つトピックではないことが唯一の救いである。


「ここでこうしていてもしょうがないし。帰るか」


 トボトボと自宅に向かって帰路を取る。山手線は現在緊急措置として全線不通となっており、金もない上総は長い距離を鍛えぬいた足で平然と歩き通した。


「……電車に乗らずみんな歩けばいいんだよな。江戸の時代に戻れよ」


 かなり無茶苦茶ないい分だが、本日の疾風怒濤なできごとに頭の処理が追いついていない。


「帰ってきちゃった」


 歩けば家にたどり着くのが当然だ。


「ちょっとマジで顔合わせづらいんですけど」


 それでも上総はここに戻る以外に選択肢がない。加えて紅との情事の一件もあり、また一晩無言で家を空けたこともあったうしろめたさに拍車がかかった。


「た、ただいま戻りました」

「おかえりなさい、カズサさまー」

「おかえりなさいませっ、勇者さま」


 予想に反してリリアーヌとクリスがとてとてと軽い足取りで出迎えてくれた。


 いつもしあわせにこにことゆるーい笑顔。


「あ、ああ。た、ただいま」


 上総は無断で家を空けたことをさぞかし責められるだろうと思っていたのだが、なにごともなかったかのようなふたりの反応に返って強いとまどいを隠せない。


「どうしましたカズサさま? 本日もお勤めご苦労さまでした。湯を沸かしておきましたのでごゆるりと疲れを癒してくださいな」


「あ、あああ、ありがとう」


 あくまで自然な形で上着を脱がせられる。近づいたリリアーヌからふわりとした甘いような匂いが鼻先をかすめた。


 よく見るとしっとり髪が潤んでいる。先に身体を清めたのだろうか、今朝ほどの紅とのやり取りを思い出し頭の一部が熱くなった。


 服を脱いでバスルームに入る。


 ノズルを捻って出てきた冷たい水に心臓が止まりそうになった。


「カズサさま、今日の夕餉はカズサさまのお好きなシチュウですよう」


 ガラス越しに甘ったるいリリアーヌの舌っ足らずな声が聞こえてきた。


 熱いシャワーを浴びたらいくらか頭の中がスッキリした。


 ふたりに告げよう。

 正直に。

 無職になったことを。


 最低でも失業保険は出るはずだから、その間に次の仕事を探すのだ。


 自分は外聞ばかり気にして、この世界に戻ってからまともに生きてこなかったツケが回ってきたのかもしれない。


 レンガ積みでも汚れ仕事でもなんだってやってやる。


 リリアーヌとクリスを飢えさせたりはしない。ふたりがこの世界で頼れるのは俺だけなのだ。


「紅のことは……ま、いっか」


 その程度の小狡さは残っていた上総であった。


 湯船に浸かってぶくぶくと泡を吐く。ジックリと汗を流して野良犬のようにぶるるっと頭を振ると水滴があたりに散った。


「へへっ。ざまーみろってんだ」


 手拭いで身体の水分を拭って鼻歌まじりにドアを開けるとバスタオルを持って立っていたリリアーヌがあわわと口をOの字に開いて硬直していた。


「ちょっ、なっ、なんで!」


「え、あ、その、えとっ。お身体を、お拭きいたしますう」


 消え入るような声で、それでもリリアーヌは跪くと、呆然と突っ立つ上総の身体を下から丁寧に拭きはじめた。


(ちょっ、待っ、これどういうお店のサービス? はわわ)


 リリアーヌは恥ずかしがりながらも、一生懸命上総の身体をごしごしと拭いている。彼女は思い切りかがんでいるので、ざっくり空いた胸元から豊満な胸の谷間がモロ見えして上総の孝行息子は雄々しいまでに存在を主張した。


「あ……」

「はうあ!」


 リリアーヌは口をもごもご動かすと酸素を求める金魚のように口をパクパクした。


 やや厚ぼったいぷっくりとしたセクシーな唇がぷるぷる震えている。ごくりと、自然に生唾を呑み込んだ。


「す、すごいですわ……カズサさま、お苦しそう……」


 なんだこれは、なんだこれは? もしかして、ここから再びイケナイ状況に突入していくなんて、ダメダメ、キッチンではクリスがジャージャー料理してる最中だし、アレ? なんかこういうAV以前見たような気がタイトルはジャンルはさすがだぜDMM――。


 リリアーヌの瞳は熱っぽく強い火が灯っていた。


 旅をしていたときには感じなかった女として熟したたぐいのものだ。


 長くたっぷりした髪が彼女が顔をわずかに下げると同じくしてザッと流れて片側を隠した。


「お慰め、いたします」


 なにを慰めるんだって! ボクにはちっともわからないよ?


「はいはーい、ブレイクブレイクーっ! おふたりともー、クリスさんの美味しいお夕食ができましたので手をお清めになって移動してくださいねー!」


「きゃあっ」

「うおあっ」


 ガンガンガンとフライパンを叩きながらクリスが突如として乱入してきた。


「きゃあー勇者さまそんな恰好でクリスこまっちゃうー」


 わざとらしく棒読みでクリスは身体をくねらせウインクを送ってきた。


「あ、ああ、そうだな。リリアーヌ、あとは自分でやるから」


 冷や水をぶっかけられた気分で上総は素早くバスタオルを自分の腰に巻きつけた。


 いくらなんでもこの状況でリリアーヌにご奉仕させるほど心臓が強いわけでもない。


 そもそもいくらお互い好意を抱いているとハッキリわかっていても、こうも冷たい視線に晒されたまま現実を逸脱できる人間は早々いないものだ。


「クリス……わたくしはですね」


「姫さま、どうかいたしましたか? 姫さまのクリスはいつでも職務に忠実ですよ」


「もう、知りませんっ」


 リリアーヌは頭からずり落ちそうになった銀のティアラの位置を直しながら腕組みする自分のメイドの挑戦的な目を真っ向から睨み据えた。


 上総はバチバチと火花を散らす両者から逃げるようにどたどたと自室まで移動すると、手早く部屋着のスエットに着替えた。


 ううむ。別にこういうシチュが嫌いなわけじゃないし腰抜けってわけでもないぞ。


 天がまだ俺にリリアーヌをお与えにならないだけだ、と上総は心中で謎の自己弁護を行った。


 現実としてすでにロムレス王女の処女は上総によって散らされているのだが、彼の記憶にはない。


 とりあえず気を落ち着けて、と。


 上総が自室のテーブルに頬杖を突いていると、しばらくして女同士の話し合いが終わったのか、やや髪を乱したふたりが無言のまま入ってきた。


 リリアーヌが楚々と上総の隣に当然のように腰かけるとクリスが給仕をはじめた。目の前に置かれたカップからはプンと脂肪の強い香りが漂う。


「ロムレス茶です。カズサさまはこれ、お好きでしたよね」


 リリアーヌがにっこりと笑ってクリスが茶をそそいだカップに視線を落とした。


「ああ、懐かしいな」


 いわゆるバター茶のたぐいである。煮だした茶にたっぷりとバターを溶かし、塩とミルクを混ぜ込んだスープに近い飲み物だ。


「トウキョウの市は新鮮なミルクが手に入るので便利ですねー。先ほど買って来たばかりですから美味しいですよう」


 クリスが空になった牛乳パックを見せながらコロコロと笑った。


「てか、ふたりだけでスーパーに行ったのか? 大丈夫だった?」


「ええ。わたくしたち市の皆さま方に大変親切にしていただきましたわ」


「トウキョウ村の民は異国人であるにもかかわらず、それはもう親身にしてくださいましたー」


「そっか」


 上総はカップのロムレス茶を飲んだ。じんわりとあたたかい。ホロホロと積もったわだかまりと罪悪感がほどけていくようだった。


「だから、カズサさまはわたくしたちのことなどお気になさらず、お好きなようになさってくださいませ」


「そうですよ、姫さまの仰るとおりでございます。なになに。私はこれでも子守とか炊事は得意なんですからっ。つまらぬ日常の雑事などにお悩みなさっては、私も悲しいです」


「そうですよ、カズサさま。わたくしたちはカズサさまのお手を煩わせるためにこの世界に来たのでありませぬ。ロムレスを救ってくれた恩を命を懸けて返しにきたのです。ロムレス人の誇りにかけて、そしてお慕いするカズサさまのためならわたくし、骨と皮だけになってもお支え致します。あなたさまがなんらかかわりのないわたくしたちの世界を救ってくれた、貴い魂に報いなければ、この血に流れるロムスの誇りと名誉を穢すことになってしまいます。さすればわたくしは、地下の祖先の霊にどんな顔をして会えばよいのでしょうか」


 リリアーヌの真摯さが宿った瞳。クリスの澄み切った眼。上総はがっくりと首を折ると犯行を自供した……のではなく、


 自分が馘首になったことと、秋葉原駅が正体不明の怪物に占拠されていることをわだかまりなく話しはじめた。


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